君島邦雄のココノッツブログ | ココノッツ- Part 2
君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

悩ましき日々

2019.10.02

夏から狙っているのに、いまだに果たせません。
二泊三日程度の撮影小旅行にクルマで出かけようと計画しています。目的地は山奥です。実は10代の頃に友人たちと行ったことがある場所です。半世紀後にどうなっているのかという興味もあるのですが、酷道と称されるクネクネの山道を走るのも楽しみです。悪路だけに雨風は勘弁してほしい。撮影には古い中判フィルムカメラを使うつもりなので、これも雨には弱い。となると好天気、少なくとも雨が降らない日であることが必須条件です。
最近の天気予報はかなり正確ではありますが、それでも5日前くらいにならないと予報が定まらないようです。なにやかやと仕事もあるので、仕事の隙間と現地の天気予報とを相互ににらめっこしているのですが、予定のない日は天気が悪い。天気がよい日は仕事が入る。これが夏からずっと続いているのです。
10月に入ったというのにまだ出かけられない。酷道は冬季に閉鎖されてしまうので気が気ではありません。なんとも悩ましい日々を過ごしております。

エレベーターストレス

2019.09.26

最近のエレベーターには感度のよいセンサーが仕込まれていて、乗降中はドアが閉まらないようになっている・・はずです。しかし、古いエレベーターにはそんなものはなく、一定時間が過ぎると何が何でもドアがしまるようになっている・・らしい。
そんな事情もあってか、ドア横のボタンの前に立った人は、ドアが開いたら「開」ボタンを押し続け、一番あとに降りるのが「暗黙のマナー」になっています。先に降りる人はお礼を述べるか会釈するかして行くのも「暗黙のマナー」です。さらにそこから、「お先にどうぞ」の意志表示として「開く」ボタンを押すというルールもほぼ確立されています。
さてそうなると、エレベーターに乗るときのポジション取りが重大問題となって浮上してきます。基本的にはボタン前に立って「開」を押す役割を担うか、奥に入って先に降りるかの二者択一ですが、そこに人間性の違いを見出そうとすると事態はより深刻化してしまいます。
私は原則としてボタン前には立ちません。軽く会釈して先に降りる人です。ところがガラ空きのエレベーターに乗ってしまうと、なかなか思うようには行きません。あるとき一人で乗っていたら、途中階で止まって男性が乗り込んできました。1階に着いたので「開」のボタンを押したのですが、男性は降りようとしません。「どうぞ」と言ったら、「どうぞお先に」と譲りません。さらに手で「どうぞ」のサインをしたら、「いや、私が途中で止めて乗ったのですから、お先にどうぞ」とおっしゃいます。そういう論理もあったか。この譲り合い合戦には負けました。
それやこれやでエレベーターに乗るたびにストレスを感じるのは、私だけなんでしょうか。

正義の実現は難しい

2019.09.12

集合は江戸川橋の交番前。アマチュア写真愛好家向けの撮影会です。
そこから目白通りを西へ向かい。坂を上って椿山荘前から丹下健三氏設計の聖マリア大聖堂の構内へ入って撮影。その後、休館したままの講談社野間記念館を通過して永青文庫、肥後細川庭園などを撮影しつつ神田川沿いの道に下りてきました。途中の児童公園に左右対称の大きな滑り台がありました。小学生くらいの姉妹が滑り台に駆け上がったり駆け下りたりして遊んでいます。格好の被写体です。メンバーの何人かがカメラを向けました。
そこを通り過ぎてぶらぶら歩いていたら、グループの横を追い越した中高年女性が先頭を歩いていたメンバーに話しかけました。女の子の下着を写した人がいる、という抗議だったそうです。そんなものを写すわけがないと、何人かが反論すると、足早に遠ざかりつつ背中越しにスマホを高く構えました。私たちを撮影しているのは明らかでした。
いやな気分でスタート地点の交番前へ戻ると、二人の警官がやってきました。先ほどの女性が駆け込んだのは、その交番でした。
デジタルカメラは便利です。その場で撮影した写真を警官に見てもらいました。メンバー構成は50代から80代、女性も一人含まれています。撮影会のコースを事前に印刷した案内パンフの用意もあります。心にやましい人間がよりによって交番前に集まるはずもありません。どこから見ても怪しいところはありません。
というわけですぐに嫌疑は晴れたのですが、収まらないのはこちらの方です。女性が撮った写真を、妙なコメントをつけてSNSなどに投稿されてはたまりません。スマホに残っている写真は削除させてほしい、と警官に要請しました。
験直しとお清めをしようと居酒屋に入ったところで、主催者のスマホに交番から電話がありました。スマホの写真はすべて削除させたとのこと。これで一件落着ではありますが・・・。
交番に駆け込んだ中高年女性の意図は何だったのでしょうか。義憤にかられたのでしょうか。結果としては、私たちばかりなく、その女性にもいや~な後味が残ったはずです。いつの世にも「正義の味方」はいてほしいのですが、正義というものはそれほどたやすく実現できるものでもなさそうです。

実用文も文学も

2019.08.19

8月17日付の朝日新聞「天声人語」を読んで、初めて高校の国語で「文学」が選択科目になることを知りました。代わりに実用文として行政のガイドラインや駐車場の契約書が出てくるのだとか。
行政のガイドラインが実用文の模範例かどうか大いに疑問ですが、これまで日本の国語教育において実用文が不当なくらい軽んじられてきたことを考えると、これは悪いことではありません。企業にいた頃、主任や課長への昇進試験の「小論文」をたくさん読まされましたが、9割ほどは日本文を書く基礎がまるでできていませんでした。しっかりした文章が書けるような教育はとても重要です。欧米ではすべての課目のベースとしてwritingやécritureが重んじられていると聞きます。問題はそれを教えられる先生がいるのかどうか、ですが。
蛇足ながら、実用文の一典型はプレスリリースではないかと考えています。ぜひプレスリリースを書く練習をしてほしい。間違いなく有益です。
一方で、文学を選択科目にするという暴挙には絶対反対です。先日、某放送局の敏腕ディレクター氏が米国へ取材旅行に行くに当たり持参する5~6冊の本をSNSで公開しているのを見ました。その中に小説は一冊もありませんでした。「勉強熱心」なのは結構ですが、この方の10年後を思うと、かなり残念な気がしたのであります。

日韓問題とネコ問題

2019.08.06

最近の嫌韓、韓国バッシングと反日、抗日は少々度を超しているようです。どちらが悪いのかウソを言っているのか、そんなことはわかりません。双方とも政治的プロパガンダが激しいので、報道を注意深く読み込んでも真実を把握することは不可能に近い。広報を仕事にしているからには、両国のプロパガンダを冷静に見極めたいところですが、昨今はそのような一歩引いた立場さえ批判の対象になりかねません。いまの政権に批判的な発言は激しい批判にさらされ、その対象が拡大しつつあるようにも感じられます。
さて近頃、ネコ好きの人が多くなったと思いませんか。SNSでも、私の場合だけかもしれませんが、愛猫やらノラ猫やらの写真を連日見せつけられます。法整備が進んだこともあり、動物愛護の精神が普遍化しつつあることも背景にあるのでしょう。私自身は子どもの頃から動物を飼った経験が少なく、ネコにもイヌにも小鳥にも馴染みが薄いのですが、動物愛護には大賛成です。
問題はここからです。私はネコが好きではありません。しかし、そのように言いにくい雰囲気が、いまの日本にまん延しているような気がします。ネコ好きから大顰蹙を買うばかりでなく、非猫民と厳しく批判されそうな恐怖さえ感じます。
日韓問題とネコ問題、どこか似ていると思っているのは、たぶん私だけでしょうね。

落ちてきた「反省文」

2019.08.02

乗換駅で網棚からバッグを引きずり下ろしたら、A4を丁寧に三つ折りした紙が一緒に落ちてきました。ちょっと開くと「反省文」という見出しが見えたので、そのままバッグに放り込んでしまいました。
ワープロ打ちされた「反省文」を読んでみると、これを書いた人は、どこかでケンカをしてしまったようです。発端は、本人が他人の迷惑になるような行為をしてしまい、相手から「パンチ」を食らったこと。その結果として逮捕、公訴されるに至った、それを反省しています。
反省文には、多様な人たちが住む都会では周囲の人間や環境が気になっても、常に自分のことに集中し、徹底的に非暴力を貫き、社会や人様に迷惑をかけることのないよう努めたいとあります。また、もっと幸福な精神状態で健康な身体でいたら、そのときの相手の心境にも思いを致すことができ、殴られるようなことにはならなかっただろうとも書いています。文章に破綻がありません。反省文を読む限り、至極真っ当な人のように思えます。一時の気の迷いから起こった事件なのでしょう。
さて、この「反省文」をどうしようか、と考えました。自署もありますが、それだけで書き手を特定することはできません。特定できたとしても、これをお返しすることはかえって恥をかかせるようにも思います。網棚から落ちてきたときに、またもとの場所に戻した方がよかったか。そうとも思いません。私以外の誰かが、同じように読むだけのことです。警察や駅に届けるのは、かえってこれを書いた人のプライバシーを拡散させることになるでしょう。
ここに経緯だけを記して、シュレッダーにかけることにします。

不機嫌な床屋

2019.07.31

床屋に行きました。10年来通っていたカット・シャンプー・顔剃り2000円也の床屋が再開発とかで突然消えてしまったので、同じような値段の店をようやく探し当てたのです。10席ほどの大きな店です。幸い待っている人がおらず、ほどなく席に案内されたのですが、何か雰囲気が気になります。実に静かです。その上理容師たちの人相が悪い・・・いや表情が暗い。担当になった女性理容師は無愛想な上に少々手荒です。たまたま虫の居所が悪かったのでしょうか。とにもかくにもご機嫌が悪い。こういうときは黙って、されるがままにされているより仕方がありません。何しろ向こうは刃物を所持しているのですから。
頭を下げながら観察していると、部屋の隅まで掃除が行き届いていないことに気づきました。髪の毛が洗面台の角という角に溜まっています。昨日今日という量ではありません。
タオルで顔を蒸されていると、頭の向こうで理容師同士コソコソ話をしています。どうやら新入り理容師の態度が悪いと言い合っているようです。二人ともかなりのご立腹です。それで機嫌が悪いのかもしれません。
やっかいな床屋に来てしまったものです。利便性がよくて安い床屋はそうそうありません。また探すのか、と思ったらすっかり憂鬱です。新たな店を探す面倒を考えたら、不機嫌でも掃除が行き届かなくても、またこの店に来るという選択肢もあり得ます。どうしたものかなあ。

乗り気になれません

2019.07.24

1964年、どうしてもオリンピックを見たい、見逃したら一生後悔すると思い詰めて、新宿三丁目の交差点にいまもあるJTB(当時は日本交通公社)にチケットを買いに行きました。すでに発売から日が経っていて、売れ残っていたのは人気薄の競技ばかり。その中からホッケーのチケットを1枚買いました。
ところが開会式間近となって、その試合に出るはずの国が棄権だったか来日しなかったか、どちらにしても試合は中止となりました。これでオリンピックを見るチャンスは失われてしまいました。
大会中は休校になったのかどうか記憶にありませんが、白黒テレビでマラソンを見ていたら、そのコースは甲州街道。自宅からそれほどの距離ではありません。いまから行けばアベベや円谷が見られるかもしれない。「オリンピックを見た」ことになると急に思い立ち、闇雲に走り出しました。しかし、半分ほどのところであきらめました。中学生が思っていたより甲州街道は遠かったのです。
さて、来年のオリンピック・パラリンピック。56年前の中学生と同じような気持になっている人もいるでしょう。経済的に潤う人たちが存在するのは間違いありません。しかし、多くの予算を費やし、多くの人たちを動員し、交通を渋滞させ、メディアを巻き込み、テロのリスクを増大させることが、どれほどこの国に住む人たちの将来の幸せに貢献するのか、さっぱり理解できません。広報を仕事としている以上は、お祭り騒ぎに乗じて多少のおこぼれにあずかろうとするのが当然かもしれませんが、あまり乗り気にはなれません。普段見慣れない競技を会場で見るのも悪くないなとは思うもののチケット購入にもいまのところ積極的に動いてはいません。
先日テレビを見ていたら、どこかの大学教授が、来年のオリンピックやパラリンピックは「第二の開国」になると言っていました。能天気もいい加減にしろ、と言いたくなりました。

 

うまいもんが食いたいなあ

2019.05.24


この3日ほど、東京ビッグサイトで仕事をしています。たまにはこういう異空間に身を置くのも悪くはありませんが、ちょっぴり悩ましいのは昼食です。構内にはいくつもレストランやカフェテリアがあります。コンビニもある。有名コーヒーチェーンもある。少し足を伸ばせば、周辺のオフィスビルに入っている飲食店も利用できます。にもかかわらず、昼時になると「さて、どこで何を食べようか」と悩むことになります。
理由は混むことと旨くないこと、この2点につきます。
このあたりの飲食店は、どこか「こんなもんでいいでしょ。それでも客は来るんだから」と考えているかのような、取り柄のない店ばかりです。新しく造成された土地柄だけに個人経営の店は見あたらず、ほとんどチェーン店ばかりであることがその一因でしょう。
しかたがないので、業績不振が取り沙汰されている家具店が入っているビルに出かけて、1日目は照り焼き丼、2日目はぶっかけうどんに鶏天、3日目はコクうま味噌らーめんということになりました。もちろんすべてチェーン店。もうあきました。

メディアの偏向

2019.05.15

市民間で意見が割れるような問題について、新聞やテレビなどのメディアがどちらに組みして報道しているか。なぜこちら側に同情的なのか。以前と異なる報道が出て来たり、新しい事実が次々に明らかになってもなかなか論調を変えないのはなぜなのか。と思うと、口を拭って沈黙しつづけることもある。それはなぜなのか。
政治に関してはむしろ単純です。近頃は大手メディアの旗幟が鮮明になっていますから、ある新聞は大きく報道しある新聞は黙殺していても、はは~んと推測できる。こんな報道姿勢をとるだろうなあと読む前に予想がつくほどになっています。考えてみればつまらない話です。新聞が読まれなくなった要因の一つでしょう。
そんなとき、よい本が出版されました。小島正美著「メディア・バイアスの正体を明かす」(エネルギーフォーラム新書)
小島さんは昨年まで毎日新聞で編集委員を務めておられた医療や食品問題を専門とするジャーナリストです。ここには右や左の政治のことは書いてありません。子宮頸がんワクチンや遺伝子組換え食品などを例に、なぜ新聞がこのように書くのか、このように書かないのかを極めてクリアカットに説明しています。新聞社を退職されたので自由に書けたという面もあるのでしょうが、すべての新聞記者OBがこのように書けるわけでもありません。報道の内側にいて、「これはおかしいじゃないか」という問題意識を常々持ち続けておられたからこそ書けたのだと推測します。広報を仕事をしている人にも、目を開かせてくれる好著です。

敬語と方言

2019.05.07

報道特集3
長い公定休日でした。その間、メディアを通じてこれでもかこれでもかと敬語を聞かされて少々辟易しました。国語学の定義は存じませんが、敬語というのは言葉の装飾の一種だろうと思います。装飾過多は何事によらずうんざりするものです。
そんな中で面白かったのは5月4日のTBS報道特集。大正天皇の女官、椿局であった人が語ったテープを発見したという報道でした。大正天皇がとても優秀だったという話は初めて聞きましたが、それよりもこのテープが、方言を研究していた学者が録音したものであるということに興味を引かれました。敬語だけで成り立っているような、しかも「何々であらっしゃる」といった特殊な敬語を用いる御所言葉を「方言」と捉える視点がとても新鮮に思えたのでした。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20190503-00000059-jnn-soci

一年前のその日

2019.04.26

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まったくの偶然ですが、ノートルダム大聖堂を見学に行ったのは、火災発生のちょうど一年前に当たる2018年4月15日、日曜日の朝でした。聖堂の中に入るとオルガンの深い音色とテノールの美しい歌声が聞こえてきました。ミサというものを見たのは、実はこれが初めてでした。その一年後に火事になるなどとは思いもせず、その賛美歌にしばし聞き惚れていました。写真を撮ってはいけないのかな、とは思ったものの異教徒の図々しさで何枚か静かにシャッターを切りました。これがその一枚。写真のタイムスタンプでは午前9時30分。
多くのフランス人が感じたであろう喪失感にはほど遠いのでしょうが、一ツアー観光客としても残念な思いは共有できます。

じいさん宣言

2019.04.22

じいさん1
認めたくはないものの、一つの区切り(元号ではない)が来て、どこをどう見ても「じいさん」に間違いないという状況に立ち至りました。かくなる上はと開き直って、これから死ぬまでじいさんをやっていく覚悟です。
自分自身が若い頃から「長幼の序」など意に介さずにきたバチが当たって、いまさら若いモンに「じいさんを敬え」などとは言えません。その上、よそのじいさんたちを観察していると、じいさん特有の悪癖というか悪弊というか、若い人たちに嫌われる要素が多々あることに気づきます。自分のことを棚に上げて言うのもナンですが。
朝の連続テレビ小説で草刈正雄演じるじいさんが「一番悪いのは他人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は他人をアテにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるのだ」なんて名ゼリフを吐くのは、あれはドラマだからであって、実際にそんないいことを言うじいさんは近頃お目にかかったことがありません。
先日亡くなった橋本治さんが30代初めに書いた文章に「ジイサンというのは、ひょっとしたら時代とは関係なく生きていられる自由な存在なのかもしらん」*というのがあります。これもまたじいさんの一面かもしれません。上司だの部下だのお客さんだの先生だの、もうなんにも関係ない。ようやく手に入れた自由、勝手気ままができる反面、誰も助けてはくれません。それ故に抑制が利かなくなってしまい、若いやつらばかりでなく、社会全体から疎まれ、置いてけぼりを食うということになってしまうようです。
*「よくない文章ドク本」所収「『現代青春小説』のガイドブックの無削除版」

カメラ好きは写真がうまくない?

2019.04.16

らんぷ坂 1
写真の愛好家やカメラマンにはよく知られている事実ですが、世には機械としてのカメラ自体が好きな人と、写真を撮ることが好きな人と、どちらでもない人の3種類の人たちが存在します。圧倒的に多いのが3番目であるのは言うまでもありません。観光地へ行って記念撮影する人たちや子どもの成長を記録する人たちも、3番目に入れてよいでしょう。
最近はスマホでランチの写真を撮ったり自撮りしたりしてSNSに投稿する人が増えています。このような人たちは、写真を撮ることが好きな人たちと分類してよさそうです。
実は先日、あるグループの写真展で自作を3点ばかり展示してもらいました。参加を申し込んだときは意識していなかったのですが、このグループはカメラ好き、いやカメラ蒐集マニアの集まりでした。ある参加者に「何台くらいお持ちなんですか?」と尋ねたら、「500台くらいですかね」と素っ気なく答えてくれました。さらに「最近は写真を撮るのが面倒になっちゃって、ほとんど撮らないんです。撮るときはスマホです」と続きました。
一般論ですが・・・と断っておきますが、カメラ好きは写真がうまくありません。写真を撮るのが好きな人のすべてが写真がうまいとも言えません。写真がうまい人は写真を撮るのが好きな人です。また、写真がうまい人はカメラ好きでもあります。
長年の観察から得た結論ですが、さて論理的に整合性がとれているのかどうか…。

してやられた上に期待はずれ

2019.03.20

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ある朝、目覚めてすぐに枕元に置いているスマホを見ました。たまたまです。するとamazonがいまセールをやっているという記事が目に飛び込んできました。起床する時間まで少々間があったので、どれどれとamazonを覗いたのがいけませんでした。電子書籍リーダーのKindleも安くなっている。しかもセールの終了時間が迫っている。こりゃあ急いで買わなくては・・・。
というわけで、まだ十分に脳が覚せいしていないところでポチったのでありました。送られて来たのは一番安いモデルです。実は照明つきホワイトペーパーの上位モデルがほしかったのですが、あとで調べたらそちらは倍近いお値段でした。いくらセールでもそんなに安くなるはずない。まあ、安かったからいいか、と納得というか諦めというか、いずれにしてもまんまとamazonにしてやられたことに変りはありません。
Kindleを買う気になっていたのは、今期の直木賞を受賞した「宝島」を読みたかったからです。書店で見た単行本はものすごく厚くて重たい。私の読書は主に電車の中ですから、これを持ち歩くのはしんどいなあ。そこで電子書籍のファイルをダウンロードしたのですが、スマホではやはり読みにくい・・・と、amazonの手中に落ちた背景にはそんなことがありました。
そこまでして読んだ「宝島」なんですが、どうして評判がよいのかさっぱりわかりませんでした。たとえば人物描写がお粗末で、主人公である二人の男性の人物像が重なってしまって違いがわからない。ヤマトンチュー(本土の人)が戦後の沖縄の歴史を調べまくり、「いかにも沖縄」風の描写やエピソードや方言を総動員したみたいな小説と言ったらいいかな。文芸評論家ではないからただの感想ですが、私には期待はずれ。
さて、次はKindleで何を読もうかな。青空文庫から著作権の切れた作家の作品でもダウンロードしましょうかね。なにしろタダですから。

インターネットでは難しいかなあ

2019.03.12

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Facebookに猫を探していますという投稿がありました。いずれも東京の郊外のお宅から失踪したようです。飼い主の必死の思いが伝わってきますね。見つかるとよいのですが、一般論として、猫探しにネットは効果が薄いのではないかと危惧します。猫の行動範囲はせいぜい数キロでしょう。となると、骨の折れる作業だとは思いますが、近所を回って電柱などにポスターを貼って行く方が効果的かもしれません。ネットの利用は手間なしではありますが、地域内での情報密度はかえって薄いと考えられます。
一般論としては広報も、地域が限定されればされるほどやりにくくなります。たとえば地域の中小病院の場合は、いわゆる広報活動よりも広告宣伝あるいは販促の手法の方が効果的だと思います。患者を集めたいという目的なら、医療圏の問題もあってなおさらです。
広報エージェントをやっていると、なんでも広報の手法で解決したくなりますが、広報には広報の得意な分野があり、得意でない部分は手を引いて、他の手法を考えるのが効率的であると自戒を込めて考えます。

メディアトレーニングは推理小説に似ている

2019.03.07

ナイルに
自慢をします。アガサ・クリスティの推理小説「ナイルに死す」、まだ殺人事件が起こる前に筋立てが読めてしまいました。かなり確信が持てたので、その後は小説家がどのようにストーリーを展開させるのかに関心が移りましたが、それはそれで楽しく読み進むことができました。こういう推理小説の読み方もあるんだなあというのが新たな発見でもありました。
実は読みながら、なんとなくこれは何かに似ているなあと気になっていたのですが、なんだかわかりませんでした。読み終わって、仕事をしているうちにハタと気がつきました。これはメディアトレーニングに似ている。
とくに危機管理広報のシミュレーショントレーニングでは、架空の事案を創作して、それに関する模擬記者会見や模擬取材を行います。トレーニングを受ける経営者や幹部社員のみなさんにとって現実感のある架空の事案をつくりあげる作業が一つのポイントなのですが、それが推理作家の創作プロセスと似ているのではないか、と気づいたのです。
架空の事案であっても、実際にありそうな真に迫ったストーリーであることが必須条件です。それを考えるのは一苦労なのですが、一方でちょっと面白い仕事でもあります。こんなこと誰も考えられないだろうなあ、と一人悦に入ったりしながらやっています・・・と、最後も自慢で終わります。

小賢しいことするんじゃね~や!

2019.03.01

禁煙
昼食に入った店のテーブルに、見慣れぬ金属製のプレートを発見しました。禁煙マークがあり、その横に見慣れぬマークがあります。「禁煙、Ploom TECHだけ」。たばこを吸わない筆者には、何のことかにわかに理解できませんでした。やがて、はは~んと推測できました。Ploom TECHって、電子タバコとか加熱タバコっていうやつの商標かな? ということは、加熱タバコだけは吸っていいよ、それもPloom TECHというブランドのものだけよ、ってこと?
店の熟年おねえさんに、「これって、たばこ屋が置いて行ったの?」とたずねたら、「そうです」という返事。これですべてが推測通りとはっきりしました。
マーケティングの手法としては見事ですね。よく考えたなあと思います。しかし、だんだん腹が立って来ました。小賢しいことするんじゃね~や!

nって何?

2019.02.26

統計計算機
自宅の机のひきだしを引っかき回していたら、古い電卓を見つけました。おお、まだそこにいたのか? これはただの電卓ではありません。統計計算専用の電卓です。
学校時代に統計を習った記憶はありません。数列から先はさっぱり理解できなかった数学オンチですから、模擬試験の結果と志望校の偏差値以外に統計とか確率なんかに関心を持つはずもありません。偏差値だって、その本当の意味するところは知りませんでした。ところが、マ-ケティングの仕事などをカジるようになると、統計の基礎を知らないと何を言っているのかさっぱりわからんなあ、ということになってしまいました。nもσもチンプンカンプンではねえ。
本を読んでもよくわからず、ついにセミナーに参加しました。最初に受けたセミナーでは、どのように計算したのか覚えていませんが、その後に参加したセミナーではこの統計電卓の使用が前提となっていました。
セミナーで教わった計算方法などはすべて忘れました。しかし、統計がどのようなものであるかはおおよそわかりました。サンプル数やサンプルサイズの重要性もおぼろげながら理解しました。それはその後の仕事に大いに役立ったと言えます。
統計電卓の電池はすでに消耗しきっていました。そう言えば何年か前に電池を交換した記憶があります。それ以来一度も使わないまま、再び電池が切れたのです。なんかさびしい気がして、またまた新しい電池に入れ替えました。でも、また使わないうちに電池切れになるのかも。そんなことなら、いっそのこと厚生労働省に寄付しようかな。

初恋の味は・・・

2019.02.18

カルピス
断捨離はくたびれます。体力を消耗します。精神的な疲労も思いのほか蓄積します。だからどんどん進めるわけには行きません。2週間にダンボール1箱ペースがやっとです。
先日、押入から1箱引っ張り出したら、古い写真がいっぱい入っていました。高校時代のスナップ写真、若いときカメラに凝って撮ったネガとプリント、子どもの写真、亡母が大事にしまっていた写真などなどです。一枚一枚丹念に見ていたら、それだけで1ヶ月はかかりそうで、考えるだけで疲労を感じます。
そこでパラパラとめくっていたら、思わぬ写真を発見しました。初めて好きになった同級生の写真です。と言っても写っているのはただの女子中学生。懐旧の情をもって眺めたのは事実ですが、少しもときめきません。「どうしてこの人を」というのが実感です。想い染めし相手を貶める形容詞は控えさせていただきますが、落胆してしまったことは白状します。20歳のときにこの写真を見たら違った気持になったかな。40歳だったらどうだったでしょう。そこのところはわかりませんが、この年になると極めて冷ややかに見てしまうのです。枯れちゃったのでしょうか。そう思うと少々残念ではあります。
カルピスが今年、発売から100周年を迎えるそうです。カルピスと言えば「初恋の味」なんてコピーがすぐに浮かんでくるのはある年代以上の人でしょうが、少しも甘酸っぱくはありません。この味は一体なんだろうとあれこれ考えて、やっと思いつきました。
初恋の味はホッピーの味
ホッピーだけをいくら飲んでも、苦いばかりで少しも酔うことはありません。

月刊住職は面白そう

2019.02.06

月刊住職
今日の朝日新聞の出版広告をぼんやり見ていたら、「月刊住職」の広告が目にとまりました。以前にも書いたことがありますが、いつもいつもこの雑誌の見出しは面白い。
「都道府県寺院密度と寺院消滅予測度と住民幸福度はつながっている」というのは、どんな記事なんでしょう。お寺の密度が高いと幸福なんでしょうか。お寺がなくなると不幸になるのかなあ。そう言えば過疎化が進むとお寺も維持できなくなると聞きました。どんな相関関係なんでしょうね。
「学生減 宗門大学11校の現状とサバイバル」 お寺さんが経営している大学を宗門大学と呼ぶんですね。京都のさる宗門大学の職員さんによるFacebookの書き込みを読むと、関西から北陸、四国の高校や予備校を軽自動車で行脚して説明会を開いておられるようです。
「終活世代にせまる親の葬儀と自分の葬儀」 お葬式の専門家であるお坊さんも困っているんですね。ちょっと意外。
「なぜ寺に奥の院があるか」 なるほど。本堂のさらに奥、山の上に奥の院があったりしますね。なぜなんでしょう。
「お寺のライトアップを必ず成功させる秘訣」 現世的なテーマで、思わず笑っちゃいました。桜の季節に京都などに行くと、ライトアップする夜間だけ高い別料金をとるお寺が少なくありません。あれはどうも気に入りませんが、おいしいビジネスなのでしょう。
「佐渡にウサギ観音が現れた訳」 これはなんだかわかりません。在家の人間にはどうでもいいいいようなことだけど。
「人工知能は何を変えるか」 お寺にもAIを活用する余地があるのでしょうか。お布施の額と葬儀の参列者の数を読み取って自動的にお経の長さを変えるとか・・・?
この雑誌を宣伝するつもりはありませんが、なんとなくユーモアを感じます。小難しい仏教哲学や説教などは全くなくて現世利益に徹しているところが潔い。買ってみたい気もするし、1,740円は高いような気もするし。

自画自賛否両論

2019.01.31

自画自賛
このブログをほめてくれる人がいました。学生時代からの友人ですが、その人も編集・ライター稼業のプロなので、わかる人にはわかるんだなあ、とこちらはいい気分になりました。
と、これは本当の話ですが、「友人がほめた」というのは他人からの評価で、それを「ここに書いた」というのは自画自賛というものでしょう。
少し前にこんな経験をしました。あるイベントが大変よい成果を得たので、終了後に担当者をほめようとしたまさにそのとき、その担当者自身が言い放ちました。「私ががんばったらうまく行ったんです」 その瞬間、ほめ言葉が引っ込んでしまいました。ムムムムム。 ほめたいと思ったのに、ほめられなくなってしまいました。自画自賛以上にこちらがほめて上げればよいようなものですが、そんな気力も吹っ飛んでしまいました。お互いに、こんな不幸なことはありません。
長い会社勤めの間には、一生懸命仕事をしてそれなりの実績を上げたにもかかわらず、ちっともほめられない、という経験をずいぶんしてきました。実にくやしい。誰かに自慢したい。その気持が抑えられなかったこともしばしばですが、自分から口に出して逆効果になってしまったことが多かったかな。かと言って、評価されるまで何年も待つというのもねえ。「黙っていれば必ず誰かが見てくれているもんだよ」などというおためごかしの常套句ほど怪しいものはありませんが、ときたまその実例に遭遇するから話がややこしくなってしまいます。
自分の手柄でもないことをすべて自分の実績だと本社にレポートする外国人マネージャーもいました。そんなインチキレポートをそのまま信じる上司の目も節穴だと思いますが、それが見事に成功したと思われる実例もありましたから、このあたりがまた実に難しい。
企業人ではなくて、企業そのものの場合は黙っているばかりではいつまで経っても評価されません。評価されるまでの時間をコストと考えるべきだと思います。いいことをしたら、それをアナウンスするのは説明責任の一部と言えるでしょう。人事評価と広報活動とは分けて考えないといけませんね。

黄色いベスト

2019.01.29

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フランスの抗議運動の報道が日本では少なくなりましたが、実際はますます盛んなようです。そのデモの参加者が着用している黄色いベスト。あれはなかなかいいアイデアだと思います。デモで着用するのもアイデアではありますが、クルマに黄色いベストの搭載を義務づけたことの方です。
フランスでは、故障などでクルマを離れるときには、このベストを着用することが義務づけられていると聞きました。日本では三角の表示板を後方に置くことになっていますが、それを置きに行くのも、高速道路ならかなりコワイ思いをするでしょう。そのときに黄色いベストがあればちょっとは安心かな。そもそも最近は、新車を買っても発煙筒は車内に設置されていますが、三角表示板はついてきません。わざわざ購入する必要があります。
日本でも黄色いベストを義務づけたらどうでしょう。と、そう提案したいところですが、たぶん実現しないでしょうね。それによって大規模なデモが起きたら困ると、為政者たちはきっと考えるでしょうから。
(写真は、2018年4月のパリで。まだベストを着ていない)

屋上の楽園

2019.01.18

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すっかり関心の圏外に去ってしまった存在があります。私にはデパートの屋上もそれ。昔は小さな遊園地などがありましたが、いまの世の中にそんなものが残っているはずもなく、何があるのかわからないし用もないから足を向けることもない。そのうちにデパ屋のことなどすっかり忘れてしまいました。それがひょんなことから銀座のデパートの屋上へ上がることになったのでした。
そもそもエレベーターの「R」ボタンが作動しないデパートがあります。レストランのある最上階からさらに階段を上らないと屋上へ出られなかったりします。デパートとしても、屋上はできれば上がってほしくないスペースなのかもしれません。
まず訪れたのは銀座三越の屋上。半分はレストランになっていますが、もう半分は立入禁止の芝生の周りに短い遊歩道ができていてベンチもある。小さい子を遊ばせているお母さんがいました。そこで驚いたのは、神仏両方の祠があって社務所らしきものに係員が常駐していたことです。神や仏が機能している空間であるようです。もう一つ印象に残ったのは、あの和光の時計が見下ろせたことです。と言っても高い柵があって半分しか見えませんが、ちょっと非日常なビューを楽しむことができました。
次は松屋銀座。階段を上がったらゴルフ練習場の入口でした。一部のエレベーターでないと屋上には上がれないようです。開放されているスペースは小さく眺望もありませんが、ここにはお寺がありました。ガラス窓のウチソトに座れるスペースがあって、そこでコンビニ弁当を食べている人がいました。ここは穴場です。知る人ぞ知る隠れ家ランチスペースです。
最後は旧松坂屋のGINZA SIXです。高い、広い。全周にわたって遊歩道があって、銀座を上から見下ろせます。スカイツリーも東京タワーも見えます。屋上庭園もよく手入れされているし、中央の広場もな~んにもなく広々していて、天気がよければ異次元感のある快適な空間です。まだ外国人観光客には知られていないようです。銀座を歩いていて疲れたら、ここで一休みがお薦めです。

T先生へ

2019.01.11

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ご入院、手術とうかがいました。いろいろとご心配でしょうが、現代医学は進んでおりますから、きっと手術は成功するだろうと思います。
周囲にも何人か同じ病気を患った者がおりますが、共通しているのはみなヘビースモーカーであることです。聞いた話では、タバコを吸うと唾液に有害物質が混じり、長年の間に食道を侵すのだとか。こわい話です。きっと病院の先生からも「これを機会に禁煙してください」と強く指導を受けられたのではないかと思います。それに対してどのようにお考えになったのか、少々気になっております。やはりタバコがいけなかったのだなあ、と心底気づかれたのでしょうか。いや、たまたまだよ、タバコを吸っていても罹らない人も多いじゃないかとお考えになったのか。
肉親や知人のヘビースモーカーたちは、ほかにも肺がん、膵臓がん、胆嚢がんなどにかかって死んで行きました。タバコの害は専門家の指摘を待つまでまでもなく、実感しております。ご自身がご病気になられた上は、その「実感」ははるかに現実的なものではないかと考えるのですが、いかがでしょう。
ご病気になる前のことですが、居酒屋などが全面禁煙になったら「俺はどうやって生きていけばいいのか」とおっしゃっておられたそうですが、これからどうやって生きて行かれるおつもりですか。
ご尽力いただいた健康増進法改正案はずいぶん抜け穴だらけです。このままでよいのかどうか、お元気になられましたら改めてご見解をうかがいたいところです。
末筆ながら、一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

まなじりを決する必要はなくなった?

2019.01.07


今年の5月から元号が変わるそうですが、昭和が平成に変わったときほど、元号不要論がマスコミに登場しないことに少し驚いています。
では、自分自身は過去の出来事を元号で記憶しているのか西暦で記憶しているのか、と考えてみました。
生まれた年は昭和で覚えていましたが、いつしか西暦の方が先に浮かぶようになりました。ネットで申し込みなどをするときに西暦での記入を求められることが多くなったことが影響していると思います。
祖父の生まれ年は元号ですが、父の生年は元号と西暦が同時に浮かびます。明治33年つまり1900年という区切りのよい年だからです。母の生年は、父との年齢差11年を足すことで1911年と計算できますが、大正に変わる前年と記憶してきました。明治44年です。
小学校に入学した年は昭和で記憶しています。大学を卒業した年は西暦です。就職した会社が外資系だったからかもしれません。転職した年も西暦です。
大病が見つかった年は暦年ではなく年齢で覚えていますが、その前年に西暦2000年の大騒ぎがあって、1月2日の朝、お屠蘇に酔っ払ったまま対応のために出社しました。あの時点ではその後の病気を知らなかったのだなあ、と感慨にふけることがあります。
会社をやめてココノッツを立ち上げた年は2008年と西暦で覚えているので、平成何年だったか咄嗟には思い出せません。
振り返ってみると、近年になればなるほど西暦で記憶している事柄が多いような気がします。平成も30年になりますが、生まれたときから昭和が身体にしみ込んでいるので、一瞬戸惑うのです。昭和の年に25を加えれば容易に西暦に転換できましたが、平成の年から11を引くと西暦になることは、いまさらながら先ほど調べて知りました。前世紀なら平成の年号に1988を足すことで西暦に転換できます。そんなことをする人はまずいないでしょう。
日常生活はすでに西暦を中心に動いていて、元号はいわば文学的な存在と言えるかもしれません。伝統だから元号があってもいいよね、とそんな感じでしょうか。だからまなじり決して元号の存続を論じることも少なくなってきたのか、とかんぐっております。

主客転倒

2018.12.25

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先日、ある県が主催するセミナーに参加してみました。
数日前に発症したふくらはぎの肉離れのために、足を引きずり引きずりビルの最上階の会場に到達したときは、すでに県知事のご挨拶が始まっていました。
ほぼ満員。係の職員さんに案内されて、なんとか空席に滑り込みました。狭い椅子の上でカバン、コート、何種類ものレジメ、重い参考資料などをさばくのに四苦八苦してようやく前を向いたら、知事のご挨拶が終わりました。
落ち着いて周囲を見回しましたが、何か違和感があるんです。案内された席は中央よりやや後。テーブルはありません。ところが中央より前の席にはテーブルがある。しかも名札が立っています。そこに関係団体や県下市町村の名称が書かれています。報道席もあります。はは~ん。そこですべてを理解しました。
セミナーの目的は、広く産業界の人たちに県の施策を聞いてもらうところにありました。ところが招待された産業界の人たちが後の狭い席で、県の関係者が前のテーブル席。よくあるヤツです。主客転倒。それに気づかぬのか気がつかない振りをしているのか・・・。
セミナーを開催することによる真の効果を求めるよりも、セミナーを開催したという実績の方が県の担当者には大切なのだ、とここで断言してしまいましょう。こういうことがお役所のイベントでは多すぎます。私は員数合わせの一人として招待されただけですから(これもお役所的形式主義の一つです)どうでもよいのですが、県民の税金を使ってのイベントがこれではねえ。

紅花墨

2018.12.19

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「紅花墨」(別名「お花墨」)という墨を覚えていますか? 日本の墨のスタンダード。小学校で初めて習字を習うとき、お習字セットに入っていたかもしれません。特徴的なデザインです。
ところがこのデザインは意匠登録されておらず、「紅花墨」という商品名も商標登録されていません。だからどこのメーカーでも同じ商品名の似たデザインの墨をつくることができる、ということを奈良の老舗墨屋である古梅園の店員さんから教えてもらいました。そこの何代目かがオリジナルをつくった当時は、意匠登録や商標登録をするような時代ではなかったと説明を受けました。江戸時代の話のようです。
お習字セットに入っていた「紅花墨」は、だから古梅園のオリジナル品でなかったかもしれません。その可能性が高い。しかも、どこの「紅花墨」にもいくつかの等級があり、小学生用は最低ランクのものだっただろうと想像がつきます。
上の写真の中央が現在の古梅園製の紅花墨。右は日本で最も有名な書道具・香の老舗の製品(品質検査ではねられたキズ墨なので商品名の部分に色が入っていません)。左はどこの製品かわからない使い古した昔々の「紅花墨」。
左の古墨は論外として、中央と右については一流の書家ならともかく、素人には磨り心地や墨の色などの違いはわかりません。ところが、上のような話を聞かされた後では、オリジナルの方がどことなくよいような気がします。
これはブランド論の初歩の初歩。当たり前過ぎることではありますが、実感として再認識したのでありました。

「批判」は疲れる

2018.12.17

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中小企業に勤める40代の会社員が言いました。
「最近、朝日新聞とかサンデーモーニングとか見るのやんなっちゃった。もうどうでもいいような気がして」
若い年齢層の保守化が指摘されています。“ここにもいたか”と思ったのですが、一方で“わかる気もするなあ”とも感じたのでした。
私は複数のTwitterアカウントを持っています。世の中の生の動向を知ろうと、それぞれテーマを変えて読んでいます。その一つに、現政権に批判的な学者やコラムニストや芸人たちを中心にフォローしているものがあります。毎日寝る前にそれをチェックしていますが、読んでいると何となく気伏せになってくる。疲れるような気分を感じます。
議論というものは本質的に緊張状態を作り出します。とくに批判は緊張状態を高めます。その正邪に関わらず、批判的な言論を読んでいるだけで無意識に緊張するようです。
たとえばどんな提案にも否定から入る上司っていますね。こういう人と話すときは緊張します。また、異論ばかり唱える部下と対するときもそれなりに緊張します。そんな職場では常に緊張状態が起こります。こちらに闘志があるうちは面白いですが、疲れてくるとそこから逃げ出したくなる。そのうち「もうどうでもいいよ」と妥協したくなります。
現政権側にでたらめなことが多くても野党支持者が一向に増えないのは、こういう心理も一因ではないか、と思いつきました。批判勢力が批判すればするほど、それを聞いている人たちは心理的に疲れてしまう。
40代会社員も、安月給での長時間労働で疲弊しています。新聞やテレビでこれ以上疲弊させられてはたまらない、という意識が働いているのかもしれません。何事にも「どうぞどうぞ」と言っている方が世の中丸く収まって平和です。見たくないものは見ない方が気分は穏やかです。1970年代、学生の反体制運動が盛り上がっていた頃、「私、何も壊したくないんです」と言い放った女子学生がいました。その気持がいまになって少し理解できる気がします。それでいいとは思いませんが。

ブログのタイトルを変えました

2018.12.14

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ブログのタイトルを昨日からちょっと変えました。これまでは株式会社ココノッツの代表として書いていたので「ココノッツブログ」でよかったのですが、5月に代表をおりたので、書き手としての責任を明らかにするために自分の名前を入れることにしました。「君島邦雄のココノッツブログ」です。
お気づきでしょうか。このブログではこれまで「私は」という一人称をできるだけ使わないように心がけてきました。君島個人の考え方と株式会社ココノッツの法人としての考え方には、ほんの少し違いが存在するからです。しかし、もういいや。これからは自分の考えであることを徐々に強調して行きます。
また同時に、この「君島邦雄のココノッツブログ」のミラーサイトのようなものをこしらえました。「君島邦雄のGuessのかんぐり」です。
当面は両方のサイトに同じことを書くつもりですが、少しずつ枝分かれして行くかもしれません。まあ、やってみないとわかりませんが・・・。

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