Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

謹んで新年のごあいさつを申し上げます。

2012.01.01

今年はよい一年でありますように。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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CCをつけない人

2011.12.12

電子メールが普及し始めてからすでに四半世紀は経っています。パソコンが苦手という中高年の方々でも、仕事をする以上はメールくらいは使えなければお話にならないというのが現在の状況です。
極めて日常的な通信手段となったメールですが、少々気になることがあります。それは、CCをつけない人がいる、それも少なからずおられるという事実です。
私が初めて「CC」の存在を知ったのは、外資系企業に就職したときでした。PCのない時代ですから、ビジネス文書は薄手の用紙に手書きかタイピングで作成されました。なぜ薄手かと言えば、Carbon Copyをとるためです。そして、社内連絡には必ず
CC : Mr. A. Yamamoto, Mr. T. Wright
などと、自分の直属上司と相手の直属上司へCCをつけることが求められました。コピーを回すのは、その人にも読んでもらいたい、あるいは読んでもらわなければならないからです。CCを受け取った人に意見があれば、その返信もまた同様にコピーが回されます。情報共有のためのすぐれた方法で、これが米国流です。メールのCCは、この米国流を踏襲しています。
当時の、いやいまでも多くの日本企業は稟議というシステムを使っています。これはコピーを配布するのではなく、電子化されていても基本は回覧です。あらかじめ会議で決定したり、根回しで了解されたことを記録として残すことが主目的で、稟議書の回覧は形式的なものになりがちです。稟議書に意見を付けられたり差し戻されたりすると、起案者にとっては減点対象の大事件になってしまいます。通常の事務連絡も原則は回覧で、ハンコがべたべた押されて戻って来ます。
そのような日本流ビジネス文書の伝統に親しんでいれば致し方ないとも言えるのですが、こちらからCCをつけてメールを送信したのに、その返信にCCをつけない人が少なくありません。「全員に返信」をクリックしていないのです。これは中高年に限りません。返信にCCを付けないということは、意図的にCCの対象者に返信を読ませないということです。そのような自覚もなく、単に「返信」ボタンを押しているだけ、というのはいささか困ったことです。〈kimi〉

広報セクションの人材

2011.12.07

先週の金曜日は、広報セミナーでかつて教えた受講者のみなさんが10名ほど集まって、楽しい懇親会を催しました。
広報のセミナーを受講する方の多くは企業の現役広報パーソンです。ところがその後3~4年の間に他の部署に転出してしまう人が少なくありません。当日集まった人たちにも、いまは他の仕事に就いている人の方が多くなってきました。
広報の組織や人材の問題を考えるとき、以下の3つの要素に留意すべきでないかと考えています。
1)広報活動には継続性が必要であること
2)広報は専門性が高い業務であること
3)社員に広報業務を経験させることは人材教育として有意義であること
その企業の広報に関するポリシーが一貫していることで継続性は保たれますが、実際には広報セクションのリーダー(責任者)の考え方に大きく左右されます。担当役員などが短期間で交代しても、内部にポリシーが保持されていれば問題はありません。しかし、なかなかそうは行きません。広報のポリシーがコロコロ変わるようでは、長期的な目標に向かって広報活動を展開することは困難です。
また広報活動には人脈が大切です。人脈というのは極めて属人的で、後任に引き継ぐことは非常に難しい。紹介を受けたとしても、そこから新しく人間関係を作りあげなければ機能しません。これすなわちコストでもあります。
「広報の専門性」を認識しない経営者も少なくありませんが、それは暗黙知が多いからではないかと思います。マニュアル化し難い種々のスキルを必要とするのが広報活動というものです。そのように考えて行くと、一定期間広報セクションに在籍している専門人材が必要だということが理解されるでしょう。
一方、経営人材養成のキャリアパスの中で、一度でも広報セクションを経験することは非常に有用であると考えられます。企業を取り巻く社会の考え方や動きを学ぶには、広報はうってつけの仕事です。その意味では、人材ローテーションの中に広報セクションを組み込むことが日本の企業にはもっとあってしかるべきです。
比較的長期に在籍する専門的な社員と短期間にローテートする社員の組み合わせ、これがが広報セクションには必要なのではないかと考えられます。〈kimi〉

自爆

2011.12.01

申し訳ないことながら(謝る必要もありませんが)私は軽度の阪神ファンです。「軽度」という意味は、めったに球場へ足を運ばないということであり、甲子園にも行ったことがありません。ただ、試合翌日のスポーツ欄ではタイガースの試合経過を真っ先にチェックしますし、シーズン中は全試合をテレビで見られるようにスカパーと契約しております。
さて、シーズンオフにプロ野球の話を持ち出したのは、例の讀賣ジャイアンツ騒動が起こったからです。
日曜日にテレビの報道バラエティを見ていたら、卵焼き屋の息子タレントが口を極めてクビになった元GMを批判していました。そうなのかな、とも思いましたが、新聞やテレビの情報しか知らない私には判断する手がかりがありません。またどちらが正しいとか間違っているとかいうような問題でもなさそうです。
しかしながら、世の多くのサラリーマンは元GMの方にある種のシンパシーを感じているのではないか、と推測します。
何年か会社勤めをすると、ほぼ100%の確率で自分の利益しか考えない経営者や“しょうもない”上司と巡り合います。自分の考えを通したい、でも通らない。自分の意見を言いたい、でも言えない。このような葛藤と戦いながら、気がつけば定年となっている。そのような勤め人たちには、元GMが自分の姿の写し絵のように見えるだろうと想像しております。
企業は民主的な組織ではありません。ではどんな組織なのか。その明確な定義は聞いたことがありませんが、社内では何事も多数決で決まることはなく、たいてい職階上位の人に決定権があります。そんな組織なのに、法律上取締役会は多数決が原則となっていて、なんとなく民主主義風な仕組みがあるために、勤め人たちはついつい企業の意思決定に対して幻想を抱いてしまいます。
社会の視点と企業の視点の交点で仕事をしている広報担当者のみなさんは、とくに強い葛藤を抱えているはずです。トップに直言したい、という思いを何年も心の底に抑えつけていて、ついに爆発させてしまった人も少なくありません。その多くは単なる自爆で終わったはずです。私には、そのような一途な広報担当者の姿と元GMの姿もまた重なって見えて仕方がないのです。〈kimi〉

非連動

2011.11.16

昨年の6月から、このココノッツブログをFacebookに連動させてきました。そうしておけば、あえてFacebookの方に書き込みをしなくても、このブログを自動的に転送してくれます。便利だと考えました。
Facebookって、気楽にどんどん書き込んでおられる方も大勢いらっしゃいますが、私には結構難く思えるのです。
ブログは不特定多数に読まれることが前提です。それはそれで書きようがある。しかしFacebookは一応「お友達」とだけつながっていることになっている。ブログとは異なります。異なっていなければかえっておかしい。ところが「お友達」にもいろいろな方がおられます。仕事上でお知り合いになった方もいれば、クラスメートもいる。昔の部下もいます。これらの異なった属性を持つ方々を読み手と想定するとこれは書きづらい、と私は感じます。
そんなわけで便宜的にブログとFacebook連動させてきたのですが、先日来、
「11月22日をもって、外部サイトやブログからFacebookノートにコンテンツを自動的にインポートする機能の提供を停止します」
という告知がFacebook上に表示されています。もうブログとの連動はおしまいです。となるとFacebookにもたまには何か書き込まなければなりません。さてさてどうしたものか・・・少々困惑しております。〈kimi〉

リッチについて

2011.11.10

俳優、タレント、作家、スポーツ選手、ギョーカイ人、ニューリッチ…最近はセレブリティなんて呼ぶのでしょうか、そういう人たちがテレビや雑誌などで紹介している飲食店は、一定の地域に偏っていると思いませんか。統計をとったわけではありませんが、東京の麻布、六本木、広尾、恵比寿、代官山、青山などが圧倒的に多いでしょう。
私、東京生まれにもかかわらず、これまでそれらの地域にほとんど縁がありませんでした。代官山など、たまに行くと迷子になってしまいます。そんなわけで、グルメ雑誌においしそうな店が掲載されていても、所在地を確めては、縁がないなあとため息をついております。もちろんお値段の面からもご縁がないことが多いのですが。
そのような街々には、たぶんセレブたちのお住まいや所属事務所があるのでしょう。飲食店を開店しようとする人たちも、どうせなら北千住より(北千住にとくに恨みはありません)、パブリシティ効果のあるセレブ街の方が、と考えるのでしょう。その結果、特定の地域に集中してしまうという理屈なのだろうと推測します。
弊社は創業以来、麹町・半蔵門界隈に居座っています。近所にご同業も何社かあるものの、とくに集積しているというほどではありませんし、お客様のオフィスに近いわけでもありませんが、交通の便がほどほどよくて、おいしいランチのとれる店もほどほどある。しかも停電もない、液状化もない、マクドナルドもない。住み慣れるとそれなりに居心地のよい地域なのです。そんなわけで、ココノッツ創業4年目にして2度目の移転先も半蔵門といたしました。11月14日より新しいオフィスで業務を開始する予定です。〈kimi〉

ひきだしの中と発想の自由の関係

2011.10.27

最近、ノベルティのボールペンをいただくとうれしい半分、「困ったな」とも思ってしまいます。
私のデスクの薄いひきだしは、ボールペン、油性サインペン、水性サインペン、マーカー、マジック、シャープ、万年筆、筆ペン、鉛筆、赤青色鉛筆等々の筆記具に加えて、ハサミ、カッターナイフ、ペーパーナイフ、定規、三文判、テープのり、ホッチキス、ルーペ、ゼムクリップ、ダブルクリップなどの文房具ですでにいっぱい。ときどき開かなくなって、ガタガタやっています。ボールペンにしても普通の黒、ジェルインクの黒、消せる赤、シャープつきの4色等々が何本もあります。原稿などはパソコンで書いていますから、筆記具はこんなに必要ありません。デスク上にはお気に入りの「ジェットストリーム 4&1」が一本転がっていて、もっぱらこれを使っています。それならひきだしの中の大量の筆記具は一体なんなのだ、ということになります。
生産現場で生まれた5S運動というものがあります。ご存じのように、整理・整頓・清潔・清掃・躾の5つを徹底させて効率を上げようというカイゼン活動の一種です。これを事務部門にも応用しようとしている企業が少なくありません。そんな会社だったら、私のデスクのひきだしは即刻摘発され、厳しく躾けられてしまうことでしょう(おおコワ!)。
私、会社勤めをしている頃から、この5Sを企画部門に適応することには大反対で、その考えはいまも変わりません。定型的な事務処理を行っている職場では効率優先で構わないと思いますが、新しいアイデアを考えたり、他社がやっていない方法を試みたりするような創造的な仕事において、優先すべきは効率ではありません。
いつものボールペンにいつものCampus noteではなくて、万年筆にグラフ用紙で企画を練ってみたらイイコト思いついた…なんて、そんな単純なことではありませんが、そのような「遊び」が企画という仕事には欠かせません。環境の自由度は発想の自由度に影響するはずです。刑務所の中で創造的な仕事をするのは一部の特殊な才能に恵まれた人に限られます。筆記具は黒と赤のボールペンのみ、しかもひきだしの中にボールペンの絵が描いてあって、必ずその位置にしまうこと。そんなことをやっている企画部門では、会社の将来は危ういのではないか、と心配になってしまいます。
とは申しましても、私のひきだしの中は少々問題です。より深刻なのは、こんなに自由度が高いのに、このところちっとも自由度の高いアイデアを思いつかないことなのですが。〈kimi〉

想定外の事態

2011.10.11

半年ほど前から、おかしいな?とは思っていたのです。自宅のパソコンからときどきカチカチと時を刻むような音が聞こえてくるのです。内部を覗いてみましたが、異音の発生個所が特定できません。作動に不具合もなかったので、そのまま使い続けておりました。
先日、そのパソコンを隣の部屋へ移動する必要に迫られました。コロコロガタガタと敷居を2回跨ぎましたが(自分で組み立てたパソコンなので、大きな筐体の下にキャスターがついています)、何事もなく数日が過ぎ、再びもとの部屋へコロコロガタガタと移動させたら、ついにおかしくなってしまいました。カチカチが止まりません。ソフトがなかなか起ち上がりません。そしてOSが起動しなくなってしまいました。そうなってから、ようやく気がつきました。3台つないでいたうちの一番古いハードデスクがあやしい。それを切り離したら、パソコンは知らん顔してもとの状態に戻ったのでした。やれやれ一安心。外したハードディスクはあまり使っていなかったから問題なしと、その日は心安らかに寝についたのでありました。
翌朝、目覚めたとたんに気がつきました。そのディスクには「ピクチャ」を割り当てていたのだ、ということを。ここ数年に撮影した写真などの画像のすべてそこに収められていたのです。無精な私はバックアップをとっておりませんでした。これぞ想定外の事態です。
ネットで調べたら、ハードディスクの修復を専門業者に依頼すると5~20万円ほどもかかるらしい。これもまったくの想定外。
教訓:1.科学技術には全幅の信頼をおいてはなりません。常にリスクを考えるべきです。2.日々の労力と必要なコストを惜しむと、莫大なコスト負担が生じることになります。大は原発から小はパソコンまで、これらは共通しているようです。〈kimi〉

不思議な注意書き

2011.09.26

metrosaku.jpg
会社への行き帰りに毎日利用している東京メトロ有楽町線にもホームドアの設置が進みつつあります。現在は工事中で、ドアは開いたままです。そのような中途半端な状態は危険ということなんでしょう、ホーム上の係員を増やして警戒に当たっています。こういう配慮が日本の社会は実にきめ細かい。やり過ぎという意見もあるでしょうが、これも一種の豊かさというものなんだろうなあ、などと感銘を受けながら何気なく貼紙を読んでいたら、不思議な一文を見つけました。写真の青い矢印のところです。
●ドア位置は柵がなく、軌道に面しておりますのでご注意ください
ちょっと待って。誰だって柵がないことはわかるんじゃない? 軌道(線路のことを鉄道業界ではこう呼ぶのでしょうね)に面していることも一目瞭然です。開業以来、ホームの全長にわたって柵がなく、軌道に面していたにもかかわらず、こんな注意書きは一度も目にしたことがありません。酔っぱらいや目のご不自由な方に向けた注意なのでしょうか。しかし、酔っぱらいが読むとも思われず、目のご不自由な方はもちろん読めません。親切心からであることは理解しますが、実に不思議な注意書きではあります。〈kimi〉

宗谷を見て来ました

2011.09.20

宗谷
今月末で休館すると聞いて、船の科学館というところに行ってきました。とくに船が好きというわけでもなく、海が好きというわけでもないのですが、宗谷という古い南極観測船だけは見学しておきたいと思ったのです。
これまでの半生で、〈ちょっとこの飲み屋街を探検してみようや〉といったケースを除くと、探検と名のつく行動をしたことは一度もありません。チャンスもありませんでしたし、積極的に探検に出発するための努力もしてきませんでした。しかし、子どもの頃から憧れてはいました。一度はやってみたいと思い続けて来たのは、古いフォルクスワーゲンのステーションワゴンを駆って草原を旅することなんですが、これは梅棹忠夫さんの影響かな。
さて、宗谷は想像していた通りの小さな船でした。2000トン少々。これで氷山の浮かぶ南極へ行こう、あるいは行かせようと考えたこと自体が、今日の常識では信じられません。しかも6回も。だからこそ当時は探検であったとも言えるのですが。
休館まで1ヶ月を切った船の科学館の入場料は700円から200円へと大幅にディスカウントされていました。良心的とも言えますが、私のような駆け込み見学者でぎわう館内を見ると、経営感覚としてはいかがなものかとも思いました。いかにも社会科見学風の、真面目ではあるけども古典的な展示ともども、これでは休館もやむを得ないかな、と納得しながら帰って来たのでありました。〈kimi〉

美談ばっかり

2011.08.18

嫌いというわけではないのですが、高校野球というものに私はそれほど関心がありません。東京生まれの東京育ちであるため、郷土愛が薄いこともあるでしょう。進学した高校の野球部が、応援する甲斐もないほどに弱かったということもあります。しかし、一番の要因は、あの特異な実況アナウンスに少々違和感を覚えてしまうからなのです。
今日もラーメン屋で長崎チャンポンを食べながらテレビの実況を眺めていましたが、あれは一種のホメ殺しだと思い当たりました。ネット際でフライをとれば、解説者ともどもキャッチャーをほめちぎる。守備位置の右に飛んだ打球を捕ったセカンドを絶賛する。一方、エラーをすると、見てはいけないものを見てしまったようなアナウンサーのこわばりが伝わってきます。決して選手を非難することなく、ビデオのリプレーもせずに、次のプレーへと話題を転じます。これって、想定してはいけないものは想定しないことにしていた電力会社や役所の態度とどこかつながっているような・・・考えすぎでしょうか。
大相撲の実況も似ています。どの力士も等しく稽古に邁進しているようなことばかり。中には怠け者も悪いヤツらもいるに違いないと思っていたのですが、リンチや野球賭博が表沙汰になったいまも、あまり変化が見られません。これに比べれば、選手をこき下ろすこともあるプロ野球中継の解説の方がいくらかマシに思えます。
高校野球のプロ化とか特待生制度とか、いろいろ問題が指摘されていますが、美談、美談で飾り立てるような偽善性こそがモラルハザードや腐敗をもたらすのではないかと思うのですがね。〈kimi〉

ところでございます

2011.08.08

「前向きに検討いたします」というのは「いまは行動を起こす気はありません」ということで、「適切に対処します」と言えば「いままで通りにやります」という意味だったり・・・。このような役人言葉に、物事を几帳面に考える人(まともな人のことですが)が腹を立てるのは至極当然のことです。
さて、ここに新たにご紹介したい役人言葉は、「・・・ところでございます」という表現です。
「それに関しましては、すでに局長通知等によって周知を図ったところでございます」というふうに使われます。よく耳にするでしょう。これを聞くたびに身体の内側がモゾモゾしてしまいます。
これは極めて特異な、役所特有の語法です。たとえば酒屋のオジサンが使うでしょうか? 芸術家が使いますか? タクシーの運転手さんが使いますか?
「運転手さん、次の信号を右に曲がってください」
「はい、その件につきましては、すでに右にウインカーを出したところでございます」
なんて言いっこないでしょう。
どうしてこんなおかしな表現が官僚に広まってしまったのか。まず思いつくのは「官僚の無謬性」という言葉です。官僚は間違うはずがない。少々問題があろうとも、それは失政ではない。したがって過ちを公に認めることもあり得ないという論理ですね。
たとえばジャーナリストに、「これはおかしいんじゃないですか?」と質問されると、「おかしいですねえ」と答えてしまったら過ちを認めることになる。そこで、その件についてはすでに把握していて、(決して有効とは考えてはいないけど)こういう手をすでに打っておりますと言わなければなりません。そのようなときに、「その件につきましては・・・ところでございます」という表現が出てくる。これが出て来たら、言い逃れ、責任逃れだと判断してほぼ間違いなさそうです。
これ、官僚だけに独占させておくことはありませんね。私たちも大いに利用しましょう。言い逃れにはとても便利だと思いますよ。もちろん、まともな人たちからは顰蹙を買いますが。〈kimi〉

メディアの基準値

2011.07.27

これまでに聞いた「ただちに人体に影響するレベルではない」をすべて足し算すると、一体どういうことになるんでしょう。初めは高をくくっていたのですが、これほど「ただちにレベル」が累積すると、怪しい雲行きになって来ました。30年後には、日本人のがん発生率が顕著に上昇するのではないかと心配です。
そもそも次々発表される基準値というものを私は信頼しておりません。何を根拠に決められているのか、その点を疑っているからです。国際的な基準を参考にしていると言われても、前例はチェルノブイリくらいしかないのですから、どれほどの信頼性が担保されているのやら。
そのような「なんだかわからん基準値」を次々に発表する政府はもちろんですが、それをそのまま大本営発表のごとく報道しているマスメディアへの批判の声もこのところ高くなって来ました。
しかし、政府の公表基準値に代わるより適切な数値を読者に示すだけの取材力、検証力、知識、見識を新聞社や放送局が持っているとも思えません。メディアにできることと言えば、せいぜい批判的な学者のコメントをとってくるくらいことです。メディアには公的機関の発表以外の数値を報道することなどできっこないのです。それをすれば、その責任をメディアが負うことになるからです。メディア批判をしているのではありません。それがメディア、いやジャーナリズムというものだと申し上げたいのです。〈kimi〉

更新という名の障害

2011.07.22

朝、さて仕事を始めようとPCにスイッチを入れると、起動したにもかかわらず画面が真っ黒になったり、「お待ちください」と表示されたままになったりして、2時間近くも動かなくなってしまいます。その間は仕事になりません。こんな事態にこのところ何回か見舞われています。その原因はソフトの更新というヤツ。それが自動的に始まってしまうのですから、これはもう被害と言ってもいいんじゃないでしょうか。
もちろんソフトによっては、いますぐインストールするか、次の機会にするかを選べることもあります。次にしても構わないのでしょうが、ついつい「更新」ボタンを押してしまいます。なにしろ、いますぐ更新しないと脅威にさらされるという脅し文句がついているのですから。
数日前にはOSのかなり大きな更新に遭遇しました。今回は先に自宅のPCで経験したので、オフィスのPCでは用心して、時間の余裕のあるときに意識的に更新をかけることにしました。しかし、これで安心してはいけません。シャットダウンのボタンにさらに更新マークがついています。これを押して帰宅した翌朝、PCは再び大寝坊を始めて1時間近く目覚めようとはしないのです。
朝から取りかからなければならない仕事があるときは、途方に暮れます。いくら安全のためとは言え、ソフト会社は顧客を上から目線で見ているとしか考えられません。こんな不条理なことがいつまでも続くとは考えられないのですが・・・。〈kimi〉

行進の本質

2011.06.28

ラーメン屋や鯛焼き屋の前ではたまに行列をすることがありますが、行列して歩く、つまり行進というものを私はここしばらくしたことがありません。そもそも大の行進嫌いなのです。
小学生のときはよく行進させられました。朝礼、運動会、遠足、いつでもどこでも行進でした。いまも事情は変わっていないようです。集団行動の精神を養うといった理屈があるのでしょうが、批判もあります。先生にとっては、子どもたちが並んで歩いてくれた方が面倒がありません。本音はそんなところかもしれません。
世界共通で最も行進好きな集団と言えば軍隊です。軍事パレードが大好きな国が近隣にいくつかありますが、日本の自衛隊もバッキンガム宮殿の衛兵も行進をします。警察、消防団などの組織に属している人たちは、事あるごとに行進しています。高校野球の選手たちも行進しながら入場して来ます。そう言えば、オリンピックでは開会式では入場行進をするのに、閉会式ではバラバラです。なぜなんでしょう。
おぼろげな歴史認識によれば、もともと日本には行列はあったものの、行進という概念はなく、幕末に西洋流の軍隊を組織するときに、初めて輸入されたようです。ということは、大名行列も行進していたわけではないということになります。
集団行動には縁遠いように見える弁護士さんも行進がお好きであるようです。テレビニュースには、行進しながら裁判所に入って行く弁護団の姿がしばしば登場します。不祥事のあった企業に家宅捜査に入る地検特捜部のみなさんも行進しています。秩序を重んずる法曹界は行進がお好きなのでしょうか。
一般には、大人になると行進する機会はめったにありません。パック旅行で添乗員さんの小旗について歩くときでも、バラバラくっついて歩いていますね。自我が確立している人間は行進を好まないはずです。行進という行為は自我の一部(まれには全部)を組織にゆだねることではないかと考えてみると、行進の本質が見えて来るようです。軍隊しかり、デモ行進しかり、塀の中もしかりです。私がしばらく行進をしていないのは、そんな組織に属していないからなんでしょうね〈kimi〉

なんとかリンクしているようです

2011.06.27

このココノッツブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまった、と先に書きました。どうやらうまく連動したようです。「どうやら」というのは、「私の書いたノート」というところに連動すれば、「友達」が読めるようになっているらしいのですが、「友達」ではない私(つまり本人)には確認できないからです。できるのかもしれませんが、そこは先頭集団から5m遅れで走っている私のこと、よくわからないのです。
以前に書いたブログを「友達」のみなさんが読めているのかどうかも実は確信が持てません。念のためにココノッツブログのURLを記載しておきましょう。
http://www.cocoknots.co.jp/blog/index.php      〈kimi〉

ブログなんですが・・・

2011.06.24

え~、なんてわざとらしく書き出したのは、なんとなく言いにくいというか書きにくいからです。そのわけは、このブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまったからです。うまく連動するかなあ、というおっかなびっくりな気分もあるし、「友達」ということになっている方々に読まれることに対する緊張もある。
なまけなまけ書いているココノッツブログは、どのくらいの方々から読まれているのかよくわかりません。もちろんログ解析レポートには数字が打ち出されているのですが、世間一般のブログに比べればかなり少ないのではないかと思います。
それなのになぜ書いているか。理由はいろいろあるんですが、自分自身の文章トレーニングの場、というのが実は大きな部分を占めています。たとえばブログの文章とプレスリリースの文章とは大きく異なりますが、それでも文章を書くという行為を続けていないと筆が(キータッチが)錆び付きます。ブログを書きながら、密かにレトリックの練習をしたりもしております。
そんな練習につき合っていられるか、と下心はすぐに見透かされ、それが読み手が少ない原因かもしれません。そんなエチュードをFacebookと連動させるなんて、恐れ多いことです。しばらくやってみて、続けるかどうか改めて考えることといたします。〈kimi〉

「間違いありません」

2011.06.20

「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉

先頭集団から5m

2011.06.10

少し前にTwitterが話題になったと思ったら、昨年末の中東ジャスミン革命あたりからは、俄にFacebookが注目されるようになりました。
こう書くと、ITに熱心な方々から、いやもっと前から盛んに使っているよとお叱りを受けそうですが、日本の社会一般ではこのあたりが妥当な認識だろうと思います。
さて先日、そのようなソーシャルメディアをどのように広報に応用するか、といったテーマのセミナーに参加して来ました。それなりに参考にはなりましたが、ふと会場を見回して気づいてしまいました。ひょっとしてこの会場内の最年長者は私じゃないの? 広報の世界の方々は一般に若作りが多いので正確には判断できかねますが、三番以内であることはほぼ間違いなさそうでした。
同年代のビジネスマンたちの中に、メールは読むけど返事は出せないという人がいまも存在します。TwitterやFacebookにはついて行けないと、あきらめている人たちがほとんどです。一方で、はるかに年長にもかかわらず元気にTwitterでつぶやき続け、Facebookのニュースフィードに毎日書き続けている方もおられます。
どんどん進化するIT技術にキャッチアップし続けるのは、マラソンに似ています。先頭集団に遅れそうになって、もうダメだと思った瞬間から、あっという間に100m、200mと引き離されてしまいます。なんとか先頭集団の後方5mに食らいついている、というのがいまの私のポジションでしょうか。実に危うい。次の給水ポイントはまだかしら・・・そんなこと考えているようでは、途中棄権もあり得るかな。〈kimi〉

ラーメンフリーク

2011.05.23

最近は嗜好が変わってきて、ほとんど興味を失っておりますが、かつてはかなりのラーメン好きでありました。その残滓がときたま頭をもたげることがあって、ある日突然、山梨県某市の極めてわかりにくい場所に存在するというラーメン屋へ行ってみたくなってしまいました。
食い物をおいしくいただくには空腹であることが絶対の条件。ちょうどよい時間に現地に到着するようカーナビゲーションをセットして午前10時30分かっきりに自宅を出発しました。
「このあたりです~」とカーナビが任務終了を宣言したのは、地方のなんでもない住宅地のド真ん中。こんなところにラーメン屋が成り立つのかなあ、と心配しつつ前進したり曲がったりバックしたりしているうち、ようやくその店を見つけたのはちょうど12時でした。カウンターのみ10席ほどの店内は満席で、店の前には3人組とカップル計5名が行列していました。行列ができる店が大嫌いな私ですが、1時間半もかけてやってきた以上は列ばないわけには行きません。30分待ってようやく入店することができました。
さて、不思議な光景に出会ったのはそれからです。行列をしていたときは一切会話を交わすことがなかった3人組とカップルが黙礼を交わしました。しかも3人組は先に入店していた客とも黙礼を交わしたではありませんか。そればかりではありません。5分後に私の後から入店した3人の中年女性は先の3人組に「ああ、こんにちは」と挨拶をしました。どうなっているのでしょう。私以外の客がすべて知り合いだなんて・・・これはもうカフカか安部公房の世界です。
地方の町のことだから、みんな顔見知りということはあり得ます。初めはそう思いました。しかし、彼らの会話を聞いていると、どうも違うようです。そこで思い当たりました。
彼らは東京から来たラーメンフリークたちではないか。有名店、評判店を食べ歩き、あちこちの店で出会ううちに顔見知りになってしまった・・・そのような結論に達したのでした。これは驚くべきことではありませんか。
日本のラーメンブームもかれこれ30年以上は続いているようで、こうなるとブームとも言えず、かと言って文化というほど立派なものとも思えず、なんと表現してよいやらわかりませんが、とにかくいまの日本には相当数のラーメンフリークが存在しています。彼らが次々に開店するラーメン屋に試食に訪れ、このような地方の店の経営も支えている。ラーメン店の市場規模は4,000億円以上とも言われていますが、彼らラーメンフリークたちによる部分は一体どのくらいあるのでしょう。
そうそう、その店のラーメンの味について書くのを忘れていました。少なくとも私は一回行っただけで十分満足いたしました。二度と訪れることはないでしょう。〈kimi〉

何を持ち出すか

2011.05.11

福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉

お箸が足りないんですって

2011.04.28

いま東北の被災地がどのような状態であるのか、テレビや新聞で報道されてはいるものの、東京にいては本当のところがわかりません。避難所には十分物資が届いているのかどうか・・・。一方で、支援物資として送られてきた大量の古着の処理に困っているという報道もあります。
そんな折り、避難所ではお箸がなくて困っているという話が飛び込んできました。又聞きの又聞きなので間違っているかもしれませんが、こういうことらしい。
避難所には割り箸はある。しかし数が足りない。そこで割り箸を洗って使っている。本来割り箸はシングルユースなので、何回も使っていると汚れてくる。また、日本の家庭では箸は個人使用。一人一人決まったものを使うのが習慣です。そういうことで、避難所におられるみなさんは箸がなくて困っているというわけです。意外なものでご不自由されているんですね。
そこでココノッツでは、この連休に石巻に支援に向かうグループにお箸を託すことにしました。
お送りしたお箸
お箸の中味
100均で仕入れた箸で恐縮ですが、お役に立てばうれしいです。〈kimi〉

広報パーソンに何ができるか

2011.04.21

東日本大震災の被災地には多くのボランティアが訪れているようです。がれきの撤去を手伝う人、避難所でカレーをつくる人、被災者の心のケアをする臨床心理士、歌手、タレント、スポーツ選手、被災者のの話を聞くボランティアもいるそうです。体力のある人はそれだけで役に立つでしょうし、医師やコメディカルなどの資格を持っている人は歓迎されるでしょう。人気者はその人が現れるだけで喜んでもらえます。
それでは広報を仕事にしている人には何ができるのでしょう。たとえば私に何ができるかと考えたら、途方に暮れてしまいました。体力にはまったく自信がありません。現地のご迷惑になるばかりです。役立ちそうな資格や特技もありません。壁新聞つくりのお手伝いくらいはできそうですが、壁新聞は被災した地方紙の記者さんがすでにやっておられると聞きました。そんなわけで、何か手を貸したいと思いつつも歯がゆい思いをしております。
企業の広報担当者だったら何ができるでしょう。その専門性を活かそうと思うなら、やはりコミュニケーションで役に立ちたいものです。
企業がしなければならないことは、言うまでもなく本業をできるだけ早く軌道に乗せることです。復旧状況を取引先ばかりでなく、株主、投資家、顧客など社会全体に知らせ、情報を共有する。これは、現下の社会・経済状況においては非常に重要な企業活動と言えるでしょう。東証の適時開示情報閲覧サービス(TDnet)には、多くの上場企業から震災による影響や被害の復旧状況が開示されています。上場企業でなくても、これは必要なことと考えられます。広報やIRの担当者でなければできない震災対応業務の一つかもしれません。〈kimi〉

これでよいとは思いませんが

2011.04.18

私は菅直人という人に一度も会ったことがありません。ましてや腹を割って話したこともない。メディアを通して、その行動の一端については70年代から伝え聞いてはおりますが、実際にどんな人物なのかはまるで判断がつきません。
その首相に対する批判がメディアで高まっています。とくにいくつかの新聞は、その一挙手一投足についてことごとく批判を展開しています。どんな思惑があるのか知りませんが(うすうすはわかっておりますよ、もちろん)、そこまで書かれるのですから、菅首相もお世辞にもうまくはやれてはいないのでしょう。
しかし、だからと言って他の誰かが政権を担えばうまくやれるのかと言えば、決してそうとも言えません。誰がやっても五十歩百歩。画期的に事態が改善するなんてことは望めません。日本が緊急事態に直面しているこんなときに政局を混乱させてはかえってマイナスでもあります。
それよりも気になるのは素朴な「強いリーダー待望論」が高まっていることです。強力なリーダーが一人であれこれ指示を出せば、物事の進行が多少は速くなるかもしれません。しかし、それに従って誤った指示を出す確率も高まります。さらに問題なのは、一つの価値観ですべてを決定してしまうことです。それによって不幸になる人たちが必ず出て来ます。多くの場合、幸福になる人たちより不幸になる人たちの方が多くなることは、過去の歴史からも明らかではありませんか。
現政権を支持しているわけではありませんが、妙な独裁者が登場するよりはよほどマシではないか、と考えつつ今後の成り行きを心配しております。〈kimi〉

新聞紙は役に立つ

2011.04.08

すでに旧聞に属しますが、福島第一原発2号機のピットと呼ばれる溝から高濃度に放射能汚染された水が海に流れ出ていることがわかりました。結局は水ガラスを使って流出を止めることに成功したようですが、最初に試みたのはピットにセメントを流し込むことでした。それで効果が見られず、次に試みたのは吸水性ポリマーとおが屑と新聞紙を詰めることでした。
その作業が報じられているとき、テレビである新聞人が「新聞がお役に立ってよかった」と発言しているのを耳にしました。
ちょっと待ってください。新聞を役に立てようとしているのではなくて、新聞紙を役立てようとしているんでしょ、と思わず突っ込みたくなりました。新聞紙は、寒い避難所でも防寒具の代りに役立ったかもしれません。日本では新聞紙は津々浦々まで配達されているので、こういう事態ではいろいろと応用範囲が広い。書かれている記事はほぼ1日でその価値を失ってしまうにもかかわらず、紙の方はその後にも利用価値がある。それはそうですが、その新聞人の暢気な発言を聞いて、なにか新聞の将来を暗示しているような憂鬱な気分になってしまいました。〈kimi〉

どうして日本人は兵站を軽視するのか

2011.04.01

被災地のみなさんにはまだ必要な物資が十分届けられていないようです。もどかしい限りです。やむを得ない事情もあるのでしょうが、たてまえ主義や形式主義や官僚主義によって物事が進まないということもきっとあるに違いありません。それを考えると腹立たしい限りです。
そんな中で、福島第一原発で作業に当たっている人たちの食事が1日2回で雑魚寝状態であると、数日前に報じられていました。その後、改善されているでしょうか。
腹が減っては戦ができぬと昔から言われています。当たり前のことです。しかし、目の前に任務や仕事があると寝食を忘れてそれに取り組むことが善であるという観念が日本人からはどうしても抜けないようです。それが日中・太平洋戦争での兵站軽視につながっていて、いまの福島第一原発にまでつながっていると考えると、これはもう日本人の宿痾としか考えられません。長期戦では、マンパワーが途切れることなく最大限に発揮できるようにすることこそが勝利への最重要課題でしょう。
先日ご紹介した『広報の基本』は産業編集センター刊「企業広報ブック」シリーズの第一巻ですが、その第六巻は危機管理広報に長い経験をお持ちの田中正博さんによる『クライシス・コミュニケーション』です。その中で田中さんは、クライシス発生時の備えとして次のように書いておられます。
「対策本部には常時、いろいろな社内の要人が出入りする一方、常時、在席しなければならない経営陣、管理職、担当者がいます。こうした人たちのために飲料と食事、あるいはドリンク剤は欠かせません。人数が多くなれば意外と多量の飲食料が必要になります。それを保管するための冷蔵庫が必要です。とりわけ、食事は重要です。長期対応に備え、食事は簡単な弁当では済みません。モラール(士気)に影響します。多少、値がはってもおいしい仕出し弁当にしておくことが肝要です」
これを読んで、「なんだつまらないことを書いている」と思った人は直ちに対策本部から出て行っていただきたい。私はこの指摘に大いに共感いたしました。〈kimi〉

圧迫ストッキングは必要だけど

2011.03.23

その電話は突然でした。
「震災避難所での二次的な健康被害を防ぐ企画だ」というのですが、話を聞けば聞くほど頭の中が混乱してよくわかりません。いろいろ質問をしてようやくわかったのは、その電話の主が圧迫ストッキングの輸入元であるということです。その圧迫ストッキングを避難所に送りませんか、ということらしい。
とくにご高齢の方は避難所で長時間毛布にくるまってじっとしておられることが多いようです。そこで心配なのがエコノミー症候群。その予防には、静脈を強く圧迫する弾性ストッキングが有効であろうということは、2007年の中越沖地震のときにクローズアップされ、よく知られるようになりました。今回の地震でも、発売元の一つであるテルモが寄贈することをすでに発表しています。
これはなかなかよい企画ではないかと思いました。そこでさらに話を聞いてみると・・・
被災地で生活する方々へ支援物資を送りたいと考える企業がその輸入元にお金を払う。すると輸入元が日赤に圧迫ストッキングを寄贈する、というのです。
これって、なにか変じゃありませんか? 要するに、その会社の圧迫ストッキングを買ってほしいということなんです。ご丁寧にも自社サイトに申し込み書まで掲載しています。
被災者を食い物にして商売をしようとしている。これでは社会貢献の衣を着たオオカミです。おためごかし。火事場泥棒、いや震災地泥棒の一種と言ってもよいでしょう。いまも怒りが収まりません。〈kimi〉

社会との良好な関係を築く『広報の基本』

2011.03.22

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こんなときにタイミングがよいのか悪いのか。ココノッツの企業サイトのトップページ“What’s New”でもご紹介しましたが、さる3月18日に、「社会との良好な関係を築く 広報の基本」(産業編集センター刊、定価1,360円税込) を上梓しました。その『あとがき』から数行を引用いたします。
「一流企業と呼ばれる一部の大企業で広報活動が活発に行われているのは間違いありません。マーケティングと連動した商品広報もにぎやかに進められています。ネット広報も盛んです。にもかかわらず、予期せぬクライシスに見舞われると、それまでは自信満々に展開していた広報活動や情報開示に対する企業姿勢がどこかに隠れてしまい、稚拙なコミュニケーションで世界中から非難を浴びてしまう。そのような「一流企業」の姿を私たちはしばしば目にします。企業の本質の部分に、広報はまだ根付いていないのではないでしょうか。」
もちろん今回の大震災の起こるはるか以前に書いたものです。〈kimi〉

結論を先に言いなさい!

2011.03.17

こういう複合危機状況の中では、書きたいことは山ほどあれど、書くべきことと、いま書いてはならないことが複雑にからみあっています。危機を脱しようとすべての人が努力していると信じたい。そのようなときに、揶揄したり批判したりすることは慎みたいという気持が働きます。つまりはブログが書きにくい。
政府、役所、企業などの記者会見がこのように連日テレビ中継されるなんてことは、極めてまれなことです。危機管理広報の実例を毎日勉強させられているようなものです。
書きにくいけど、気がついたことをいま一つだけ書いておきます。
緊急記者会見では結論を先に述べるべきです。
国民のすべてが、いまどうなっているのかを知りたい。何をやって、どうなっているのかを知りたい。それをまずアナウンスすべきです。そのあとで、「というのは・・・」と背景説明をしてほしい。テレビ中継されている記者会見で、報道資料の説明など後回しにすべきです。そんな単純なことがどうしてわからないのか。そのことに毎日イラだっています。〈kimi〉

カンニングについて

2011.03.09

大学入試のカンニング事件もヤマを越したらしく、すっかり報道が少なくなりました。少々やりすぎたか、とメディアの側も反省したのかもしれません。携帯を使ったという点、ネットの質問サイトを利用したという点、それらが新しかった、つまり”ニュース”だったというだけのことで、よくよく考えたらただのカンニング過ぎないということになったのでしょう。
その大騒ぎ報道を見たり読んだりしながら、学生時代に耳にした話を思い出しました。うろ覚えですが、こういう話だったと記憶しています。
文化大革命当時の中国でのことです。一人の紅衛兵がカンニングをして捕まりました。すると、毛沢東はこう言いました。
「カンニングをしたっていいじゃないか。それでその子は知識を一つ身につけたのだから」
この話に当時の私はえらく感心してしまいました。これは見事な「発想の転換」ではないか。物事を別の角度から見る面白さを、この逸話で学んでしまったのです。
誤解をしていただきたくないのですが、私は毛沢東主義者でもカンニングの擁護者でもありません。カンニングに成功したこともありません。カンニングで知識が増えるかどうかに関しても、大いに疑問を抱いております。
しかし、カンニングという行為は、どこか窃盗や傷害といった犯罪とは異なる面があるのかもしれない、とも思うのであります。〈kimi〉

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