君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

じいさん宣言

2019.04.22

じいさん1
認めたくはないものの、一つの区切り(元号ではない)が来て、どこをどう見ても「じいさん」に間違いないという状況に立ち至りました。かくなる上はと開き直って、これから死ぬまでじいさんをやっていく覚悟です。
自分自身が若い頃から「長幼の序」など意に介さずにきたバチが当たって、いまさら若いモンに「じいさんを敬え」などとは言えません。その上、よそのじいさんたちを観察していると、じいさん特有の悪癖というか悪弊というか、若い人たちに嫌われる要素が多々あることに気づきます。自分のことを棚に上げて言うのもナンですが。
朝の連続テレビ小説で草刈正雄演じるじいさんが「一番悪いのは他人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は他人をアテにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるのだ」なんて名ゼリフを吐くのは、あれはドラマだからであって、実際にそんないいことを言うじいさんは近頃お目にかかったことがありません。
先日亡くなった橋本治さんが30代初めに書いた文章に「ジイサンというのは、ひょっとしたら時代とは関係なく生きていられる自由な存在なのかもしらん」*というのがあります。これもまたじいさんの一面かもしれません。上司だの部下だのお客さんだの先生だの、もうなんにも関係ない。ようやく手に入れた自由、勝手気ままができる反面、誰も助けてはくれません。それ故に抑制が利かなくなってしまい、若いやつらばかりでなく、社会全体から疎まれ、置いてけぼりを食うということになってしまうようです。
*「よくない文章ドク本」所収「『現代青春小説』のガイドブックの無削除版」

カメラ好きは写真がうまくない?

2019.04.16

らんぷ坂 1
写真の愛好家やカメラマンにはよく知られている事実ですが、世には機械としてのカメラ自体が好きな人と、写真を撮ることが好きな人と、どちらでもない人の3種類の人たちが存在します。圧倒的に多いのが3番目であるのは言うまでもありません。観光地へ行って記念撮影する人たちや子どもの成長を記録する人たちも、3番目に入れてよいでしょう。
最近はスマホでランチの写真を撮ったり自撮りしたりしてSNSに投稿する人が増えています。このような人たちは、写真を撮ることが好きな人たちと分類してよさそうです。
実は先日、あるグループの写真展で自作を3点ばかり展示してもらいました。参加を申し込んだときは意識していなかったのですが、このグループはカメラ好き、いやカメラ蒐集マニアの集まりでした。ある参加者に「何台くらいお持ちなんですか?」と尋ねたら、「500台くらいですかね」と素っ気なく答えてくれました。さらに「最近は写真を撮るのが面倒になっちゃって、ほとんど撮らないんです。撮るときはスマホです」と続きました。
一般論ですが・・・と断っておきますが、カメラ好きは写真がうまくありません。写真を撮るのが好きな人のすべてが写真がうまいとも言えません。写真がうまい人は写真を撮るのが好きな人です。また、写真がうまい人はカメラ好きでもあります。
長年の観察から得た結論ですが、さて論理的に整合性がとれているのかどうか…。

してやられた上に期待はずれ

2019.03.20

kndle
ある朝、目覚めてすぐに枕元に置いているスマホを見ました。たまたまです。するとamazonがいまセールをやっているという記事が目に飛び込んできました。起床する時間まで少々間があったので、どれどれとamazonを覗いたのがいけませんでした。電子書籍リーダーのKindleも安くなっている。しかもセールの終了時間が迫っている。こりゃあ急いで買わなくては・・・。
というわけで、まだ十分に脳が覚せいしていないところでポチったのでありました。送られて来たのは一番安いモデルです。実は照明つきホワイトペーパーの上位モデルがほしかったのですが、あとで調べたらそちらは倍近いお値段でした。いくらセールでもそんなに安くなるはずない。まあ、安かったからいいか、と納得というか諦めというか、いずれにしてもまんまとamazonにしてやられたことに変りはありません。
Kindleを買う気になっていたのは、今期の直木賞を受賞した「宝島」を読みたかったからです。書店で見た単行本はものすごく厚くて重たい。私の読書は主に電車の中ですから、これを持ち歩くのはしんどいなあ。そこで電子書籍のファイルをダウンロードしたのですが、スマホではやはり読みにくい・・・と、amazonの手中に落ちた背景にはそんなことがありました。
そこまでして読んだ「宝島」なんですが、どうして評判がよいのかさっぱりわかりませんでした。たとえば人物描写がお粗末で、主人公である二人の男性の人物像が重なってしまって違いがわからない。ヤマトンチュー(本土の人)が戦後の沖縄の歴史を調べまくり、「いかにも沖縄」風の描写やエピソードや方言を総動員したみたいな小説と言ったらいいかな。文芸評論家ではないからただの感想ですが、私には期待はずれ。
さて、次はKindleで何を読もうかな。青空文庫から著作権の切れた作家の作品でもダウンロードしましょうかね。なにしろタダですから。

インターネットでは難しいかなあ

2019.03.12

猫さがし45087099_1645856702186680_8134915384315740160_n
Facebookに猫を探していますという投稿がありました。いずれも東京の郊外のお宅から失踪したようです。飼い主の必死の思いが伝わってきますね。見つかるとよいのですが、一般論として、猫探しにネットは効果が薄いのではないかと危惧します。猫の行動範囲はせいぜい数キロでしょう。となると、骨の折れる作業だとは思いますが、近所を回って電柱などにポスターを貼って行く方が効果的かもしれません。ネットの利用は手間なしではありますが、地域内での情報密度はかえって薄いと考えられます。
一般論としては広報も、地域が限定されればされるほどやりにくくなります。たとえば地域の中小病院の場合は、いわゆる広報活動よりも広告宣伝あるいは販促の手法の方が効果的だと思います。患者を集めたいという目的なら、医療圏の問題もあってなおさらです。
広報エージェントをやっていると、なんでも広報の手法で解決したくなりますが、広報には広報の得意な分野があり、得意でない部分は手を引いて、他の手法を考えるのが効率的であると自戒を込めて考えます。

メディアトレーニングは推理小説に似ている

2019.03.07

ナイルに
自慢をします。アガサ・クリスティの推理小説「ナイルに死す」、まだ殺人事件が起こる前に筋立てが読めてしまいました。かなり確信が持てたので、その後は小説家がどのようにストーリーを展開させるのかに関心が移りましたが、それはそれで楽しく読み進むことができました。こういう推理小説の読み方もあるんだなあというのが新たな発見でもありました。
実は読みながら、なんとなくこれは何かに似ているなあと気になっていたのですが、なんだかわかりませんでした。読み終わって、仕事をしているうちにハタと気がつきました。これはメディアトレーニングに似ている。
とくに危機管理広報のシミュレーショントレーニングでは、架空の事案を創作して、それに関する模擬記者会見や模擬取材を行います。トレーニングを受ける経営者や幹部社員のみなさんにとって現実感のある架空の事案をつくりあげる作業が一つのポイントなのですが、それが推理作家の創作プロセスと似ているのではないか、と気づいたのです。
架空の事案であっても、実際にありそうな真に迫ったストーリーであることが必須条件です。それを考えるのは一苦労なのですが、一方でちょっと面白い仕事でもあります。こんなこと誰も考えられないだろうなあ、と一人悦に入ったりしながらやっています・・・と、最後も自慢で終わります。

小賢しいことするんじゃね~や!

2019.03.01

禁煙
昼食に入った店のテーブルに、見慣れぬ金属製のプレートを発見しました。禁煙マークがあり、その横に見慣れぬマークがあります。「禁煙、Ploom TECHだけ」。たばこを吸わない筆者には、何のことかにわかに理解できませんでした。やがて、はは~んと推測できました。Ploom TECHって、電子タバコとか加熱タバコっていうやつの商標かな? ということは、加熱タバコだけは吸っていいよ、それもPloom TECHというブランドのものだけよ、ってこと?
店の熟年おねえさんに、「これって、たばこ屋が置いて行ったの?」とたずねたら、「そうです」という返事。これですべてが推測通りとはっきりしました。
マーケティングの手法としては見事ですね。よく考えたなあと思います。しかし、だんだん腹が立って来ました。小賢しいことするんじゃね~や!

nって何?

2019.02.26

統計計算機
自宅の机のひきだしを引っかき回していたら、古い電卓を見つけました。おお、まだそこにいたのか? これはただの電卓ではありません。統計計算専用の電卓です。
学校時代に統計を習った記憶はありません。数列から先はさっぱり理解できなかった数学オンチですから、模擬試験の結果と志望校の偏差値以外に統計とか確率なんかに関心を持つはずもありません。偏差値だって、その本当の意味するところは知りませんでした。ところが、マ-ケティングの仕事などをカジるようになると、統計の基礎を知らないと何を言っているのかさっぱりわからんなあ、ということになってしまいました。nもσもチンプンカンプンではねえ。
本を読んでもよくわからず、ついにセミナーに参加しました。最初に受けたセミナーでは、どのように計算したのか覚えていませんが、その後に参加したセミナーではこの統計電卓の使用が前提となっていました。
セミナーで教わった計算方法などはすべて忘れました。しかし、統計がどのようなものであるかはおおよそわかりました。サンプル数やサンプルサイズの重要性もおぼろげながら理解しました。それはその後の仕事に大いに役立ったと言えます。
統計電卓の電池はすでに消耗しきっていました。そう言えば何年か前に電池を交換した記憶があります。それ以来一度も使わないまま、再び電池が切れたのです。なんかさびしい気がして、またまた新しい電池に入れ替えました。でも、また使わないうちに電池切れになるのかも。そんなことなら、いっそのこと厚生労働省に寄付しようかな。

初恋の味は・・・

2019.02.18

カルピス
断捨離はくたびれます。体力を消耗します。精神的な疲労も思いのほか蓄積します。だからどんどん進めるわけには行きません。2週間にダンボール1箱ペースがやっとです。
先日、押入から1箱引っ張り出したら、古い写真がいっぱい入っていました。高校時代のスナップ写真、若いときカメラに凝って撮ったネガとプリント、子どもの写真、亡母が大事にしまっていた写真などなどです。一枚一枚丹念に見ていたら、それだけで1ヶ月はかかりそうで、考えるだけで疲労を感じます。
そこでパラパラとめくっていたら、思わぬ写真を発見しました。初めて好きになった同級生の写真です。と言っても写っているのはただの女子中学生。懐旧の情をもって眺めたのは事実ですが、少しもときめきません。「どうしてこの人を」というのが実感です。想い染めし相手を貶める形容詞は控えさせていただきますが、落胆してしまったことは白状します。20歳のときにこの写真を見たら違った気持になったかな。40歳だったらどうだったでしょう。そこのところはわかりませんが、この年になると極めて冷ややかに見てしまうのです。枯れちゃったのでしょうか。そう思うと少々残念ではあります。
カルピスが今年、発売から100周年を迎えるそうです。カルピスと言えば「初恋の味」なんてコピーがすぐに浮かんでくるのはある年代以上の人でしょうが、少しも甘酸っぱくはありません。この味は一体なんだろうとあれこれ考えて、やっと思いつきました。
初恋の味はホッピーの味
ホッピーだけをいくら飲んでも、苦いばかりで少しも酔うことはありません。

月刊住職は面白そう

2019.02.06

月刊住職
今日の朝日新聞の出版広告をぼんやり見ていたら、「月刊住職」の広告が目にとまりました。以前にも書いたことがありますが、いつもいつもこの雑誌の見出しは面白い。
「都道府県寺院密度と寺院消滅予測度と住民幸福度はつながっている」というのは、どんな記事なんでしょう。お寺の密度が高いと幸福なんでしょうか。お寺がなくなると不幸になるのかなあ。そう言えば過疎化が進むとお寺も維持できなくなると聞きました。どんな相関関係なんでしょうね。
「学生減 宗門大学11校の現状とサバイバル」 お寺さんが経営している大学を宗門大学と呼ぶんですね。京都のさる宗門大学の職員さんによるFacebookの書き込みを読むと、関西から北陸、四国の高校や予備校を軽自動車で行脚して説明会を開いておられるようです。
「終活世代にせまる親の葬儀と自分の葬儀」 お葬式の専門家であるお坊さんも困っているんですね。ちょっと意外。
「なぜ寺に奥の院があるか」 なるほど。本堂のさらに奥、山の上に奥の院があったりしますね。なぜなんでしょう。
「お寺のライトアップを必ず成功させる秘訣」 現世的なテーマで、思わず笑っちゃいました。桜の季節に京都などに行くと、ライトアップする夜間だけ高い別料金をとるお寺が少なくありません。あれはどうも気に入りませんが、おいしいビジネスなのでしょう。
「佐渡にウサギ観音が現れた訳」 これはなんだかわかりません。在家の人間にはどうでもいいいいようなことだけど。
「人工知能は何を変えるか」 お寺にもAIを活用する余地があるのでしょうか。お布施の額と葬儀の参列者の数を読み取って自動的にお経の長さを変えるとか・・・?
この雑誌を宣伝するつもりはありませんが、なんとなくユーモアを感じます。小難しい仏教哲学や説教などは全くなくて現世利益に徹しているところが潔い。買ってみたい気もするし、1,740円は高いような気もするし。

自画自賛否両論

2019.01.31

自画自賛
このブログをほめてくれる人がいました。学生時代からの友人ですが、その人も編集・ライター稼業のプロなので、わかる人にはわかるんだなあ、とこちらはいい気分になりました。
と、これは本当の話ですが、「友人がほめた」というのは他人からの評価で、それを「ここに書いた」というのは自画自賛というものでしょう。
少し前にこんな経験をしました。あるイベントが大変よい成果を得たので、終了後に担当者をほめようとしたまさにそのとき、その担当者自身が言い放ちました。「私ががんばったらうまく行ったんです」 その瞬間、ほめ言葉が引っ込んでしまいました。ムムムムム。 ほめたいと思ったのに、ほめられなくなってしまいました。自画自賛以上にこちらがほめて上げればよいようなものですが、そんな気力も吹っ飛んでしまいました。お互いに、こんな不幸なことはありません。
長い会社勤めの間には、一生懸命仕事をしてそれなりの実績を上げたにもかかわらず、ちっともほめられない、という経験をずいぶんしてきました。実にくやしい。誰かに自慢したい。その気持が抑えられなかったこともしばしばですが、自分から口に出して逆効果になってしまったことが多かったかな。かと言って、評価されるまで何年も待つというのもねえ。「黙っていれば必ず誰かが見てくれているもんだよ」などというおためごかしの常套句ほど怪しいものはありませんが、ときたまその実例に遭遇するから話がややこしくなってしまいます。
自分の手柄でもないことをすべて自分の実績だと本社にレポートする外国人マネージャーもいました。そんなインチキレポートをそのまま信じる上司の目も節穴だと思いますが、それが見事に成功したと思われる実例もありましたから、このあたりがまた実に難しい。
企業人ではなくて、企業そのものの場合は黙っているばかりではいつまで経っても評価されません。評価されるまでの時間をコストと考えるべきだと思います。いいことをしたら、それをアナウンスするのは説明責任の一部と言えるでしょう。人事評価と広報活動とは分けて考えないといけませんね。

黄色いベスト

2019.01.29

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フランスの抗議運動の報道が日本では少なくなりましたが、実際はますます盛んなようです。そのデモの参加者が着用している黄色いベスト。あれはなかなかいいアイデアだと思います。デモで着用するのもアイデアではありますが、クルマに黄色いベストの搭載を義務づけたことの方です。
フランスでは、故障などでクルマを離れるときには、このベストを着用することが義務づけられていると聞きました。日本では三角の表示板を後方に置くことになっていますが、それを置きに行くのも、高速道路ならかなりコワイ思いをするでしょう。そのときに黄色いベストがあればちょっとは安心かな。そもそも最近は、新車を買っても発煙筒は車内に設置されていますが、三角表示板はついてきません。わざわざ購入する必要があります。
日本でも黄色いベストを義務づけたらどうでしょう。と、そう提案したいところですが、たぶん実現しないでしょうね。それによって大規模なデモが起きたら困ると、為政者たちはきっと考えるでしょうから。
(写真は、2018年4月のパリで。まだベストを着ていない)

屋上の楽園

2019.01.18

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すっかり関心の圏外に去ってしまった存在があります。私にはデパートの屋上もそれ。昔は小さな遊園地などがありましたが、いまの世の中にそんなものが残っているはずもなく、何があるのかわからないし用もないから足を向けることもない。そのうちにデパ屋のことなどすっかり忘れてしまいました。それがひょんなことから銀座のデパートの屋上へ上がることになったのでした。
そもそもエレベーターの「R」ボタンが作動しないデパートがあります。レストランのある最上階からさらに階段を上らないと屋上へ出られなかったりします。デパートとしても、屋上はできれば上がってほしくないスペースなのかもしれません。
まず訪れたのは銀座三越の屋上。半分はレストランになっていますが、もう半分は立入禁止の芝生の周りに短い遊歩道ができていてベンチもある。小さい子を遊ばせているお母さんがいました。そこで驚いたのは、神仏両方の祠があって社務所らしきものに係員が常駐していたことです。神や仏が機能している空間であるようです。もう一つ印象に残ったのは、あの和光の時計が見下ろせたことです。と言っても高い柵があって半分しか見えませんが、ちょっと非日常なビューを楽しむことができました。
次は松屋銀座。階段を上がったらゴルフ練習場の入口でした。一部のエレベーターでないと屋上には上がれないようです。開放されているスペースは小さく眺望もありませんが、ここにはお寺がありました。ガラス窓のウチソトに座れるスペースがあって、そこでコンビニ弁当を食べている人がいました。ここは穴場です。知る人ぞ知る隠れ家ランチスペースです。
最後は旧松坂屋のGINZA SIXです。高い、広い。全周にわたって遊歩道があって、銀座を上から見下ろせます。スカイツリーも東京タワーも見えます。屋上庭園もよく手入れされているし、中央の広場もな~んにもなく広々していて、天気がよければ異次元感のある快適な空間です。まだ外国人観光客には知られていないようです。銀座を歩いていて疲れたら、ここで一休みがお薦めです。

T先生へ

2019.01.11

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ご入院、手術とうかがいました。いろいろとご心配でしょうが、現代医学は進んでおりますから、きっと手術は成功するだろうと思います。
周囲にも何人か同じ病気を患った者がおりますが、共通しているのはみなヘビースモーカーであることです。聞いた話では、タバコを吸うと唾液に有害物質が混じり、長年の間に食道を侵すのだとか。こわい話です。きっと病院の先生からも「これを機会に禁煙してください」と強く指導を受けられたのではないかと思います。それに対してどのようにお考えになったのか、少々気になっております。やはりタバコがいけなかったのだなあ、と心底気づかれたのでしょうか。いや、たまたまだよ、タバコを吸っていても罹らない人も多いじゃないかとお考えになったのか。
肉親や知人のヘビースモーカーたちは、ほかにも肺がん、膵臓がん、胆嚢がんなどにかかって死んで行きました。タバコの害は専門家の指摘を待つまでまでもなく、実感しております。ご自身がご病気になられた上は、その「実感」ははるかに現実的なものではないかと考えるのですが、いかがでしょう。
ご病気になる前のことですが、居酒屋などが全面禁煙になったら「俺はどうやって生きていけばいいのか」とおっしゃっておられたそうですが、これからどうやって生きて行かれるおつもりですか。
ご尽力いただいた健康増進法改正案はずいぶん抜け穴だらけです。このままでよいのかどうか、お元気になられましたら改めてご見解をうかがいたいところです。
末筆ながら、一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

まなじりを決する必要はなくなった?

2019.01.07


今年の5月から元号が変わるそうですが、昭和が平成に変わったときほど、元号不要論がマスコミに登場しないことに少し驚いています。
では、自分自身は過去の出来事を元号で記憶しているのか西暦で記憶しているのか、と考えてみました。
生まれた年は昭和で覚えていましたが、いつしか西暦の方が先に浮かぶようになりました。ネットで申し込みなどをするときに西暦での記入を求められることが多くなったことが影響していると思います。
祖父の生まれ年は元号ですが、父の生年は元号と西暦が同時に浮かびます。明治33年つまり1900年という区切りのよい年だからです。母の生年は、父との年齢差11年を足すことで1911年と計算できますが、大正に変わる前年と記憶してきました。明治44年です。
小学校に入学した年は昭和で記憶しています。大学を卒業した年は西暦です。就職した会社が外資系だったからかもしれません。転職した年も西暦です。
大病が見つかった年は暦年ではなく年齢で覚えていますが、その前年に西暦2000年の大騒ぎがあって、1月2日の朝、お屠蘇に酔っ払ったまま対応のために出社しました。あの時点ではその後の病気を知らなかったのだなあ、と感慨にふけることがあります。
会社をやめてココノッツを立ち上げた年は2008年と西暦で覚えているので、平成何年だったか咄嗟には思い出せません。
振り返ってみると、近年になればなるほど西暦で記憶している事柄が多いような気がします。平成も30年になりますが、生まれたときから昭和が身体にしみ込んでいるので、一瞬戸惑うのです。昭和の年に25を加えれば容易に西暦に転換できましたが、平成の年から11を引くと西暦になることは、いまさらながら先ほど調べて知りました。前世紀なら平成の年号に1988を足すことで西暦に転換できます。そんなことをする人はまずいないでしょう。
日常生活はすでに西暦を中心に動いていて、元号はいわば文学的な存在と言えるかもしれません。伝統だから元号があってもいいよね、とそんな感じでしょうか。だからまなじり決して元号の存続を論じることも少なくなってきたのか、とかんぐっております。

主客転倒

2018.12.25

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先日、ある県が主催するセミナーに参加してみました。
数日前に発症したふくらはぎの肉離れのために、足を引きずり引きずりビルの最上階の会場に到達したときは、すでに県知事のご挨拶が始まっていました。
ほぼ満員。係の職員さんに案内されて、なんとか空席に滑り込みました。狭い椅子の上でカバン、コート、何種類ものレジメ、重い参考資料などをさばくのに四苦八苦してようやく前を向いたら、知事のご挨拶が終わりました。
落ち着いて周囲を見回しましたが、何か違和感があるんです。案内された席は中央よりやや後。テーブルはありません。ところが中央より前の席にはテーブルがある。しかも名札が立っています。そこに関係団体や県下市町村の名称が書かれています。報道席もあります。はは~ん。そこですべてを理解しました。
セミナーの目的は、広く産業界の人たちに県の施策を聞いてもらうところにありました。ところが招待された産業界の人たちが後の狭い席で、県の関係者が前のテーブル席。よくあるヤツです。主客転倒。それに気づかぬのか気がつかない振りをしているのか・・・。
セミナーを開催することによる真の効果を求めるよりも、セミナーを開催したという実績の方が県の担当者には大切なのだ、とここで断言してしまいましょう。こういうことがお役所のイベントでは多すぎます。私は員数合わせの一人として招待されただけですから(これもお役所的形式主義の一つです)どうでもよいのですが、県民の税金を使ってのイベントがこれではねえ。

紅花墨

2018.12.19

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「紅花墨」(別名「お花墨」)という墨を覚えていますか? 日本の墨のスタンダード。小学校で初めて習字を習うとき、お習字セットに入っていたかもしれません。特徴的なデザインです。
ところがこのデザインは意匠登録されておらず、「紅花墨」という商品名も商標登録されていません。だからどこのメーカーでも同じ商品名の似たデザインの墨をつくることができる、ということを奈良の老舗墨屋である古梅園の店員さんから教えてもらいました。そこの何代目かがオリジナルをつくった当時は、意匠登録や商標登録をするような時代ではなかったと説明を受けました。江戸時代の話のようです。
お習字セットに入っていた「紅花墨」は、だから古梅園のオリジナル品でなかったかもしれません。その可能性が高い。しかも、どこの「紅花墨」にもいくつかの等級があり、小学生用は最低ランクのものだっただろうと想像がつきます。
上の写真の中央が現在の古梅園製の紅花墨。右は日本で最も有名な書道具・香の老舗の製品(品質検査ではねられたキズ墨なので商品名の部分に色が入っていません)。左はどこの製品かわからない使い古した昔々の「紅花墨」。
左の古墨は論外として、中央と右については一流の書家ならともかく、素人には磨り心地や墨の色などの違いはわかりません。ところが、上のような話を聞かされた後では、オリジナルの方がどことなくよいような気がします。
これはブランド論の初歩の初歩。当たり前過ぎることではありますが、実感として再認識したのでありました。

「批判」は疲れる

2018.12.17

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中小企業に勤める40代の会社員が言いました。
「最近、朝日新聞とかサンデーモーニングとか見るのやんなっちゃった。もうどうでもいいような気がして」
若い年齢層の保守化が指摘されています。“ここにもいたか”と思ったのですが、一方で“わかる気もするなあ”とも感じたのでした。
私は複数のTwitterアカウントを持っています。世の中の生の動向を知ろうと、それぞれテーマを変えて読んでいます。その一つに、現政権に批判的な学者やコラムニストや芸人たちを中心にフォローしているものがあります。毎日寝る前にそれをチェックしていますが、読んでいると何となく気伏せになってくる。疲れるような気分を感じます。
議論というものは本質的に緊張状態を作り出します。とくに批判は緊張状態を高めます。その正邪に関わらず、批判的な言論を読んでいるだけで無意識に緊張するようです。
たとえばどんな提案にも否定から入る上司っていますね。こういう人と話すときは緊張します。また、異論ばかり唱える部下と対するときもそれなりに緊張します。そんな職場では常に緊張状態が起こります。こちらに闘志があるうちは面白いですが、疲れてくるとそこから逃げ出したくなる。そのうち「もうどうでもいいよ」と妥協したくなります。
現政権側にでたらめなことが多くても野党支持者が一向に増えないのは、こういう心理も一因ではないか、と思いつきました。批判勢力が批判すればするほど、それを聞いている人たちは心理的に疲れてしまう。
40代会社員も、安月給での長時間労働で疲弊しています。新聞やテレビでこれ以上疲弊させられてはたまらない、という意識が働いているのかもしれません。何事にも「どうぞどうぞ」と言っている方が世の中丸く収まって平和です。見たくないものは見ない方が気分は穏やかです。1970年代、学生の反体制運動が盛り上がっていた頃、「私、何も壊したくないんです」と言い放った女子学生がいました。その気持がいまになって少し理解できる気がします。それでいいとは思いませんが。

ブログのタイトルを変えました

2018.12.14

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ブログのタイトルを昨日からちょっと変えました。これまでは株式会社ココノッツの代表として書いていたので「ココノッツブログ」でよかったのですが、5月に代表をおりたので、書き手としての責任を明らかにするために自分の名前を入れることにしました。「君島邦雄のココノッツブログ」です。
お気づきでしょうか。このブログではこれまで「私は」という一人称をできるだけ使わないように心がけてきました。君島個人の考え方と株式会社ココノッツの法人としての考え方には、ほんの少し違いが存在するからです。しかし、もういいや。これからは自分の考えであることを徐々に強調して行きます。
また同時に、この「君島邦雄のココノッツブログ」のミラーサイトのようなものをこしらえました。「君島邦雄のGuessのかんぐり」です。
当面は両方のサイトに同じことを書くつもりですが、少しずつ枝分かれして行くかもしれません。まあ、やってみないとわかりませんが・・・。

神様仏様、なぜ写真がお嫌いなのですか?

2018.12.04

飛鳥大仏
有名な神社仏閣ではたいていご神体やご本尊を撮影禁止にしています。あれはなぜでしょう?とネットで検索してみましたが、どうにも腑に落ちません。
信仰の対象にカメラを向けるとは何事ぞ、ということなら理屈もへったくれもありません。その神社やお寺のお考えなのですから。
しかし、そこまで考えているのかなあ、というのが素朴な疑問です。
仏像や美術品がフラッシュ光を浴びると褪色が進むからという説もあるようですが、明確に証明されているんだかいないんだか。ネットではよくわかりませんでした。フラッシュが問題なら、「撮影禁止」ではなくて「ストロボ禁止」にすればよさそうなものです。神社には仏像のようなものがありませんから、これは理由になりにくい。ご神体が鏡ならフラッシュなど跳ね返してしまうでしょう。
写真を撮る人が多いと人の流れが滞るから、というのも理由に挙げられそうですが、さびれたお宮さんでも禁止しているところがあります。ルーブル美術館では押し合いへし合いで観光客がモナリザを撮影しています。
著作権はとうの昔に切れているはずですが、ウチの所有物の写真を勝手に商業印刷物に掲載されてはたまらん。その際には掲載料をいただきたい、ということはありそうです。著作権法で「専ら美術の著作物の複製物の販売を目的として複製し、又はその複製物を販売する場合」は保護されることになっています。が、そういう事例を発見したらその都度個別に対応する、で十分なようにも思います。
繰り返しになりますが、撮影禁止に科学的な根拠はかなり希薄なのではないか、と強く疑っております。
上の写真は、明日香村にある飛鳥寺の飛鳥大仏です。日本最古にして1400年間ここに座ったまま動いていない唯一の仏像だそうです。国の重要文化財でもありますが、どうぞ写真を撮ってくださいと言われました。その理由は・・・伺うのを忘れました。残念。

公共利益が個人利益を上回るとき

2018.11.26

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カルロス・ゴーン氏の公私混同ぶりが連日これでもかこれでもかと報じられています。それらが真実だとすれば、そのスケールの大きさには驚くばかりです。しかし、企業経営者によるちっぽけなスケールの公私混同なら日本中いたるところで見られます。
ゴーン氏は豪華な家族旅行の費用まで日産に出させていたそうですが、海外子会社へ出張するたびに夫婦同伴で出かけるサラリーマン社長もいます。海外でのレセプションには夫婦同伴が当たり前であるとの理屈ですが、一国の元首や首相ではあるまいし・・・。その一方で社員の海外出張は厳しく制限したりします。
どうして周囲の役員や幹部がゴーン氏の公私混同に見て見ぬふりをしていたのか、と批判されています。批判は当然ですが、長年会社員生活をしてきた者にはわからぬでもありません。比較的小さな公私混同なら、投資家や企業を含む「公共の利益」と組織人としての「自己利益」を天秤にかけて自己利益を優先する、つまり見て見ぬふりをする人が多いでしょう。しかし、だんだんと不正のスケールが大きくなると、企業の経営に影響を及ぼしかねない。企業の存続が覚束なくなってしまえば、個人の利益も危うくなってしまいます。自己利益より公共利益を優先せざるを得ない事態となります。そこに至って、そこまで封印してきた個人の倫理観もにわかに頭をもたげてきたりして、突然カタストロフィが起きてしまいます。
報道を見ていると、今回の事件がそんなふうに見えてきました。

はい寿命です

2018.11.19

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テレビ受像器が最近また売れ始めそうだという記事を読みました。地上波テレビがデジタル化されたのは2011年7月で、その頃購入した受像器がそろそろ買い換え時期を迎えているためだそうです。そんなものかなあ、と他人事のように思っていたら、自宅のテレビが突然壊れました。時限爆弾でも入っているのでしょうか。○○○タイマー(○○○の部分にはメーカー名が入る)などという悪口もしばしば耳にしますが、その○○○製ではありません。大昔から電球は一定時間で切れるように作られているという伝説がささやかれてきました。どちらの電機メーカーでも品質管理の技術がさらに悪賢い(失礼!)方向に進歩しているのかもしれません。
修理サービスを呼べば直るのでしょうが、この際、思い切って買い換えようと量販店へ出かけました。置き場所が狭いので大きなテレビは置けません。これまでは32型。最近は画面の縁が薄くなったのでギリギリ40型が入りそうです。どこのメーカーの時限爆弾・・・いやテレビがいいかなと楽しみに出かけたら、「4K対応」(だからと言ってそのまま4Kが映るわけではありません)の40型は1メーカーの1機種しか置いてありません。選択の余地なし。いまやワンルームでも50インチ、60インチといった大画面が主流で、40型なんてミソっかすなんですね。
そういうわけで新しいテレビを使い始めましたが、ワクワク感はなし。何も変わり映えしません。当たり前ですね、映る番組は同じなんですから。いくらかは画面が美しくなったかなと意識的に思うようにして、心を落ち着かせることにしました。
数日たったときです。突然見えなくなってしまいました。時限爆弾ではなくて導火線つきの爆薬であったか・・・これは販売店で交換してもらわなくてはと思ったら、コンセントの抜き差しで直ってしまいました。どうやらAndroidの更新が関係していたようです。知らぬ間にテレビにはOSが仕組まれるようになっていたのでした。そういうことなら時限爆弾を仕掛けなくとも、遠隔操作で「はい寿命です」ということも可能でしょう。なんかいや~なカンジですが・・・。

読まない時代

2018.11.13

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世の中の人たちが読む本と、自分が好んで読む本との間の距離が広がってきたなあ、と実感します。以前からベストセラーと呼ばれる本は読む気が起こらず、マイナーな作家の小説などが好みでしたが、それどころではない乖離が存在することに気づくのです。
ショックを受けたのは近所の本屋に立ち寄ったときです。近くに蔦屋書店とBOOK・OFFがそれぞれ大きな店を構えているのですが、どちらへ行っても目的とする本や興味を惹かれる本を見つけることができません。レアな専門書などを求めているわけではありません。一例を挙げれば、アガサ・クリスティのポアロ物が見つからないのです。いまやミステリー小説の古典など誰も読まなくなったようです。若い日本のミステリー作家の文庫本だけが本棚で生き残っていました。
さらに気になるのは、蔦屋書店にしてもBOOK・OFFにしても本の売場が少しずつ縮小していることです。コミック売場の変化は実感できませんが、それも電子書籍に食われているのかもしれません。
なにはともあれ、みんな本を読まなくなりました。筆者の周囲を見回しても、一部の高齢者を除いて読書する人はだ~れもいません。たまに「これ、面白いよ」とか「これは参考になるよ」と渡しても、いつまでもいつまでも机の上に積まれたままなのです。

癒されません!

2018.11.05

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「癒される」ってのがよくわかりません。
景色のよいところからテレビ中継などすると、レポーターはしばしば「癒されます」などと発言していますが、どんな状態を表現しているのでしょうね。美しい風景に癒されたレポーターさんには、その前と後でどんな変化が生じたのでしょうか。そこのところがよくわからない。「癒す」というのは本来、病気やケガを「治す」という意味ですから。
そもそも何を癒されるのでしょう。悩み? 気の迷い? ストレス? 不安感? 抑うつ状態?・・・。
雄大な自然を見たら誰でもよい気分になります。清々とした気分になって、思い悩んでいたことを一時忘れることはあり得る話です。でも、山から下りたらもとに戻ってしまうのではないですか。癒されたのはほんの一瞬ということになりそうです。
たしかに便利な使い方ではあります。山でも川でもかわいい動物のこどもでも、「癒されるう!」ですんでしまいますから。
「癒される」がこんな風に使われ出したのは、20世紀末から21世紀初めころのことだとネットにありました。だから古い人間には「癒される」は身体にしみ込んでいません。いい悪いはともかくとして、癒される実感がわかないというのが正直なところです。

コンシンのスポーツ

2018.10.18

新聞記者OB氏の会話を聞くともなく聞いていたら、業界団体というのは談合するところだと力説しているのでひっくり返りました。筆者が関係している業界団体では、総会などが始まる前に、独禁法で禁じられていることはしないようにという注意書きが毎回配布されます。それほど神経を使っている業界もあるというのに・・・。
筆者が初めて業界団体と関わりを持ったのは四半世紀ほど前のことですが、最初に驚いたのは、業界の人たちが時間さえあればゴルフの話をしていることです。天下りの専務理事も業界人に輪をかけたゴルフ好きでしたから、話はいつまでもいつまでも、尽きることなく続きました。業界団体というものが業界に属する人たちの懇親の場でもあることを強く印象づけられたのでした。懇親の間に行政やビジネスの話をする。行政やビジネスの話の間にゴルフの話をする。新聞記者OB氏に疑われるのもやむを得ないかもしれません。
もはや旧聞に属しますが、利害関係者と一緒にゴルフをしたことをどう考えているかとコメンテーターから質問されて、「ゴルフに偏見をもっておられると思います。いまオリンピックの種目になってますから。ゴルフがダメでですね、テニスはいいのか、将棋はいいのか」などとわけのわからない答えをした与党総裁兼内閣総理大臣。擁護するつもりはありませんが、このはぐらかしにも一面の真実が反映しているような気がします。ゴルフは本質的に「争うスポーツ」ではなくて「懇親のスポーツ」なのです。与党総裁の言葉にサッカーやラグビーや柔道が出て来ないのは偶然ではありません。
蛇足ですが、筆者も土曜日ごとにゴルフの練習に通っていた時期があります。勤め先では自らの名前を冠したコンペを主催していました。そんなわけで、ほとんど上達はしませんでしたが決してゴルフを知らないわけでも偏見をもっているわけでもありません。

これは売れました

2018.09.21

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低迷する古書相場の中にあっても、値のつきそうなものが押入の奥にあることを思い出しました。古い自動車雑誌です。中学生の頃から小遣いの大半を費やして購入していたもの。創刊号から5年分は完璧に揃っています。
先日、神保町に行ったついでに、自動車雑誌を専門に扱う古書店に寄ってみました。
薄暗い照明の下で禿頭の主人が暇そうにしていたので、こういう古雑誌があるんですが買い取っていただけますかと尋ねたら、答えは、
「現物を見ないとわからない」
という素っ気ないものでした。
「創刊号などは、どのくらいで売れますか?」
「そういうことには答えていません」
あくまでも無愛想です。こんな店には売ってやるものかと、早々に退散しました。
そこでネット検索です。別の専門業者さんに電話したら、都下の自宅まで受け取りに行きますという返事でした。商売はこれでなくてはいけません。
ダンボール箱2つ。先に売った古書の40倍の値で引き取ってもらえました。
これで中学生の思い出が一つ家の中から消えました。とくに感傷はありません。これからどんどん押入と本棚のスペースが拡がりそうです。

また会う日はもう来ない

2018.09.20

もう使わないあれこれを整理しようと考え始めました。
もともと好奇心の強い質(たち)で、あれやこれやに手を出してきましたが、諸般の事情で続けられなくなった遊びや趣味が少なくありません。それらに使用する材料や道具類を、いつかまた使う日が来るだろうと押入や物置の奥で長い冬眠をさせていたのです。「捨てられない症候群」の自覚症状は全くありませんが、そんなこんなで雑物が家のあちこちに堆積しています。たとえば・・・具体的な品名を挙げるのは恥しいのでやめておきましょう。
いまになってみると、なんでこんなものを取っておいたんだろうと思うのですが、その時は、また会う日があることを確信していたのです。しかし、これからそのような麗しき日々が来ることはありそうもありません。それにしても、どこから手をつけたらよいのやら・・・。
一番の問題は書籍類です。棚に前後2列に並べていたところ、最近、何枚かの棚板がゆがんで割れてきてしまいました。こうなると一刻の猶予もできません。大地震が来る前に命取りになりそうです。とりあえず面白くなかった本、興味を失った本、時代とともに価値を失った本などダンボール一箱分を業者へ送ったら435円振り込まれてきました。いまは史上最も古書価格が低い時代なのだそうです。周囲を見回しても、スマホを眺めてばかりで読書をする人はほとんどいませんから、さもあらんと納得せざるを得ません。しかし、売った本の20倍ほどがまだ残っています。さてさて・・・。(次回へつづく)

引っかかりませんでした

2018.09.06

長年、腸の不調に悩まされてきました。処方薬や漢方などいろいろ試してみたのですが全く改善しません。ところが偶然に、干し柿がいくらか症状を和らげることに気がつきました。そこで八百屋や果物屋で箱買いしたり、ネット通販で購入したりしました。あちこちの業者から取り寄せましたが、その一つに「かぶちゃん農園」というのがありました。
そうです。いまニュースになっているケフィア事業振興会の一子会社です。もっとも初めは「ケフィア・・・」とは知らず、ただの農園だと思っていました。品質は安定していて、決して悪くありません。だから度々購入していました。
そのうち、「オーナー制度」のDMが郵送されて来るようになりました。なんとなく胡散臭くて干し柿の購入もやめてしまいましたが、1年ほど前からは週に何度もDMが届くようになりました。なりふり構わずといった必死さが伝わってきました。よほど資金繰りが苦しいんだろうなあと思っていましたが、その推測が見事に当たっていたことがわかって秘かに鼻を高くしております
大丈夫です。引っかかってはおりませんよ。手元資金に余裕がなかったからというのが真相でもありますが・・・。
ついでながら腸の不調の方も名医に巡り会って見事に解決し、干し柿にはすっかり用がなくなりました。

どうしてデジタル化しなかったの?

2018.08.13

https://mainichi.jp/articles/20180810/k00/00m/040/187000c
富士山測候所の68年間にわたる貴重な記録「カンテラ日誌」を捨ててしまったそうです。たまたま気象台に配属されただけの事務官は、この日記あるいは記録一般に対する価値観や意識をまったく持ち合わせていなかったのでしょうね。同時に、それほど大切なものなら、どうしてデジタル化しておかなかったのか、という疑問も湧いてきます。そこで思い出したエピソードがあります。
ちょうどITの黎明期のことです。勤め先の会社は、過去にさまざまな広告活動をしていて、有名な広告賞を受賞したこともあります。レベルの高いパンフレットやカタログも制作していました。それらの関連資料は十分整理もされずにあちらこちらに分散保管されていました。そこへオフィス移転の話が持ち上がり、お決まりのことながら不要な書類を整理するようお達しがありました。
宣伝セクションの管理担当課長がそれに反応しました。彼は、当時普及し始めたカラー複写機で過去の広告原稿などをすべてコピーし、大きめの資料はコピーをペーパーセメントで丁寧につなぎ合わせて、何冊かのポケットファイルに収めたのでした。原資料はすべて廃棄しました。そのときの課長氏の自慢げな表情をいまでも覚えています。
それらの資料がその後どうなったかは、説明するまでもありません。カラーコピーはすっかり色褪せ、ペーパーセメントは剥がれてめくり上がってしまいました。さらに重要なことは、二次利用の可能性がまったく失われてしまったことです。当時、すでに画像のデジタル化は可能になっていました。さらに数年待てば、誰もが手軽にデジタル化できる時代になりました。
手をつけるのが早すぎたのか、技術の進歩を見通せなかったのか。このエピソードを思い出すと、なんだか悲しくなって仕方がありません。

wordingの問題もあるのでは?

2018.08.10

ダイニングチェアを買う必要に迫られました。1年ほど前のことです。
まずお値段が気になるので、ネットであれこれ調べました。材質や構造の違いとともにおおよその価格帯がわかりました。テーブルと椅子との高さの差が重要であることもネットで知りました。しかし、現物を見ないのはリスクが高すぎます。さて、どこへ見に行こうか。
何年か前なら大塚家具へ行ったと思います。ニトリやイケアよりちょっと上等な家具が見つかりそうな気がしたからです。これまで何度も大塚家具で買い物をしてもいます。しかしお家騒動の末、大塚家具は路線転換してニトリやイケアの路線を目指すと表明しています。では、どこへ行ったらよいの?
大塚家具が苦境に立っている要因の一つにnamingあるいはwordingの問題があるような気がしてなりません。いまの大塚家具が売ろうとするターゲット層や商品のポジションを経営者が適切な言葉で表現したのを聞いたことがありません。
ニトリやイケアなら、「まずまず安い(中価格帯?)」、「デザインはシンプル」、「そこそこ満足できる品質」といった言葉が浮かびます。高級品から低価格品までなんでも置いてある店というのも便利なもので、以前の大塚家具は高級路線と言うより、そのような大規模店であったと思います。でもいまは「安いのかどうか信頼しきれない」、「中途半端にデコラティブな家具も置いてある」、「品質は大丈夫かどうかわからない」 いまは一体何なの? ポジショニングを言葉で示してほしいですね。

やっかみ、妬み、焼きもち・・・

2018.08.08

今日8月8日付の日経産業新聞に、近鉄がウエスティン都ホテルを改装して客室単価を2~3万円から4~7万円程度と倍以上にするという記事がありました。
やっかみ、妬み、焼きもち、反感・・・若いときから今日に至るまで、足を踏み入れるたびに、そのテの感情が浮かび上がる場所が高級シティホテルです。蹴上の都ホテルにはかれこれ20回くらい宿泊した経験があります。まだ名称に「ウエスティン」がついていない頃のことです。しかし、もういけません。京都より東京の方がもっといけません。近頃次々につくられる長いカタカナ名前のホテルがとくにいけません。
こちらは零細企業のビンボウ人ですから、どこのホテルでも歩いてエントランスに入ります。脇に立っている警備担当者の視線が気になります。これだけで、やっかみ・妬み気分が沸々とわき上がってきます。ベンツのSクラスなどからここに降り立てば、さぞかし丁寧に応対してもらえるだろうに・・・と。
最近は、目指す宴会場やレストランへのルートがさっぱりわからない高級ホテルが増えました。「これがエレベータホールか」という凝ったデザインのホテルもあって、どちらへ行けばよいのやらキョロキョロするばかり。ベルボーイ・ベルガールに尋ねれば丁寧に教えてはくれますが、腹の中では「おや初めての客かい? こんな高級なホテルに来る人種じゃないだろ」と思われているのではないかと邪推してしまいます。ここまで来るともう「いじけ」や「ひがみ」そのものですが・・・。
これから東京には富裕層だけを対象とする高級ホテルがさらにいくつもつくられるそうです。誰が泊まるのかなあ? 自腹の客は少ないだろうなあ。自分に縁のない場所がますます増えるのだなあ、などとひがみつつも感慨にふけってしまうのでした。

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