君島邦雄のココノッツブログ | ココノッツ- Part 3
君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

神様仏様、なぜ写真がお嫌いなのですか?

2018.12.04

飛鳥大仏
有名な神社仏閣ではたいていご神体やご本尊を撮影禁止にしています。あれはなぜでしょう?とネットで検索してみましたが、どうにも腑に落ちません。
信仰の対象にカメラを向けるとは何事ぞ、ということなら理屈もへったくれもありません。その神社やお寺のお考えなのですから。
しかし、そこまで考えているのかなあ、というのが素朴な疑問です。
仏像や美術品がフラッシュ光を浴びると褪色が進むからという説もあるようですが、明確に証明されているんだかいないんだか。ネットではよくわかりませんでした。フラッシュが問題なら、「撮影禁止」ではなくて「ストロボ禁止」にすればよさそうなものです。神社には仏像のようなものがありませんから、これは理由になりにくい。ご神体が鏡ならフラッシュなど跳ね返してしまうでしょう。
写真を撮る人が多いと人の流れが滞るから、というのも理由に挙げられそうですが、さびれたお宮さんでも禁止しているところがあります。ルーブル美術館では押し合いへし合いで観光客がモナリザを撮影しています。
著作権はとうの昔に切れているはずですが、ウチの所有物の写真を勝手に商業印刷物に掲載されてはたまらん。その際には掲載料をいただきたい、ということはありそうです。著作権法で「専ら美術の著作物の複製物の販売を目的として複製し、又はその複製物を販売する場合」は保護されることになっています。が、そういう事例を発見したらその都度個別に対応する、で十分なようにも思います。
繰り返しになりますが、撮影禁止に科学的な根拠はかなり希薄なのではないか、と強く疑っております。
上の写真は、明日香村にある飛鳥寺の飛鳥大仏です。日本最古にして1400年間ここに座ったまま動いていない唯一の仏像だそうです。国の重要文化財でもありますが、どうぞ写真を撮ってくださいと言われました。その理由は・・・伺うのを忘れました。残念。

公共利益が個人利益を上回るとき

2018.11.26

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カルロス・ゴーン氏の公私混同ぶりが連日これでもかこれでもかと報じられています。それらが真実だとすれば、そのスケールの大きさには驚くばかりです。しかし、企業経営者によるちっぽけなスケールの公私混同なら日本中いたるところで見られます。
ゴーン氏は豪華な家族旅行の費用まで日産に出させていたそうですが、海外子会社へ出張するたびに夫婦同伴で出かけるサラリーマン社長もいます。海外でのレセプションには夫婦同伴が当たり前であるとの理屈ですが、一国の元首や首相ではあるまいし・・・。その一方で社員の海外出張は厳しく制限したりします。
どうして周囲の役員や幹部がゴーン氏の公私混同に見て見ぬふりをしていたのか、と批判されています。批判は当然ですが、長年会社員生活をしてきた者にはわからぬでもありません。比較的小さな公私混同なら、投資家や企業を含む「公共の利益」と組織人としての「自己利益」を天秤にかけて自己利益を優先する、つまり見て見ぬふりをする人が多いでしょう。しかし、だんだんと不正のスケールが大きくなると、企業の経営に影響を及ぼしかねない。企業の存続が覚束なくなってしまえば、個人の利益も危うくなってしまいます。自己利益より公共利益を優先せざるを得ない事態となります。そこに至って、そこまで封印してきた個人の倫理観もにわかに頭をもたげてきたりして、突然カタストロフィが起きてしまいます。
報道を見ていると、今回の事件がそんなふうに見えてきました。

はい寿命です

2018.11.19

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テレビ受像器が最近また売れ始めそうだという記事を読みました。地上波テレビがデジタル化されたのは2011年7月で、その頃購入した受像器がそろそろ買い換え時期を迎えているためだそうです。そんなものかなあ、と他人事のように思っていたら、自宅のテレビが突然壊れました。時限爆弾でも入っているのでしょうか。○○○タイマー(○○○の部分にはメーカー名が入る)などという悪口もしばしば耳にしますが、その○○○製ではありません。大昔から電球は一定時間で切れるように作られているという伝説がささやかれてきました。どちらの電機メーカーでも品質管理の技術がさらに悪賢い(失礼!)方向に進歩しているのかもしれません。
修理サービスを呼べば直るのでしょうが、この際、思い切って買い換えようと量販店へ出かけました。置き場所が狭いので大きなテレビは置けません。これまでは32型。最近は画面の縁が薄くなったのでギリギリ40型が入りそうです。どこのメーカーの時限爆弾・・・いやテレビがいいかなと楽しみに出かけたら、「4K対応」(だからと言ってそのまま4Kが映るわけではありません)の40型は1メーカーの1機種しか置いてありません。選択の余地なし。いまやワンルームでも50インチ、60インチといった大画面が主流で、40型なんてミソっかすなんですね。
そういうわけで新しいテレビを使い始めましたが、ワクワク感はなし。何も変わり映えしません。当たり前ですね、映る番組は同じなんですから。いくらかは画面が美しくなったかなと意識的に思うようにして、心を落ち着かせることにしました。
数日たったときです。突然見えなくなってしまいました。時限爆弾ではなくて導火線つきの爆薬であったか・・・これは販売店で交換してもらわなくてはと思ったら、コンセントの抜き差しで直ってしまいました。どうやらAndroidの更新が関係していたようです。知らぬ間にテレビにはOSが仕組まれるようになっていたのでした。そういうことなら時限爆弾を仕掛けなくとも、遠隔操作で「はい寿命です」ということも可能でしょう。なんかいや~なカンジですが・・・。

読まない時代

2018.11.13

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世の中の人たちが読む本と、自分が好んで読む本との間の距離が広がってきたなあ、と実感します。以前からベストセラーと呼ばれる本は読む気が起こらず、マイナーな作家の小説などが好みでしたが、それどころではない乖離が存在することに気づくのです。
ショックを受けたのは近所の本屋に立ち寄ったときです。近くに蔦屋書店とBOOK・OFFがそれぞれ大きな店を構えているのですが、どちらへ行っても目的とする本や興味を惹かれる本を見つけることができません。レアな専門書などを求めているわけではありません。一例を挙げれば、アガサ・クリスティのポアロ物が見つからないのです。いまやミステリー小説の古典など誰も読まなくなったようです。若い日本のミステリー作家の文庫本だけが本棚で生き残っていました。
さらに気になるのは、蔦屋書店にしてもBOOK・OFFにしても本の売場が少しずつ縮小していることです。コミック売場の変化は実感できませんが、それも電子書籍に食われているのかもしれません。
なにはともあれ、みんな本を読まなくなりました。筆者の周囲を見回しても、一部の高齢者を除いて読書する人はだ~れもいません。たまに「これ、面白いよ」とか「これは参考になるよ」と渡しても、いつまでもいつまでも机の上に積まれたままなのです。

癒されません!

2018.11.05

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「癒される」ってのがよくわかりません。
景色のよいところからテレビ中継などすると、レポーターはしばしば「癒されます」などと発言していますが、どんな状態を表現しているのでしょうね。美しい風景に癒されたレポーターさんには、その前と後でどんな変化が生じたのでしょうか。そこのところがよくわからない。「癒す」というのは本来、病気やケガを「治す」という意味ですから。
そもそも何を癒されるのでしょう。悩み? 気の迷い? ストレス? 不安感? 抑うつ状態?・・・。
雄大な自然を見たら誰でもよい気分になります。清々とした気分になって、思い悩んでいたことを一時忘れることはあり得る話です。でも、山から下りたらもとに戻ってしまうのではないですか。癒されたのはほんの一瞬ということになりそうです。
たしかに便利な使い方ではあります。山でも川でもかわいい動物のこどもでも、「癒されるう!」ですんでしまいますから。
「癒される」がこんな風に使われ出したのは、20世紀末から21世紀初めころのことだとネットにありました。だから古い人間には「癒される」は身体にしみ込んでいません。いい悪いはともかくとして、癒される実感がわかないというのが正直なところです。

コンシンのスポーツ

2018.10.18

新聞記者OB氏の会話を聞くともなく聞いていたら、業界団体というのは談合するところだと力説しているのでひっくり返りました。筆者が関係している業界団体では、総会などが始まる前に、独禁法で禁じられていることはしないようにという注意書きが毎回配布されます。それほど神経を使っている業界もあるというのに・・・。
筆者が初めて業界団体と関わりを持ったのは四半世紀ほど前のことですが、最初に驚いたのは、業界の人たちが時間さえあればゴルフの話をしていることです。天下りの専務理事も業界人に輪をかけたゴルフ好きでしたから、話はいつまでもいつまでも、尽きることなく続きました。業界団体というものが業界に属する人たちの懇親の場でもあることを強く印象づけられたのでした。懇親の間に行政やビジネスの話をする。行政やビジネスの話の間にゴルフの話をする。新聞記者OB氏に疑われるのもやむを得ないかもしれません。
もはや旧聞に属しますが、利害関係者と一緒にゴルフをしたことをどう考えているかとコメンテーターから質問されて、「ゴルフに偏見をもっておられると思います。いまオリンピックの種目になってますから。ゴルフがダメでですね、テニスはいいのか、将棋はいいのか」などとわけのわからない答えをした与党総裁兼内閣総理大臣。擁護するつもりはありませんが、このはぐらかしにも一面の真実が反映しているような気がします。ゴルフは本質的に「争うスポーツ」ではなくて「懇親のスポーツ」なのです。与党総裁の言葉にサッカーやラグビーや柔道が出て来ないのは偶然ではありません。
蛇足ですが、筆者も土曜日ごとにゴルフの練習に通っていた時期があります。勤め先では自らの名前を冠したコンペを主催していました。そんなわけで、ほとんど上達はしませんでしたが決してゴルフを知らないわけでも偏見をもっているわけでもありません。

これは売れました

2018.09.21

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低迷する古書相場の中にあっても、値のつきそうなものが押入の奥にあることを思い出しました。古い自動車雑誌です。中学生の頃から小遣いの大半を費やして購入していたもの。創刊号から5年分は完璧に揃っています。
先日、神保町に行ったついでに、自動車雑誌を専門に扱う古書店に寄ってみました。
薄暗い照明の下で禿頭の主人が暇そうにしていたので、こういう古雑誌があるんですが買い取っていただけますかと尋ねたら、答えは、
「現物を見ないとわからない」
という素っ気ないものでした。
「創刊号などは、どのくらいで売れますか?」
「そういうことには答えていません」
あくまでも無愛想です。こんな店には売ってやるものかと、早々に退散しました。
そこでネット検索です。別の専門業者さんに電話したら、都下の自宅まで受け取りに行きますという返事でした。商売はこれでなくてはいけません。
ダンボール箱2つ。先に売った古書の40倍の値で引き取ってもらえました。
これで中学生の思い出が一つ家の中から消えました。とくに感傷はありません。これからどんどん押入と本棚のスペースが拡がりそうです。

また会う日はもう来ない

2018.09.20

もう使わないあれこれを整理しようと考え始めました。
もともと好奇心の強い質(たち)で、あれやこれやに手を出してきましたが、諸般の事情で続けられなくなった遊びや趣味が少なくありません。それらに使用する材料や道具類を、いつかまた使う日が来るだろうと押入や物置の奥で長い冬眠をさせていたのです。「捨てられない症候群」の自覚症状は全くありませんが、そんなこんなで雑物が家のあちこちに堆積しています。たとえば・・・具体的な品名を挙げるのは恥しいのでやめておきましょう。
いまになってみると、なんでこんなものを取っておいたんだろうと思うのですが、その時は、また会う日があることを確信していたのです。しかし、これからそのような麗しき日々が来ることはありそうもありません。それにしても、どこから手をつけたらよいのやら・・・。
一番の問題は書籍類です。棚に前後2列に並べていたところ、最近、何枚かの棚板がゆがんで割れてきてしまいました。こうなると一刻の猶予もできません。大地震が来る前に命取りになりそうです。とりあえず面白くなかった本、興味を失った本、時代とともに価値を失った本などダンボール一箱分を業者へ送ったら435円振り込まれてきました。いまは史上最も古書価格が低い時代なのだそうです。周囲を見回しても、スマホを眺めてばかりで読書をする人はほとんどいませんから、さもあらんと納得せざるを得ません。しかし、売った本の20倍ほどがまだ残っています。さてさて・・・。(次回へつづく)

引っかかりませんでした

2018.09.06

長年、腸の不調に悩まされてきました。処方薬や漢方などいろいろ試してみたのですが全く改善しません。ところが偶然に、干し柿がいくらか症状を和らげることに気がつきました。そこで八百屋や果物屋で箱買いしたり、ネット通販で購入したりしました。あちこちの業者から取り寄せましたが、その一つに「かぶちゃん農園」というのがありました。
そうです。いまニュースになっているケフィア事業振興会の一子会社です。もっとも初めは「ケフィア・・・」とは知らず、ただの農園だと思っていました。品質は安定していて、決して悪くありません。だから度々購入していました。
そのうち、「オーナー制度」のDMが郵送されて来るようになりました。なんとなく胡散臭くて干し柿の購入もやめてしまいましたが、1年ほど前からは週に何度もDMが届くようになりました。なりふり構わずといった必死さが伝わってきました。よほど資金繰りが苦しいんだろうなあと思っていましたが、その推測が見事に当たっていたことがわかって秘かに鼻を高くしております
大丈夫です。引っかかってはおりませんよ。手元資金に余裕がなかったからというのが真相でもありますが・・・。
ついでながら腸の不調の方も名医に巡り会って見事に解決し、干し柿にはすっかり用がなくなりました。

どうしてデジタル化しなかったの?

2018.08.13

https://mainichi.jp/articles/20180810/k00/00m/040/187000c
富士山測候所の68年間にわたる貴重な記録「カンテラ日誌」を捨ててしまったそうです。たまたま気象台に配属されただけの事務官は、この日記あるいは記録一般に対する価値観や意識をまったく持ち合わせていなかったのでしょうね。同時に、それほど大切なものなら、どうしてデジタル化しておかなかったのか、という疑問も湧いてきます。そこで思い出したエピソードがあります。
ちょうどITの黎明期のことです。勤め先の会社は、過去にさまざまな広告活動をしていて、有名な広告賞を受賞したこともあります。レベルの高いパンフレットやカタログも制作していました。それらの関連資料は十分整理もされずにあちらこちらに分散保管されていました。そこへオフィス移転の話が持ち上がり、お決まりのことながら不要な書類を整理するようお達しがありました。
宣伝セクションの管理担当課長がそれに反応しました。彼は、当時普及し始めたカラー複写機で過去の広告原稿などをすべてコピーし、大きめの資料はコピーをペーパーセメントで丁寧につなぎ合わせて、何冊かのポケットファイルに収めたのでした。原資料はすべて廃棄しました。そのときの課長氏の自慢げな表情をいまでも覚えています。
それらの資料がその後どうなったかは、説明するまでもありません。カラーコピーはすっかり色褪せ、ペーパーセメントは剥がれてめくり上がってしまいました。さらに重要なことは、二次利用の可能性がまったく失われてしまったことです。当時、すでに画像のデジタル化は可能になっていました。さらに数年待てば、誰もが手軽にデジタル化できる時代になりました。
手をつけるのが早すぎたのか、技術の進歩を見通せなかったのか。このエピソードを思い出すと、なんだか悲しくなって仕方がありません。

wordingの問題もあるのでは?

2018.08.10

ダイニングチェアを買う必要に迫られました。1年ほど前のことです。
まずお値段が気になるので、ネットであれこれ調べました。材質や構造の違いとともにおおよその価格帯がわかりました。テーブルと椅子との高さの差が重要であることもネットで知りました。しかし、現物を見ないのはリスクが高すぎます。さて、どこへ見に行こうか。
何年か前なら大塚家具へ行ったと思います。ニトリやイケアよりちょっと上等な家具が見つかりそうな気がしたからです。これまで何度も大塚家具で買い物をしてもいます。しかしお家騒動の末、大塚家具は路線転換してニトリやイケアの路線を目指すと表明しています。では、どこへ行ったらよいの?
大塚家具が苦境に立っている要因の一つにnamingあるいはwordingの問題があるような気がしてなりません。いまの大塚家具が売ろうとするターゲット層や商品のポジションを経営者が適切な言葉で表現したのを聞いたことがありません。
ニトリやイケアなら、「まずまず安い(中価格帯?)」、「デザインはシンプル」、「そこそこ満足できる品質」といった言葉が浮かびます。高級品から低価格品までなんでも置いてある店というのも便利なもので、以前の大塚家具は高級路線と言うより、そのような大規模店であったと思います。でもいまは「安いのかどうか信頼しきれない」、「中途半端にデコラティブな家具も置いてある」、「品質は大丈夫かどうかわからない」 いまは一体何なの? ポジショニングを言葉で示してほしいですね。

やっかみ、妬み、焼きもち・・・

2018.08.08

今日8月8日付の日経産業新聞に、近鉄がウエスティン都ホテルを改装して客室単価を2~3万円から4~7万円程度と倍以上にするという記事がありました。
やっかみ、妬み、焼きもち、反感・・・若いときから今日に至るまで、足を踏み入れるたびに、そのテの感情が浮かび上がる場所が高級シティホテルです。蹴上の都ホテルにはかれこれ20回くらい宿泊した経験があります。まだ名称に「ウエスティン」がついていない頃のことです。しかし、もういけません。京都より東京の方がもっといけません。近頃次々につくられる長いカタカナ名前のホテルがとくにいけません。
こちらは零細企業のビンボウ人ですから、どこのホテルでも歩いてエントランスに入ります。脇に立っている警備担当者の視線が気になります。これだけで、やっかみ・妬み気分が沸々とわき上がってきます。ベンツのSクラスなどからここに降り立てば、さぞかし丁寧に応対してもらえるだろうに・・・と。
最近は、目指す宴会場やレストランへのルートがさっぱりわからない高級ホテルが増えました。「これがエレベータホールか」という凝ったデザインのホテルもあって、どちらへ行けばよいのやらキョロキョロするばかり。ベルボーイ・ベルガールに尋ねれば丁寧に教えてはくれますが、腹の中では「おや初めての客かい? こんな高級なホテルに来る人種じゃないだろ」と思われているのではないかと邪推してしまいます。ここまで来るともう「いじけ」や「ひがみ」そのものですが・・・。
これから東京には富裕層だけを対象とする高級ホテルがさらにいくつもつくられるそうです。誰が泊まるのかなあ? 自腹の客は少ないだろうなあ。自分に縁のない場所がますます増えるのだなあ、などとひがみつつも感慨にふけってしまうのでした。

おやじの背中

2018.08.03

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朝日新聞にときどき載る「おやじのせなか」という記事などが一つの典型ですが、子が親について書いているものを読むと、お父さんも苦労したんだなあ、お母さんもつらかったんだろうなあと、そこはかとない「あわれ」を感じてしまいませんか。それ、どうしてなんでしょう。
書いている人は有名人、ということは世の中の成功者ですから、相対的に無名であった親がなんとなくかわいそうに思えてくるのでしょうか。有名人の親だって、それなりの成功者であったり、何かの方面での功労者であったりはします。しかし子の目には、それはあまり見えていない。家族という内側から親を見ているからかもしれません。どこまでも親は親ということなんでしょうね。
先日テレビで長嶋一茂さんが「私は親の七光りでこれからも生きて行きます」と開き直っていました。一茂さんだって独自の存在感を持つ世の成功者ですが、親がエラ過ぎたということでしょう。
幸いにもわが家は何代にもわたってデコボコなしなので、そのあたりは平和そのものです。

言い放しはいけません

2018.07.30

頚椎損傷で首から下の感覚と運動を失った学生時代の友人は、口にくわえた棒のようなものを使って本も読むし、パソコンも操作しています。その友人が書いているブログについて、ある集まりで「ほとんど誤植がありません」と紹介したら、「まったくないよ」と抗議を受けてしまいました。元気なときは書籍編集者だったので、そのプライドが言わしめるのでしょう。
昔読んだ校正者の著書に、校正は十分にしたつもりだが、この本にも誤植があるかもしれないと書いてあったのを覚えています。それほど校正に完璧を期すのは難しいらしい。
また、校正という作業には向き不向きがあるようです。筆者は明らかに不向きな方で、目を皿のようにして校正したつもりでもザルそのもの。校正にはまるで自信がありません。
時々ある著名なカメラマン氏のブログを読むのですが、これが誤字や誤変換のオンパレード(この表現も近頃お目にかからなくなりました)。なぜだろうと思ったら、どうやら音声入力をしているらしいのです。音声入力の精度も高くなりましたが、まだまだ完全とは言えません。出力されたテキストを読み返さすこともなく、「言いっ放し」で公開するという神経が理解できません。ブログが個人的なものだとしても、読み手の存在を想定している以上、これはとても失礼な話だと思います。
このブログはもちろんキー入力しております。ときどきミスタッチします。挿入・削除を繰り返しているうちに、日本語とは言えない文章になってしまうことがあります。校正はしているのですが、何しろ不向きなものですから・・・。

目の前の現実を見てください

2018.07.19

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「ポカリジュース」

校外学習に参加した1年生が熱中症で亡くなったそうです。担任教師の知識と意識に問題があったのは疑いのないところでしょうが、何が何でも「全員」を校外学習に参加させ、任務完了させなければならないといった規則だか空気だかがあったとしたら、それも問題視しなければならないでしょう。
ウチの子にポカリスエットを持たせたいと言ったら、学校から「それはジュースだから」と断られたという書き込みがTwitterにありました。〈ポカリがジュース〉というのも大時代的で笑えますが、実際は笑いごとではありません。
もしここに脱水症状を示している子がいて、周囲に水飲み場は見あたらないが、ポカリを持っている人がいたとしたら、どうするんでしょうね。ちょっとそれを飲ませてやってくれませんか、などと気の利いたことをするとは思えません。水場のあるところまで、あるいは学校に帰るまで我慢しなさい、とその子に命じるんでしょうね、きっと。
もしポカリを持っている人が、これを飲ませてあげてと申し出ても、そのポカリが衛生的であるかどうか確認できない、もしあとで食中毒にでもなったら大変だ、と思いを巡らせて拒否することもあり得ます。
人の生死を分ける事態を前にしても規則や建前や責任論を重んじて、目の前の現実を見ない、最適解を適用しない形式主義が、とくに学校を含めた公務員の世界で多すぎる気がします。

ココノッツはいけませんか?

2018.07.06

ネット上の情報によれば、「9」と書いたTシャツを着て国会の傍聴に行こうとすると、衛視に入場を止められるとか。「9」は憲法第九条を連想させるから、ということらしいのですが、これが事実だとすれば(フェイクニュースでなければ)、思想の自由、言論の自由という民主主義の根本にとって由々しき問題だと思います。
と同時に、これは困ったことになりました。弊社の社名「ココノッツ」です。
ココノッツの由来として、弊社のサイトには次のように書いています。
coは『一緒に』、『お互いに』といった意味を持つ接頭辞です。Knotは『結び目』です。『絆』、『集団』といった意味もあるそうです。 広報という活動を通じて、企業や団体と社会を結びつけて行きたいという思いから、CocoKnotsという社名にしました。 もう一つ。ココノッツは『9』でもあります。『満れば欠くるは世のならい』と申します。10になることを目指して常に努力したいという気持も込めています。」
http://www.cocoknots.co.jp/mission.html
「9」でもあるんですよ、「ココノッツ」は。ということは、弊社は国会には入れないことになる。
この社名を考えた10年前に、「ココノッツ」が憲法第9条につながるとは想像もしていませんでした。変な世の中になってしまったものです。

いい先生だったんだなあ

2018.07.03

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先日、卒業した高校の同期会がありました。なにがなんだかわからないうちに幹事の一員にされてしまい、及ばずながらお手伝いをしました。
そこは、都立高校としては最低レベルの偏差値を誇っていました。前身が女学校だったこともあって男女半数ずつ。卒業後の進路も進学と就職がほぼ半々でした。当時の4年制大学進学率は全国平均で約13%、男子が20%で女子は5%に過ぎません。それを考えれば、偏差値の割にはかなりの進学率と言えるでしょう。同期生の中には、それなりに著名な画家や元大臣の野党代議士などもいます。
開催の準備をしている中で気づいたのは、当時の先生方の何人かが、その後大学教授になっているという事実でした。大学教授になったからエライというわけではありませんが、高校教諭をしながら専門の勉強や研究をコツコツしておられたのだなあ、という感慨が起こったのでした。
3年時の担任だった現代国語の先生は折口信夫門下の文学者として、研究者の間では知られた存在でした。所属したクラブの顧問だった倫理社会の先生はドイツ哲学、社会学の研究者で某私大の経済学部長でした。そのようなバックグランドを持つ高校教師だったことなど、現役高校生のときはまるで知りませんでした。ネットが発達した現在だからこそ調べることができた事実でもあります。
日経新聞の「私の履歴書」など、有名人や経営者の自伝に、恩師がいかに素晴らしかったか、といった記述を見かけることがありますが、その先生に教わっていた当時に、本当にその偉大さを認識していたのでしょうか。後付けじゃないの? 自分のうかつさを棚に上げて、そんな素朴な疑問が浮かんだりしたのでした。

日本的な重大問題について

2018.06.21

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なるべく始発電車を利用して、座って出勤することにしています。同じ考えの人が多いので、発車時刻の20分前にはすでに列ができています。
鉄道会社では3列に並ぶように促していますが、実際にはある駅では4列であったり別の駅では2列であったり、駅によって異なります。いつも使うこの駅の慣習では、何年も前から2列です。ところがここに一つの重大問題が進行しつつあります。
2列で10人以上が並んでいる先頭の横に、最近男が一人立つようになったのです。これで3列になるわけですが、男の後に並ぶ人は誰もいません。後から来た人はみな長い2列の後につきます。男に苦情を言う人はこれまでのところ現れません。複雑な表情で男を見ていたり、知らん顔してスマホを見ていたりするばかりです。
鉄道会社が3列での整列乗車を促していることを考慮すれば、この男の行為が非難される筋合いはないとも言えます。しかし、日本的な、極めて日本的な空気の読み方からすれば、違和感を持たれて当然ということにもなります。後から来て先頭に並ぶのは「列の割り込み」と判断できないこともありません。
さて、あなたならどうしますか?と、ハーバード大学のナンチャラ教授の授業のテーマになりそうですが、私ならどうするか? わかりません。幸か不幸か私がいつも並ぶ列の問題ではないし・・・。
この問題の行く末がどうなるのか、注意深く経緯を見守りたいと思います。

オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな

2018.06.08

昔の勤め先の社長は、「オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな」としばしば言っていました。ゴルフに凝ると本業がおろそかになって、握る鮨がうまくなくなるといった趣旨であったかと思います。大手企業の経営者兄弟がゴルフに凝りすぎて経営が一時傾いたという話は、ご本人がどこかで書いていたので事実なのでしょう。しかし、ゴルフと鮨の味との相関関係についてはよくわかりません。
傍証を挙げれば、店にゴルフのイラストを掲示していた鮨屋はその後居酒屋に衣更えしてしまいました。ココランチにも掲載していた麹町の鮨屋もオヤジがゴルフ好きでしたが、いつか消えてしまいました。
こんなことを思い出したのは、先ほど昼食で入った鮨屋のオヤジが大声で客とゴルフの話をしていたからです。ランチのサービスメニューを食べただけなので、味を云々するわけには行きませんが、先日行った近くの鮨屋よりはうまかったような・・・今後を見守りたいと思います。

「丁寧に説明したい」

2018.05.30

近頃、あちこちで「丁寧に説明したい」というフレーズを見かけるようになりました。その端緒は国会の政府答弁なのでしょうが、これは一時の逃げ口上で、実際には少しも丁寧でないとは、誰もが感じるところです。
・・・と思いながら、電子辞書の広辞林を引いてみたら、「(1)注意深く念入りであること。細かい点にまで注意の行き届いていること。また,そのさま。(2)動作や言葉遣いが,礼儀正しく,心がこもっている・こと(さま)。(3)何度も繰り返すこと。特に何度も忠告すること。(4)文法で,話し手が聞き手に対して直接に敬意を表現する言い方。→丁寧語(一部省略)」となっていました。
これを政府答弁その他に当てはめると、どうやら(3)の意味でお使いになっているのではないか、と思い当たりました。何度も何度も同じことを繰り返している(新事実が出てくるたびに少しずつ修正されていますが)。なるほど。確かに「丁寧に説明して」いるのに相違ありません。

日大アメフト部問題から目が離せません

2018.05.28

政治の世界の方がより深刻ではあるのですが、広報の人間としては日大アメフト部の問題から目を離せません。広報の歴史に残る出来事がこんなにつぎつぎに起こるなんて、めったにないことですから。
本質的な問題については各メディアで論じられていますし、ツイッターなどでもいろいろな指摘がありますので、ここで書くまでもありません。
興味深いのは、関学と日大の広報のあり方です。記者会見で記者と議論してしまった司会の日大広報部顧問氏も、冷静な受け答えをしていた関学のディレクター氏もどちらも記者出身だと報じられています。
前にも書きましたが、企業(団体)の広報でメディア出身者が成功した例は少ないと思います。企業とメディアとの間には深くて、暗いかどうかは知りませんが、越えがたい川が存在します。企業内での広報の役割や活動は、メディア側にいては見えにくいのです。さらに、記者という職業に長く携わっていると、アタマを下げるのが苦手になるようです。権威にアタマを下げていては記者は務まりませんから。メディアで活躍し請われて企業の広報に入ったら、一から広報の基本を学ぶことなどプライドが許さないでしょう。その典型が日大顧問氏のように見えました。関学ディレクター氏は希有な存在なのかもしれません。

ウソをつくことは得なのか?

2018.05.22

世の中、ウソつきが多いのだなあと、このところつくづく思い知らされます。
広報の仕事をしていると、なんとかコトを大きくしないように計らったり、アドバイスしたりはしますが、「ウソはいけません」ということは一貫しているつもりです。ウソはいつかばれる日が来ます。それが明日だったり50年後だったりするだけのことです。
危機に際しては、自分の身や自分の利益を守ろうとすればするほど、身を滅ぼしたり大きなダメージを受けたりする確率が高くなることが経験則からわかっています。本気で身を捨てるつもりになることで身が守られる確率は決して少なくはありません。しかし、すべてを失う確率の方もまた少なくありません。どちらをとるか。
人間の尊厳とか名誉とか品格とか、そのような要素を加味しようとすれば、ウソはつかない、過去のウソは撤回して謝る、自分を守ろうとしない・・・という選択になります。今後の利益が守られるなら、そんな要素はどうでもよいと考えるならば、ウソを貫くのも一つの選択肢ではあります。ただし、それが成功する確率も100%ではないのが悩ましいところです。

と書いたところで、反則を犯した日大アメリカンフットボール部の選手の記者会見が始まりました。近頃まれに見る謝罪会見の成功例です。誰が見てもウソを言っているようには思えないでしょう。関西学院大学の監督も敬意を表するとコメントしました。彼の前途が開けますように、と願わずにいられません。

7-38-55で負けでしょう

2018.05.11

発したメッセージ内容とは異なる表情や態度を示した場合、話の内容などの言語情報から受ける影響は7%に過ぎず、声のトーンなどの聴覚情報による影響が38%、表情など非言語の視覚情報によるもの55%だというのが、メラビアン(またはマレービアン)の法則と言われるものだそうです。「そうです」と伝聞で書いたのは、原著を読んだことがなくWikiを読んだだけだからです。原著の翻訳は古書で5000円もするのです。
広報に関係している人の中にも、この説を曲解したメラビアンの俗説”を信じている人が少なくありません。「人は見た目が9割」などという本がその代表で、説明は省略しますが、皮肉なことにこちらの本は読んだことがあります。
こんなことを思い出したのは、このところ国会の証人喚問や参考人招致、さらに政府の答弁などをニュースで繰り返し見るからです。確かに証人や参考人や政府関係者は上手に言い逃れています。しかし、それらの中継やニュースを見ている国民は、せっかく知恵を絞って練り上げた答弁という言語情報からは7%しか影響を受けないことになります。これはどうにも政府側の分が悪い。ではないですかね。

チャーチルとダンケルク

2018.04.19

15日日曜日の東京新聞「こちら特報部」の“本音のコラム”に山口二郎氏が映画「チャーチル」について書いていました。日本の現首相も見たのだとか。
たまたま飛行機の中で、この映画を見る機会がありました。
チャーチルが首相に選ばれるプロセスから始まり、フランスのダンケルクでドイツ軍に包囲されている英軍をどのように救出させるかに苦悩し、対独和平への誘惑を、生まれて初めて乗った地下鉄の中で直接国民の声を聞くことで振り切り、議会で、戦いの継続を「すべての英単語を駆使して」訴えるまでを描いています。このような演説の語法が日本語にはいまだに存在しないことをつくづく認識させられました。とくに最近の国会でのやりとりを見ると・・・。
さらにムービーのプログラムを検索すると、なんと「ダンケルク」があるのを発見。「チャーチル」が政治の場での英独戦を描いたものなら、こちらは同じ時系列における戦いの現場を描いたもの。ダンケルクに追い詰められている英軍を動員された多くの民間船舶が救出に行くエピソードを中心に描いています。
たまたまですが、日本人には馴染みの薄い第二次世界大戦初期の英独戦を、二つの面から知ることができたのでした。

ドラマの裏側はわからない

2018.04.03

自分の会社が記者やジャーナリストから自分の会社がどのように見られているか、どこの企業も強い関心を持っています。そこで企業認知や自社の広報活動に関して記者の声を聞く場を設けたり、調査をかけたりすることがあります。これらは経験上とても有意義な調査になることが多く、自社の広報活動の成功している部分、足りない部分がクッキリと浮かび上がります。他社の広報活動について有益な情報やヒントが得られることもあります。
それはそれとして、このような調査を通じて気づくことがあります。記者やジャーナリストは“企業の広報を知らない”という事実です。
あそこの広報は頻繁にコンタクトしてくる、あそこの社長はフランクに取材に応じてくれる、この会社は役に立つメディアセミナーを開催している、といったことは現場の記者はよく知っています。彼らは広報の対象、もしくは受け手ですから当然です。
ところが彼らは、そこに至るまで、広報セクションがどのような目標のもとに、どのような企画を立て、どのような地道な作業を積み重ねているかについてはわかりようがありません。
テレビドラマにたとえるなら、ドラマを見ている私たちには、出演者の演技やストーリー展開の良し悪しについて感想を述べたり批評したりすることはできます。しかし、プロデューサーがどんな企画を考え、脚本家がどのような取材をし、どこにロケハンをして、ディレクターはどんな演技指導をしたのか等々の裏側は、テレビを見ているだけではわかりません。そんな楽屋落ちを覚らせることなく楽しめるドラマこそ理想でしょう。広報も同じことです。広報のテクニックや仕掛けなどを記者やジャーナリストに覚られてしまっては失敗です。
記者出身者を広報の責任者に据える企業や団体があります。しかし、大きな成果を挙げることが少ないのは、そんなところに要因があるのかもしれません。視聴者や評論家がドラマをつくろうったって、そう簡単には行きませんぜ。

記者会見とストロボ

2018.03.27

メディアトレーニングで、記者役の他にカメラマン役も用意して、パッパッパッとストロボを発光させることがあります(実際にやったのは数回ですが)。臨場感を演出して、本番の記者会見で緊張しないように慣れていただこうという意図です。
マリリン・モンローとかジョー・ディマジオとかジョン・F・ケネディ(3人の関係にこだわったわけではありません)などの「時の人」がフラッシュライトを浴びながら、突きつけられた大きなマイクに向かってコメントしているシーンなどが、昔のニュースフィルムに残っていたかと思います。記者会見と言えばフラッシュがつきものでした。
現在の記者会見でも、とくにニュースバリューの高い事案では、会見者の前にスチールカメラマンがずらりと腰を下ろして盛んにストロボを発光させています。
ところが知人のプロカメラマンによると、感度を高く設定できる最新型のデジタルカメラならストロボは必要ないのだそうです。
デジカルカメラはさらに進歩しつつあって、4Kで動画を撮影しておき、一番よいカットを静止画像として切り出すことが可能になっています。新聞やネットニュースで使う程度なら十分な画質だそうです。8Kならさらに解像度の高い写真が切り出せます。
1台のカメラでニュース動画もスチール写真も得られるということなら、スチールカメラマンたちの職が危うくなりそうです。だから必要がなくてもストロボを発光させて自らの存在をアピールしているんだ、というのは少々皮肉が過ぎる気もします。動画と静止画は画の特性が全く異なる、という説にも理解できるところがあります。
シャッター音もない静まりかえった会場で聞こえるのは、会見者の読み上げるコメントと質疑応答、それにキーボードを叩く音だけ・・・という記者会見は、ちょっと妙な気分のものでしょうね。

事実とリアル感と、そして真実

2018.03.22

朝のNHK連続テレビ小説に、現像された映画フィルムを手に取る戦争中のシーンがあって、そこに小道具として使われていたのがオレンジ色に着色された最近のネガカラーフィルムだった、と知り合いのカメラの専門家が指摘していました。色素のにごりをとる目的で、ネガカラーフィルムがオレンジ色に着色されるようになったのは戦後のことなのだそうです。
そのNHK連続テレビ小説を出張先のホテルで見ていたら、フィルム以上に気になることがありました。戦時下のストーリーなのに、男性出演者のヘアスタイルが現代そのものなのです。昔の人は、一部の「変人」を除いて、長髪は鬱陶しいという価値観を持っていたはず。ましてや戦時下だったら「非国民」と非難されていたでしょう。戦争中に現代人がタイムスリップしたような違和感を感じました。長髪はビートルズ以後に一般化しました。
俳優さんとしては、あるいは所属するプロダクションとしては、このドラマのために丸刈りなどにしてしまっては次の仕事に差し支えるということなのかもしれません。役づくりのために体重を増やしたり前歯を抜いたりした俳優さんのエピソードも聞いたことがありますが、そこまでやる仕事ではないと割り切っているのでしょう。そういうところにドラマとしての完成度の低さを感じてしまいます。
時代考証は演出との兼ね合いもあって、必ずしも歴史に忠実とはいかないと、別のNHKの番組で専門家が話していました。ドラマの世界では事実すなわち真実ではない、それは理解できないこともありませんが、リアルワールドにおいては事実すなわち真実でないと、とても笑ってすますわけにはいきまへんな。

ガバナンスとは何かなあ

2018.03.19

IRの世界では、ガバナンス、ガバナンスとかまびすしい。しかし、どうもまともに理解している向きは少ないように思います。ガバナンスとは不祥事を防ぐこと、という誤解が最も一般的ですが、株主の意向を反映させること、というのもあります。会社中がトップの言うことを聞く、あるいは聞くように経営することがガバナンスだと思っている人も多いようです。そいういうことならば、命令をしなくても下の者がトップの意向を忖度する現政権のガバナンスが理想的ということになるのかもしれません。それは違うでしょう。
東証のガバナンスコードの定義は、「会社が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組みを意味する」というもので、それはごもっともだけど、経営者も従業員も社会の構成員も、それぞれ精神的に自立していて、自由に物が言える環境にあることが大前提です。
しばしば遭遇するのは、社長のいる場では何も発言しない社員たちの姿です。下手なことを言えば左遷されるかもしれない、給料が上がらないかもしれないとみな怖れています。そのような場に何十年も身をおいたので、これは他人事ではありません。
あらためてガバナンスと何かなあと、最近のニュースを見ながら考えます。結論は得られておりません。

役所の体質

2018.03.14

いま、某役所から帰ってきたところです。
弊社は超零細企業ですので、いただける公的助成はみんないただきたい。社労士さんに依頼すれば簡単ですが、その手数料がもったいない、ということで、幾多の難関を乗り越えつつ自ら手続きをすることにしております。
最初の難関は、役所のHPを読み解くこと。やさしく説明しようとする努力は認められるものの、1回読んだだけで理解できるような代物ではありません。制度の条件に当てはまるかどうかを確認し、手続きの順番と時期を把握し、必要書類をチェックする。そこまででかなり消耗します。何回か読み直さないとアタマに入りません。
さて、ようやく揃えた書類一式を携えて役所へ出向くと、これが一回で受理されることはまれです。今回も初回で討ち死に。温和しそうなオジサンがチェックリストと説明書を参照しながら、あっちをめくり、こっちをめくりしながら書類を確認することおよそ30分。この書類が必要だと思うので上長に確認します、と言い置いて鳩首協議すること15分。その挙げ句、どこにもその書類が必要だと書かれていないので、必要ありませんという結論に。自分で言い出しておいて、なんじゃそれは。「この助成金の申請はまだ珍しいんですよ」と言い訳。
さらに、チェックは続き、昨年の夏にできた制度が秋にまた改正になったので、書類の一部が適合していないとの理由で結局ボツ。それはないでしょう。そんな改正のお知らせはいただいておりません。そのあたりが社労士でない悲しさです。
そんな経緯をへて、今日再び役所に行ったわけです。
今度はしかめっ面のオバサンが担当。前回のチェックリストが役所にファイルされていて、どこが問題だったのか記録が残っているにもかかわらず、また目を皿のように書類を初めからチェックして、ようやく受理されました。書類に対する役所の扱いというのは、このようなものなのでしょう。
ホッとして「この申請は珍しいんですってね」と言ったら、「申し上げられません」ですって。オバサンの名前が佐川さんだったかどうかは、聞き漏らしました。

不毛の議論

2018.03.01

自分にとってはどうでもいいことなんですが、なんとなく気分がよろしくない、というニュースがときどきあります。泰明小学校がアルマーニデザインの「標準服」を導入したというのもその一つ。
そもそも公立小学校に「標準服」なるものが存在していることを、今回の報道ではじめて知りました。自分が区立小学校に通っていたときはもちろん、すっかりオヤジになってしまった息子どもが卒業した市立小学校にも「標準服」があったという記憶がありません。
標準服というのは、制服でないが、制服みたいなものらしい。そのようなあいまいな状態で、何気に強制するというやり方が気分をよろしくさせない要素の一つ。こういうのも「行政指導」の一種なのでしょう。
銀座だからブランド、という陳腐な発想がもう一つの要素。何の関係もないでしょう。校長のアタマの中でだけつながっているらしい。
ブランドならブランド料も支払わなくてはならないし、生地や仕立てもブランドを傷つけることのない品質に保たなければなりません。お高くなるのは予想できたこと。教育の無料化などと叫んでいた政治家はどう考えているのでしょう。
この一件については、朝日新聞で制服の価格問題を扱って貧困ジャーナリズム大賞2016を受賞された記者さんが、HUFFPOSTに異動して、学校側と保護者とのやりとりを詳しく報じています。それを読んだら、さらに気分がよろしくなくなってしまいました。不毛の議論というのが、まさにこれです。バカバカしいっちゃありゃしない。

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