Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

情報のレセプター

2011.02.28

さる休日、友人たちと東京を散策するつもりで、昼前に山手線の某駅を出発しました。
歩き始めるとほどなく、幕末の歴史に必ず登場する人物のお墓があるという道標を見つけました。ついでだからと寄ってみることにしました。
目的のお墓に近づくと、初老の男性が一人立っていて、意味ありげな視線を私たちに送っています。男の帽子には、これも幕末に活躍した人物の名が縫い付けてあります。気になりながらも、その前を通り過ぎてお墓の前に着きました。
「この人、お妾さんが大勢いたんだよなあ」などとお墓の下の人について無責任なことを話していると突然、「このお墓、ちょっとおかしいと思いませんか?」と後ろから大きな声がしました。その男です。
私たちが何も答える前に男は、その墓がいかに尋常と異なるかということを滔々と説明し出しました。これが長い。中身は省略しますが、やがて同じ説明の繰り返しになってきました。
悪いことをしようとしているようではありません。お金をとるわけでもない。しかし、男の説明を聞いているうちに、一刻も早くその場を立ち去りたい気分になってきました。
これから先は憶測に過ぎませんが、男は歴史好きの勉強家であるようです。自分の知り得た知識や驚きを、他の人にも伝えたい。しかもできるだけ多くの人に伝えたい。そういう熱意が話し方に表れています。しかし、一介の市井人にはカルチャーセンターの講師になる道もなく、雑誌から原稿を依頼される機会も訪れません。思いが余って、このような行動をとらせているのではないか、と勝手に想像しました。もしそうなら、その気持ちはとてもよくわかる。しかし、そこはかとなく悲しい。それが、居たたまれなくなった原因です。
これは広報活動の一面をも示しているような気がします。伝えたいことはたくさんある。どうしても伝えたい。その気持があふれるほどあっても、聞きたいと思っていない人の耳には入りません。よく効くと言われる薬でも、患者さんにレセプター(受容体)がなければ効かないのです。話を受け入れてもらうためには、レセプターを用意してもらうための前段階が必要です。唐突な情報伝達は、成功確率が低いと言えます。
残念ながら、その男の話に対するレセプターをそのときの私は持っていなかったのでありました。〈kimi〉

取引上の関係について

2011.02.23

医薬品や医療機器のビジネスに、他の業界から入った人たちが等しく感じることは、顧客である医師との関係が、一般の取引関係とは明らかに異なっているということです。売り手と買い手の間に立場の違いがあるのは当然ですが、社会的地位の違い、ときには人間の価値の違いまで想起させるような極端な上下関係は、やはり奇異なことと言ってよいでしょう。
少なくとも1960年代まで、製薬会社の営業社員(当時はプロパーと呼ばれていました)が開業医の奥さんから買い物を頼まれることは決して珍しくありませんでした。そんな名残がいまに続いていて、MR(医薬情報担当者と呼ばれる営業社員をいまはMedical Representativeと呼びます)を一度でも経験したことのある人は、医師の前では無意識に揉み手をして頭が下がってしまう。そんな光景を実際に何度も目撃しています。
さて、最近気づいたのは、PR会社と取引先との関係です。これが隣接分野であるIRの支援会社と取引先との関係に比べて少々違いがあるようなのです。
端的に言ってしまえば、多くの企業はIR支援会社にはアドバイスを求めるのに対して、PR会社には指示をする、というカンジです。
資本市場というのは、一般の事業会社には理解しにくいところがあります。アナリストはどのような考え方をするのか。ファンドマネージャーはどんな企業を評価するのか。上手にIRをするにはどうしたらよいのか。それやこれや、IR支援会社の意見を求めることが多いようです。それを受けて「こういう発表に仕方はよろしくありません」といった助言が日常的に行われています。
それに対してPR会社には、新製品のパブリシティの提案を持ってくるように、とか、○月○日に発表を行うから用意をするように、といったご注文が多いように思います。これはアドバイスを求めているということではありません。PR会社の方から「御社のそういうやり方はマズイですよ」なんて、なかなか言いにくいのがPRの世界です。実際、そのようなアドバイスを差し上げて、仕事がなくなってしまったことがあります。
このような相違が生じたことにはPR会社の方にも責任があるようです。日本にPR会社が生まれてからこの方、しっかりと企業にアドバイスできるだけの専門性をどこまで蓄積してきたか、ということです。もちろんソリューションで成果を挙げておられるPR会社も存在しますが、まだまだ少数派です。
広報のコンサルテーションを掲げる弊社としても、自戒を込めて今後の課題にしたいと思います。〈kimi〉

イク~、なんてね

2011.02.14

ほぼ一年前から、本の原稿を書き始めました。それが来月に、ようやくカタチになる予定なのですが、校正の段階で悩んだことがいくつかありました。たとえば「言う」と「行く」です。
「それはこういうことです」などと書くときの「いう」を、私は原則としてひらがなに開くことにしています。では、「それは違法であるといわれています」はどうか。この例では、不特定多数の人たちが言っているということですから「言われています」の方がわかりやすいでしょう。一冊の本の中ではできれば統一したいものですが、無理に統一しようとすると、どこかで矛盾が生じてしまうようです。それぞれの文脈によって異なっていてもよいのではないか、という(注:この場合はひらがなでしょう)ような鷹揚なスタンスが正解であるように思います。
「企業ごとに見て行くと」といった場合の「行く」にも悩みました。編集者さんからは「いく」に統一しましょうと提案されました。これには少々違和感を覚えたのですが、結果としては提案に従うことにしました。
違和感というのは、私は「行く」を「ゆく」と読むのを好むからです。辞書では「いく」も「ゆく」も許容されています。現代では「いく」と読む人の方が多く、「ゆく」は伝統的であり、古めかしいとも言えます。その妥協として、私はいつも「行く」と漢字で書くことにしています。
もっとも「いく」と「ゆく」と、漢字の「行く」には微妙なニュアンスの違いがあることも十分承知しております。表題に掲げた「イク~」などは、「ユク~」でも「行ク~」でも表現できかねる状態を示しておりますな。
さて、一昨日のことです。新しくiPod Touchを購入しました。いままで愛用していた旧機種より軽いし、WiFiのある環境ならメールもできるしサイトを見ることもできるので、これは便利じゃないか、と考えたからです。そこで新機種をあれこれいじっておりましたら、この機械では、「ゆく」と打って「行く」と漢字変換できないことに気がつきました。編集者さんの提案は卓見であったとも言えますが(注:この場合は「言え」でしょう)、アップルは日本語を知らないんだとも言えそうです。そうでなければ、明らかなバグですよ、これは。〈kimi〉

トザイトーザイ

2011.02.01

相撲の八百長問題には、それほど感心が持てません。だって、相撲がなくなるなんてこと、ありっこないですよ。国民ががっかりするじゃないですか。常套句で表現すれば、日本人の心にぽっかりと穴が開く、といったところでしょうか。
相撲は独占企業だからなくせないはずです。職業的な相撲を興業できるのはこれまで日本相撲協会ただ一社。そのような企業は、経営形態や組織形態が変化したとしても、なくすわけには行きませんから、八百長がどこまで拡大しようと、何らかのカタチで存続するのはわかりきっております。それじゃあ、つまりません。ハラハラドキドキがないですもの。
なくならない、というのは実に安心なものです。だからお相撲さんたちもユルユルとやってきたんじゃないですか。そこにモラルハザードが生じる余地があることはいまさら言うまでもありません。いくら外部から批判されても、いくらお相撲さんたち(とその出身者たち)が努力しても、なんだか無駄なような気がします。
この際、相撲協会を分割するというのはいかがでしょう。そもそも相撲は東と西に分かれて取るものなんですから、相撲協会イーストと相撲協会ウエストに分ける。過去にJRやNTT、高速道路会社などの前例がありますから、それほどびっくりするほどのことはありません。そうなったら、東と西がそれこそガチンコになるでしょう。東京場所と名古屋場所はイースト、大阪場所と福岡場所はウエストが開催。イーストは札幌や仙台、ウエストは広島や高松あたりでも本場所を開催する。たまにはウランバートルやトビリシ(グルジアの首都)で開催してもよいでしょう。ホームとアウェイが明確になるし、ご当地相撲の色合いがさらに強まって面白いですよ、きっと。〈kimi〉

今年の去年今年

2011.01.12

昨年の秋あたりから、なんとなく写真を撮りたいと思い始めました。特定の被写体を撮りたいというよりは、写真というものを撮りたい、カメラのシャッターを切って画像をつくりたい、とまあ、そんなカンジなんです。
父親が遺したレンズが霞んだクラシックカメラもあるし、平社員の安月給をはたいて買ったフィルム用の一眼レフもある。しかも2台もある。勤め先のゴミ捨て場から拾って来てレストアした往年の中型カメラもある。レンジファインダーカメラに名玉と呼ばれるレンズも持っています。もちろんデジタル一眼もあるし、コンパクトなデジカメも持っています。三脚もあればカメラバッグは3つも持ってます。撮影するには何の不足もありません。いやあり過ぎです。にもかかわらず、ここン十年、本気で写真を撮ったことがありません。友人たちと旅行に出かけても、デジカメのシャッターを押すのは数枚程度。記念写真やスナップは同行の友人に任せっぱなしです。
そろそろやってみるかと、そんな気持にはなったのですが、なかなか重い腰が上がりません。
名所旧跡などに行くとオジサンたちが立派なカメラをぶら下げて大勢歩いています。あの人たちと同類と思われるのは面白くない、という気持があります。しかし、現実を直視すれば、どこから見ても同類には違いないのです。それが、行動を躊躇わせます。
できることならばアンリ・カルティエ=ブレッソンとか木村伊兵衛とか、あのような写真を撮りたい。しかし、最近は肖像権がやかましくて、うっかり街中で人物に向けてシャッターを切ることができなくなったと聞きました。20代の頃のことですが、浅草伝法院の角の古着屋のおばさんにカメラを向けたら「写すんじゃないよ!」叱られたっけ。それ以来、肖像権とは関係なく、知らない人を写すのが怖くなって今日に至っております。
そんなわけで、その気だけはあるんですが、行動に移すことなく年が明けました。 
  シャッターを切ることもなく去年今年     〈kimi〉

なんとかならないか年頭の辞

2011.01.08

年明け早々の新聞には、企業トップの年頭の辞が並びます。これは企業広報の年中行事の一つで、暮れから原稿を用意して、新年最初の営業日にリリースします。近頃は年内に原稿をくれと担当記者から要請されることも多くなりました。なんだか年賀状のようです。
この年頭の辞って、いったい誰が読むんでしょうね。
社員:意欲のある社員はきっと目を通すでしょう。でも、これって社内にも流れる社長訓辞のサマリーですよ。新聞で読む必要は必ずしもありません。
取引先企業や銀行:この人たちは読みます。年始の挨拶に行ったとき、「社長、さすがにいいことを言わはりますなあ」なんて、ゴマをするネタにうってつけです。
競合会社:一応目を通すでしょう。おっ、あそこは今年やる気だなあ、なんてことがわかるかもしれません。
そのほかに、どんな方々が読むのか想像がつきませんが、各社のトップの言葉を読んでいると、毎年決まって登場する常套句に気づきます。「今年は厳しい」、「変化に対応」、「発想の転換」、この3つです。
どうも日本のトップは、キビしいキビしいと言っていないと気が安まらないらしい。後年振り返ってみれば、厳しくなかった年もあるはずで、そんな年に「キビしい」と発言したトップは現状認識が甘かったと批判されるべきでしょう。ぜひそのような覚悟の上で「キビしい」と言っていただきたい。
「変化に対応しなくてはいけない」というフレーズは、10年ほど前からしばしば耳にするようになりました。これには、小泉元首相が所信表明演説で引用した「この世に生き残る生き物は、力の強いものでも頭のいいものでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という『ダーウィンの言葉』が付け加えられることが多いようです。ネットサイトによると『種の起源』にはこんな記述はないそうですが、なかなかよくできた警句ではあります。
「発想の転換」も聞き飽きました。毎年毎年発想の転換をしていたら、そのうち元の発想に戻ってしまわないかと心配になってきます。「発想の転換」と叫ぶトップの発想の方を転換した方がずっと御利益がありそうです。
すべてとは申しませんが、陳腐でおざなりな年頭の辞が多くて、新聞の読者としては面白くありません。そんなことは十分承知しております、と各社の広報担当者の方々はおっしゃるでしょう。切れ味鋭い年頭の辞を発表したいと思っても、トップ自身がそのように考えていなかったらどうにもなりません。広報各位のご苦労が忍ばれます。〈kimi〉

スピーチを磨きましょう

2010.12.22

企業やPRエージェンシーがこの1年間に行った広報活動を発表し、それを審査して表彰しようという催しが先日開かれました。
他社がどのような広報活動を展開しているのかを学ぶよい機会でもありますし、そのプレゼンテーションにも興味があります。お手並み拝見、というよりも勉強させていただこうという下心、いや殊勝な心で見学させていただきました。
審査委員ではないので発表された広報活動の中身についての感想は控えさせていただきますが、さすがにPRエージェンシー各社のパワーポイントの出来はすばらしく、プロの仕事だとすっかり感心してしまいました。
広報を仕事にしている人にとって、プレゼンテーションとても重要です。とくに広告代理店やPRエージェンシーにおいては、その出来不出来は直接業績に影響します。弊社もプレゼンテーションの資料づくりには頭を悩ますとともに最大の努力を払っているところであります。
しかし、少し違和感も感じました。スピーチのお粗末さです。ほとんどの発表者が原稿を読んでいました。棒読みとまでは申しませんが、単に読み上げているだけなのです。プレゼンテーションにおけるスピーチになっていません。これには正直がっかりしてしまいました。
企業の広報担当者やPRエージェンシーの担当者は、プレゼンテーションの専門家であるべきだ、というのが自分を棚に上げての持論です。プレゼンテーションの成否は、パワーポイントの出来もさることながら、プレゼンターのスピーチに負うところが大きいのは言うまでもありません。しかし、日本人が最も苦手にしているところがまさにそこなのです。
パワーポイントのスライドのレベルを上げるのは、デザイナーの力も借りれば比較的容易かもしれませんが、スピーチに関してはおいそれとは上手にはなれません。トレーニングあるのみです。メディアトレーニングなどを業務にしているPRエージェンシーのみなさんも、自身のトレーニングにまで手が回っていないのでしょう。それではいけない、と自戒を含めて思ったのでありました。〈kimi〉

年賀状の季節

2010.12.03

そろそろ年賀状の用意をしなくてはならない季節になりました。会社から出す年賀状のデザインについては、デザイナー経験のある社員がいま頭を悩ましていますが、個人の年賀状に関してはいまのところな~んにもアイデアなし。まあ、そのうちなんか思い浮かぶだろうと暢気に構えております。
私、年賀状を大切にする方です。小学校を卒業してから一度も会ったことのない「友人」と半世紀にわたり年賀状の交換を続けています。毎年、元旦の朝にお互いの無事を確認し合うだけのことですが、賀詞の横に書かれた短い文章から、質屋の一人息子だった彼が大銀行を無事に勤め上げ、その後小出版社へ籍を移したことを知りました。
大学時代の友人で、これも卒業以来、年賀状の交換だけだった男と京都で再開したのが2年前。お互いの仕事を語り合ううちに、これは互いに協力できそうだと考えました。そして今年、彼の協力を得て一仕事を成し遂げることができました。
この季節は、同時に欠礼のお葉書をいただく季節でもあります。今年も何枚かのお葉書が届きました。ご両親やご兄弟のご不幸に混じって、昔の同僚が亡くなったことを伝える奥様からの葉書も頂戴し、しばらく遠くを見つめてしまいました。社内結婚をしたその奥様が20代前半だった頃の溌刺とした姿、その彼女との結婚が決まって心底嬉しそうな同僚の表情。一枚の葉書から記憶が次々に浮かび上がってきました。
それもこれも、年賀状という習慣がなければあり得ないコミュニケーション、人間関係です。
定年退職すると同時に年賀状をやめてしまう人もおられます。宮仕えから完全に足を洗って、これからは別の人生を送ろうという決意なのかもしれません。それはそれで一つの考えです。しかし、惰性で出す年賀状、義理で出す年賀状、下心で出す年賀状・・・それでもいいじゃありませんか、1年に一度のことなんですから、と私は考えております。さあ、今年はどんな年賀状を出そうかな。〈kimi〉

我思う

2010.11.19

昨晩のことです。前を走る軽トラックの荷台に何やら横文字が書かれています。こちらのヘッドライトにときたま浮き上がるその文字を、どうせ土建屋さんの社名だろうくらいに考えて、気に留めることもありませんでした。
その軽トラックが信号で止まったとき、突然その横文字がくっきりと目に飛び込んできました。
cogito, ergo sum
ありふれたゴシック体で、ごく普通の白い軽トラックの荷台に書かれた「われ思う、故に我あり」。
これは一体何なのでしょう。軽トラックの所有者はどんな人? 何のためにこの哲学的な命題をラテン語で書いたのか? そんな社名の会社が存在するのか? 疑問が次々にわき起こってきます。夜道のことで運転している人が男性か女性かも判別できません。
デカルトのもくろみ通り、さまざまな懐疑を残しつつ軽トラックは、次の交差点を反対の方角へと曲がって行きました。〈kimi〉

移動としての歩行について

2010.11.15

この1ヶ月ほど、新幹線で東京と関西を何回か往復しました。車内で本も読みますが、私は車窓からぼんやり外の景色を眺めるが好きです。見慣れた景色ながら、その都度新しい発見もあって、飽きることがありません。
で、昨日のことなんですが、あることに気づきました。道を歩いている人がいないんです。田畑の中を通る田舎道にも、市街地の国道にもクルマはたくさん走っているものの、歩いている人の姿を見かけません。たまに見かけるのは、校庭で野球の練習をしている生徒だったり、河川敷での催しに集まっている地域住民だったり、作業場で働いている人たちだったり、農作業をしているおじさんだったりです。日曜日の午前中ということもあるのでしょうが、人口密度の高い日本でどうしてこんなに歩いている人が少ないのか、とても不思議に思いました。
工場や公園など、一定範囲内での短い移動を除いて、日本人はもうA点からB点への移動には、滅多に歩行という手段を用いなくなってしまったのではないでしょうか。
「いや、私は一駅手前から歩いている」とおっしゃる方も、その目的は移動ではなくて、メタボ解消のためですよね。いずれ人間の歩く機能は退化してしまうのかもしれません。そこで、先回りしてその現象にネーミングしておくことにしました。「廃用性退化」っていかがでしょう。〈kimi〉

成功事例と企業理念

2010.11.10

危機管理広報の成功事例と言えば、昔もいまもジョンソン&ジョンソン社の「タイレノール事件」が引き合いに出されます。あれは1982年のこと。すでに30年になんなんとしています。「いまさらタイレノール事件でもないでしょう」という発言を先週末の日本広報学会で耳にしました。誠にその通り。もっとフレッシュな事例を集めて広報にたずさわる人たちが共有できれば、それに越したことはありません。
しかし、タイレノール事件の事例がこれほどまでに共有されるようになったのには、それなりの理由がありそうです。私が注目するのは、
1.トップによる強いリーダーシップ
2.積極的な情報公開
3.コストを顧みない素早い製品回収
の3点です。ひと言で言ってしまえば「すぐれたガバナンス」ということになりますが、これらの3点に集約できることが、その後のモデルケースとなり得た要因であると考えています。
このケースの成功要因として、しばしば同社がOur Credoというよき企業理念を持っていたからだと言われます。しかし、それはいかがなものでしょうか。やはりすぐれたトップのすぐれたリーダーシップに帰せられるのではないか、今日の新聞を読みながら、改めてそう思ったところです。〈kimi〉

誰と話しとるねん?

2010.10.29

電車やバスの中で携帯電話の通話を禁止している理由は、いまや根拠が希薄になっていまったペースメーカーへの影響は別として、周囲の客への迷惑という一点に絞られます。それなら団体で乗り込んで来て大騒ぎをする中高生のスポーツチームや酔っぱらいの三人組四人組も断固として乗車を拒否してほしいものです。そちらの方は見て見ぬふりをしているのはいかがなものか、と思わないでもありません。
そもそも自動車が初めて走った頃は、車の前に旗を持った人を走らせたとか。自動車が普及するに従って、そんな風習は廃れてしまいました。これだけ携帯電話が普及して、乗客のほとんどが携帯電話を所持している現在となっては、通話を解禁しても文句は出ないだろうとも思うのですがね。その上いまや通話よりメールの時代になってしまったし。
と、そんなことを考えながら大阪の心斎橋近くの裏道(風俗店案内所の林立しているあたりではありません。念のため)を歩いていたら、
「そっちに行ってもいいんやけどな。今日は背広も着ておらんし・・・」
なんて大声で独り言を言いながら歩いている男に出会いました。にわかに状況がつかめませんでしたが、この男、運転中などに使用する携帯電話のハンズフリーセットを使って歩きながら誰かと話しているのでした。周囲の騒音に負けじと大声で話しているので、街中でも相当うるさい。はた迷惑もよいところでしたが、歩行中のハンズフリー使用禁止という条例はまだどこの市町村にもないようです。
会話の相手がその場にいないという違和感と、携帯電話での会話は必要以上に声が大きくなるという特性の両面から、車中での携帯電話の使用はこれからもしばらく禁止されつづけるのかもしれませんが、それがいつまで続くのか、これは推理しがいのある問題です。〈kimi〉

書かなくなると・・・

2010.10.18

ブログも書かなくなると、ズルズルと日が経ってしまいます。書ける材料は次々に現れるにもかかわらず、です。
それというのも、あまりにも腹立たしいことは書きたくない。誰かを傷つけるようなことも書きたくない。商売に影響することも書きたくない(ズルイ!)。そうかと言って、ゴマを摺るようなことも書きたくない。いくつかの材料を前にして消去法を使ったら、何も残らなくなってしまいました。この状態を一般には「書く材料がない」と表現するようですが。
で、ようやく書く気になるテーマが見つかりました。メールの返信についてです。
自慢じゃありませんが、私はすぐに返信する人です。インターネットメールというシステムは、確実性において日本郵便のハガキや封書に及びません。すぐに返信することで送信者に安心していただこうという気持です。礼儀でもありますしね。
即座に内容のある返事ができないときなどは「とりあえず」の返信をしておくことにしています。もっとも、わざと返信を遅らせて相手をじらすこともありますが、これはめったにやりません。
さて、ある日の午前中に3通のメール出したのですが、1週間誰からも反応がありません。システム異常で届かなかったのではないかと心配になって、一人の会社に電話をしてみたら、「長期出張に出ています」とのこと。たぶん海外ということでしょう。それなら返信がないのも当然と安心しました。実際、その数日後に返信をいただきました。では、あとの2人は? 依然として音沙汰なしです。とくに腹立たしくもなくなったので、ブログの材料といたしました。〈kimi〉

テロップ邪魔だよ!

2010.10.01

最近、アナログでテレビを見ていると、画面の下に、早くデジタルに切り替えろというテロップがひっきりなしに出てきます。目障りったらありゃしない。総務省の立場に立てば、来年7月24日のアナログ放送終了までにもれなく切り替えてほしい、という気持もわからぬではありませんが、だからと言って、これまで平和にアナログ放送を楽しんで来た人たちの邪魔をすることはないじゃありませんか。これはひどいよ。
さらに言えば、この邪魔なテロップはCMのときは入らないんです。画面サイズの問題もあるんだろうけど、これもひどい。
長く広告主(近頃はアドバタイザーと呼ぶことにしたらしいのですが)の側に身を置いて仕事をしてきましたので、広告界の事情はよ~く理解しておりますが、デジタル化はコンテンツもCMもひっくるめて実施されるわけですから、CM枠だけ例外扱いというのはどう考えても納得できません。理性と良識のある広告主さんなら、これは理解するはず。理解していないのはテレビ局と広告代理店だけではないかしら。そもそもコンテンツあってのCMであることを忘れているんですよ。それがテレビ広告費の減少の大きな要因の一つであることもね。〈kimi〉

褒めてもいいじゃない

2010.09.16

幼い頃、総理大臣はみな悪人であると思い込んでいました。総理大臣の何が悪いのか、もちろんよくはわからなかったのですが、そう思い込んでいたのは間違いありません。
物心がつくころは「アンポ・ハンタイ」の岸信介氏が総理大臣でした。失礼ながらどう見ても善人顔とは言えない人物でしたので、余計にそのようなイメージになってしまったのかもしれません。
実はその後も長く総理大臣や閣僚にはロクな人物はいないという固定概念から離れられませんでした。その原因は・・・他人のせいにしてはいけませんが、やはりマスコミの影響だと思います。
総理大臣になるまでは、いくらか公平に評価されていた政治家でも、その地位についた瞬間からマスコミの猛烈な批判にさらされます。現在進行形の政策を好意的に評価するメディアは、日本にはまず存在しません。
権力の監視がジャーナリズムの重要な役割であることは理解していますが、日本のメディアはもう少しニュートラルな論評ができないものでしょうか。総理経験者が亡くなり、当時の関係者もほとんど鬼籍に入ってしまった何十年後かに、ようやくあの政策はよかったと評価される。それでは遅過ぎませんか。
イデオロギーによってすべて賛成すべて反対という時代ではありません。個別の政策ごとにそれなりの評価は可能です。
人を育てるには褒めなければならない、という意見が目につくようになったのは90年代からでしょうか。そんな甘っちょろいことで人は育たぬという反対論もありますが、私は褒めることに賛成です。政治家だって人間ですから、批判される一方でポジティブな評価もされるというバランスのとれた環境でこそより正しい方向が選べるのではないか。褒めることで総理大臣を育てる、という視点も必要ではないかと、書生論ではありますが、思うのですよ。〈kimi〉

新体験、その後

2010.09.08

その後
お見苦しい画像で恐縮です。6月18日のブログに書いた「新体験」のその後のご報告です。
この猛暑が異常気象であるとはまだ誰も想像していなかった夏の初め、むき出しの頭皮に直射日光が照りつけた瞬間に、コリャたまらん、と私はすべてを悟ってしまい、銀座の帽子屋に駆けつけました。「一番涼しい帽子をください」と言ったら、「麦わら帽子の少し高級なものと思ってください」と店員さんが出してくれたのが手編みのパナマ帽。それでなんとか頭皮が赤むけすることなく夏を乗り切ることができました。涼しいかと思ったら、案外涼しくないんですね、こういう頭。
それで、お盆過ぎから伸び始めた髪がいまはこの状態。さわるとほわほわして実によい感触です。日本製最高級化粧筆、いわゆる熊野筆そのものです。貂やミンクの毛皮の手触りと言っても決して過言ではありません。「とっても気持いいよ」と誰彼かまわずお誘いしているにもかかわらず、肉親親族を含め誰一人、未だこの素晴らしい感触を味わった者はおりません。〈kimi〉

ケイタイ優先

2010.08.27

不思議な光景を見てしまいました。
一昨日のことです。地下鉄有楽町駅のホームからエスカレーターに乗ろうとしたら、なんと上りが停止中。身の不運をかこちながら横の階段を上ろうとしたそのとき、それを目にしたのでした。
停止している長いエスカレーターの途中に男が一人、女が一人、乗ったまま動こうとしないのです。停止して間もないので動き出すのを待っているのでしょうか。それにしては、すでに他に誰もいません。ケガでもして動けなくなっているのかとも思いましたが、ひたすら静かに直立しているのです。実に不思議な光景です。カメラを持っていないことをちょっと悔やみました。階段を上っている人たちの何人かも、怪訝な顔でエスカレーターをのぞき込んでいます。
事情は間もなく理解できました。彼らはケイタイでメールを読むか打つかしていたところ、乗っていたエスカレーターが停まってしまったのです。そこで、歩いて上るよりもケイタイの操作の方を優先した、というわけだったのです。
これって、なにかヘンではないですか。ご本人たちはちっともヘンだとは思っておられないのでしょうが、エスカレーターをのぞき込んでヘンな顔をしていた人たちも、きっとヘンだと思ったに違いありません。
私もたまにはやってしまうので、大きなことは言えませんが、歩きながらのケイタイの操作はとってもハタ迷惑です。前方への注意がおろそかになるので危険ではありますし、歩く速度が遅くなって人の流れを妨げます。彼らもまた、ケイタイの操作を他の何事よりも優先させているのです。それって、やっぱりヘンじゃないですか。〈kimi〉

再びプレゼンテーションについて

2010.08.23

プレゼンテーションの最初にはジョークを一発かませろ!と、あちらのMBAコースでは教わるそうです。そのためでしょうか、スピーチの初めにジョークを言う米国人は少なくありません。しかし、面白いのもあればつまらないのもある。ユーモアのセンスはご本人のパーソナリティによるところが大きく、こればかりはいくら教わっても無駄というものなのでしょう。
しかし、プレゼンテーション自体は練習がものを言うようで、アップルのジョブズ氏は何時間も練習すると本に書いてありました。たしかに、練習すればするほどうまくなるはずです。
ところが現実は、日本企業のトップにいくら練習を勧めても、「そんな時間はとれない」と一蹴するでしょう。多くの日本人経営者は、銀行の役員と会ったり部下に説教する以上にプレゼンテーションが大切なものだとは考えていない、ということなんです。それじゃあ、いつまでたっても日本人のプレゼンテーションはうまくなるはずないですよね。〈kimi〉

新聞はクラスメディアかも

2010.08.19

このところ必要があって、マスメディアについて調べています。より正確に言えば、マスメディアの衰退に関する本をいくつか読んでみたのです。
新聞の衰退に関しては、若者の活字離れと、その若者たちを吸収しているインターネットの隆盛、というのが共通して指摘される原因です。なるほど、とは思うのですが、それだけでもないような気がしていました。
そんな折り、卓見というべき一文を発見しました。朝毎日経が、本来の目的を隠すため・・・かどうか知りませんが、共同で運営している「新s あらたにす」という妙な名前のサイト。その中で唯一読むに足るコラムである『新聞案内人』にそれがありました。筆者はコラムニストの歌田明弘さん。タイトルは「『おじさん記者モード』からの脱出を」。詳しくは原文を読んでいただくとして、その趣旨は、政治、経済記事などはおじさん記者ばかりが書いているし、座談会に出るのもおじさんばかり。もっと若い読者と感覚的に近い若い記者にやらせたらどうか、というもの。
そう言われてみれば、いまの新聞はいかにも中高年好み。意図してはいないのだろうけど、ターゲットをおじさん、おばさん層に絞ったクラスメディアと言えないこともないなあ。〈kimi〉

ジョブズのプレゼンテーション

2010.08.06

アップルのCEOスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションに最近関心が集まっています。その様子はYouTubeでも見ることができますが、あんなプレゼンができるCEOは、いまの日本には存在しないと断言しておきましょう。そもそも大企業のトップがあのようにフレンドリーに聴衆に話しかける場が日本にはありません。
一言で「国民性の違い」と片付けてしまうのは大いに危険なのですが、日本人の経営者にジョブズ氏のごとく語りかけられても、気味が悪いでしょう。何か下心があるんじゃないか、と疑いたくなるに決まっています。
日本語に訳されたいくつかのジョブズ氏の発言を読むと、その文体の違いによって、ジョブズ氏がずいぶん異なった人格であるかのように思えてしまいます。これは翻訳の上手下手ではなくて、フランクにかつフレンドリーにプレゼンテーションするときに使う日本語の文体(話し方)が未だ確立していない証拠です。
ジョブズ流のプレゼンテーションがいくら話題になっても、日本人のプレゼンはしばらくは現状維持ではないかと予測しております。〈kimi〉

これが敗因

2010.07.28

biei2.jpg
昨夜は、早稲田大学が主催するIRセミナーで1時間ばかり話をしてきたのですが、申し訳ないことに、どうにも調子が乗りませんでした。
考えられる原因は2つ。一つは久しぶりの教壇であったこと。もう一つは疲労困憊であったことです。
先週から仕事が重なり、土日も出張。その上、かんかん照りの中をあちこち歩き回ったすえに教室に入りました。これが敗因です。やはり講義は万全の体調でやらなければなりません。休みをとりたいのですが、今週は無理、と先ほどわかってがっかりです。
上の写真は、出張のついでに撮った北海道の風景。水平線が傾いているのかカメラが傾いているのか。たぶん後者でしょう。〈kimi〉

「暮らしの手帖」の現在価値

2010.07.12

今週の「週刊東洋経済」(7/17)に、暮らしの手帖社社主大橋鎮子さんのインタビューが掲載されていました。「暮らしの手帖」、数十年前なら広報関係者が毎号、多少の緊張感とともにチェックしていた雑誌です。
以前勤めていた会社の当時の主力製品は、この「暮らしの手帖」の商品テストに取り上げられ、評価されたことで市民権を得て売上げを大きく伸ばしました。それは会社の「伝説」と化し、社史にも掲載されました。
それから何年か経ち、その製品に対して世の中にアゲインストの風が吹き始めました。そんな折り、暮らしの手帖社から、新型となっていたその製品を再び商品テストすると伝えられました。
広報担当者の私は、製品について正しい内容を知っていただこうと、暮らしの手帖社に何度も足を運びました。あのときも夏でした。当時の編集部は六本木駅から少々の距離にあって、汗をふきふき歩いたことを思い出します。
出版社とは思えぬ西洋仕舞た屋風の社屋、リビングのようなインテリアと家具。いかにも「暮らしの手帖」の精神を表現しているようにも思えました。
成熟した商品経済の世に、「暮らしの手帖」の商品テストは消費者の関心を呼ばなくなり、その役目を終えたようです。しかし一方、いまの消費者は、ネットのクチコミなどを参照して、事前に商品情報を得てから購入行動に移ると言われています。あの商品テストは、現在にこそ価値があるような気がするのですが、時代との皮肉なミスマッチとなってしまったのでしょうか。〈kimi〉

ヤヤ!毎日jpは読んでいたのか?

2010.07.01

驚きました。実に驚きました。
29日のこのブログに、毎日新聞のサイト「毎日jp」に関して、「トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。」と書きました。すると、30日の夕方、突如毎日jpのトップページのレイアウトが変更になったのです。
新しいレイアウトは朝日や読売と同様のタテ3段組みで、ずっと見やすく改良されています。
どうして突然・・・。毎日jpはこのブログを読んでいるのでしょうか。まさかね。〈kimi〉

新聞パラパラ

2010.06.29

毎朝、各紙をパラパラめくるのは、広報を生業としている人間の基本とも言えますが、白状してしまうと、私はしばしばそれを怠けております。企業の広報責任者をしていたときからの悪いクセなのですが、片付けなくてはならない仕事が目の前にぶら下がっていると、どうしてもそれを優先させてしまうのです。そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎて行き、夕刊が来てから朝刊を開いたり、ということになりがちです。
最低限読んでおかなくてはならない記事はシステム的にクリッピングされますから、問題ないと言えばないのですが、ときどきは重要な記事を見逃してしまいます。やはり新聞のパラパラは、広報の人間には重要な所作なのです。
その代りと言ってはナンですが、ネット上の各紙のサイトには1時間おきにアクセスしてチェックすることにしています。意識的にやっているというよりも、仕事にちょっと疲れたとき、世の中どうなっておるかな、とアクセスして一息入れるのが習慣となってしまったのです。
まず見るのが、朝読日経の「くらべる一面 新sあらたにす」という訳の分からないタイトルのサイトです。これはほとんど読むべきところがありませんが、お薦めは右下の「新聞案内人」というコラム。各紙OBによるちょっと辛口の評論がなかなか読ませます。
次にasahi.com。オーソドックスなページデザインで、読みやすいのが利点。近頃、MSN産経ニュースの真似をして(失礼!)、総理インタビューの完全収録など、長い原稿も掲載しています。
ついでながら、ここから朝日の読者会員サービスである「アスパラクラブ」にリンクしています。そこに弊社の医療ジャーナリスト田辺功が『医療よもやま話』を執筆しています。
YOMIURI ONLINEも読みやすくて気に入っております。速報性はasahi.comとほぼ同等でしょうか。情報量が多い印象です。
毎日jpは、トップページのデザインに難ありです。タテ4段割りがチマチマした印象を与えています。速報性は朝読に完全に及びません。情報量も少ない。ネット上の一時の混乱は過ぎ去ったものの、すっかりネット上でのやる気を失ってしまったのでしょうか。
MSN産経ニュースは私が楽しみにしているサイトです。ときに政治的な熱の籠もり過ぎた記事があってシラケますが、事件物は週刊誌的になかなか読ませます。
最後に有料化したNIKKEI NET。これが問題です。アクセスすると、一瞬「日経新聞電子版誕生」というインデックスページが表示され、その間に購読者か無料読者かがふるい分けられます。ほんの一瞬ではあるものの、これがなんともうざったい。私はレッキとした電子版の自腹購読者です。にもかかわらず、その一瞬があるために、ここにアクセスするのがおっくうです。気が重い。また、電子版の購読者は、紙と同じ記事が読めることになっていますが、ネット上では一覧性が著しく劣ります。新聞パラパラの方が、全紙面をすばやく把握でき、読みたい記事がはるかに見つけやすいのです。これは紙の絶対的に優れた点です。新聞の発行部数は長期低落傾向を示していますが、この優れた一覧性によって、いつか、あるところで歯止めがかかるような気がします。そのとき、新聞社の収支がバランスするかどうかは、また別の問題ですが。〈kimi〉

ヒモ

2010.06.24

文庫本が生まれたのは、「大正末期に電車内で読書する客が増えたのに伴い、持ち運びに便利な本が必要とされたからだ」そうです(原武史著「沿線風景」より孫引き)。岩波文庫の発刊の辞である「読書子に寄す」には、そんなこと書いてなかったようにも思いますが、ともかく文庫という、軽くて小さい本が存在することは日本語で読書する人の幸せというものです。
その文庫本から、いつの間にかしおり紐が消えてしまいました。正確には新潮文庫を除いて、なのですが、昔はどの文庫にもついていました。やめてしまったのはコストカットのためだそうです。紐だけで10円以上のコスト高になると、どこかで読んだことがあります。ということは、新潮文庫は他の文庫に比べて価格が10円高いということなのでしょうか。
紐の代わりの紙の栞でもとくに不便というわけでもありませんが、電車の中で買ったばかりの文庫本を読み始めたら、紙の栞が挟まっていない、ということがときどきあります。本屋の棚で抜けてしまったのか、そもそも出版社が入れなかったのか。降りる駅が近づいているというのに、とてもあせります。あわててポケットやバッグの中から栞の代用になるものがないかと探すのですが、こういうときに限って適当なものが見つかりません。
書店の棚の本にはスリップという二つ折りの栞のようなものが挟まっています。書店と取り次ぎの間でやりとりする伝票なので、一般の書店ではレジで引き抜いてしまいますが、これがあると栞の代用にもってこいです。しかし、昔は古書店で購入した本など、これを挿んだまま持っていると、万引きしたと間違われるリスクがありました。いまはネット書店で購入した本には例外なく挿んだままになっているので、捕まる恐れはなくなりましたが、古い人間には、なんとなく臆するところがあります。で、これまで栞の代用にしたものには、レシート、ポストイット、文房具屋のポイント券、ノートの端をちぎったもの等々。それも見つからないときは、ページの端を折っておきますが、なんとなく落ち着きません。私は10円高くてもしおり紐がほしいなあ。〈kimi〉

新体験進行中

2010.06.18

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思うところあって、この夏限りの予定でヘアスタイルを大幅変更いたしました。
床屋さんには、バリカン片手に「叱られませんか?」と確認されてしまいました。「こんなに毛があるのに、こういうヘアスタイルにする人は珍しいですよ」だって。そうでしょう、そうでしょう。床屋さんだって不思議でしょう。とうとう「役者さんの役づくりですか?」とまで言われてしまいました。役者顔なのかなあ、私って・・・。
会社のスタッフはすぐに見慣れてしまったようですが、オフィスの出口でたまたま出くわしたビルのオーナーさんは、一瞬たじろぎ、無言のままそそくさと車に乗り込んでしまわれました。なんと挨拶したものかわからなかったのでしょう。その気持、わかりますよ。ごめんなさい。
で、涼しいかというと、それほどでもありません。違和感と言えば、暖簾をくぐるときに、これまで経験したことのない感覚を頭部に感じたことくらいでしょうか。
ついでに思わぬ新発見をしてしまいました。頭に掌を当てると、周辺部では温かさを感じるのに、頭頂部では全く感じないのです。太陽の熱を受ける部分の感覚をあえて鈍くさせているのでしょうか。どうしてこのような興味深い事実を、天然自然にヘアスタイルの変更を余儀なくされたみなさんは、教えてくれなかったのでしょうか。あるいは、これは私だけの特異現象なのでしょうか。
たまには思い切ったこともしてみるものですねえ。これからも新発見がありそうで、この夏いっぱい楽しみです。でも、お会いしたときには、びっくりしないでね。〈kimi〉

スパムばっかり

2010.06.04

この「ココノッツブログ」にはほとんどコメントがつきません。理由は、読まれていないということに尽きるのでしょうが、コメントをつけるにはシャイ過ぎる人ばかりが読んでくださっているという虫のよい解釈もできます。読んでいることが筆者にバレないようにコメントをつけないという読者もおられるかもしれません。コメントをつけるほどの内容じゃないよ、ということもある。これが一番の原因かな。
本当のことを申しますと、実はコメントは毎日山のようについているのです。残念ながらそれがみんなスパムなんです。しかも英語です。
何のためにスパムのコメントなんかつけるのだろうと専門家に尋ねたら、面白がっているだけですよ、と言っていました。しかし、スパムコメントをいくつか開いてみると、ある種の医家向け医薬品のダイレクトメールがたくさん混じっています。単なる愉快犯ではなくて、宣伝目当てでもあるようです。
ココノッツがヘルスケア領域を専門とする広報コンサルタントであることを知ってのことでしょうか。しかし「ココノッツブログ」は日本語でしか書いていません。どうしてそういうことになるんでしょう。不思議です。
スパムコメントがいくら来ても、一発で消去できるようなシステムになっていますから、たいした手間ではないのですが、来る日も来る日もスパムばっかりというのは、ちょっと情けないような気もいたしますね。〈kimi〉

広報は複雑系

2010.05.31

つくづく思うのですが、広報の仕事って本当に複雑系ですね。広報の担当者が直面する問題は、いつでも、どんな場合でも、いろいろな要素が複雑に絡み合っていて、簡単にエイヤッと結論に導くことができません。
あちらの顔を立て、こちらの顔を立て、なだめたりすかしたりしながら、落としどころを探して行く。「よし、やったあ」といったすっきりした成果が得られず、「まあ、仕方がないか」と自らを納得させるようなことも少なくありません。しかし、それに耐えて行かなければ広報の仕事はできません。
複雑系ですから、目の前に突きつけられた多くの要素の中から、どれがより重要で、どれを無視してもよいのか、一瞬にして見分けることも求められます。広報の能力の一つは、どれだけ多くの要素を判断の根拠に取り込めるか、ということかもしれません。複雑に絡み合った多くの要素の中から、3つしか判断材料にしない人と、10の要素をもとに判断する人では、後者の方がたぶんよりよい結論を導き出せるでしょう。
しかし、こうすれば最適解が得られるといった法則や原則は、広報にはありません。そこで経験がものを言うわけですが、経験だけで解決できるというものでも、またありません。何年か前に得た経験を目の前の課題に当てはめようとすると、高い確率で失敗します。
数多くの経験の積み重ねから、一種の能力や勘のようなものが醸成できてはじめて成功確率が上がってくるようです。
もう一つやっかいな問題が存在します。感情です。人間ですから、どうしても感情から逃れられません。好き嫌いや、個人的な野心などが判断を曇らせます。それらの有害な要素をいかに排除するか。客観的になれるかなれないかには個人差もあるし、どうしても自分のプライドが許さずに身動きがとれなくこともあります。
広報の仕事はまったく複雑系ですが、一方で、記事になった、番組に取り上げられた、問い合わせが急増したといった単純明快な成果で大喜びすることができる仕事でもあります。それでなくちゃやってられないですよ。あれっ、こんなこと書いちゃってよかったかな?〈kimi〉

意味の転換

2010.05.24

「おかしい」と言えば、現在では「変だ」とか「奇妙」だということですが、その昔は「趣がある」という意味だったそうです。高校の古文の授業で習った枕草子の「いとおかし」がそれですね。このように、それまで好ましい意味だった単語が、ある時から逆転してネガティブな意味に変じてしまうことが、まれに生じるようです。
そのような珍しい変化、しかも突然の意味の転換を私たちは最近実感してしまいました。「育ちのよさ」です。
以前から「あの人が育ちがいいからねえ」という表現には、どこかに皮肉と妬みのニュアンスが隠れていました。下々のことを理解していない、周囲の状況が読めない、自ら汗を流そうとしない、苦労知らずの経験不足、他人事のような態度、精神がひ弱、身体が弱い、そして、いざとなったらどこかからお金が出てくる、といったモロモロをぼんやりと含意していたわけです。その含意が、時の総理によってすべて明るいところに引き出され、しっかりと意味づけられてしまいました。同時に、上品とか質のよさといった「育ちのよさ」の好ましいイメージは、まとめて闇に葬られてしまいました。
昨日、鳩山総理は沖縄県知事と再び会談しました。asahi.com(2010年5月23日)によれば、総理は突っ立ったまま 「仲井真知事はじめ、県庁の皆様方に、このようにふたたびお目にかからせていただくことができて、たいへんありがたく思っております」と話し始めたようです。これって、なんか変ですね。以下、
県知事:おかけいただけませんか。どうぞ、どうぞ
総 理:それも失礼かと
県知事:いや、どうぞ
総 理:では座って恐縮でございます。
というやりとりが続いたそうです。写真で見ると、さして広くもない応接室で低いテーブルをはさんで対座しています。陳謝しつつお願いをしようとしているのに、見下ろしながら話始めるっていうのはどうでしょうか。ここらあたりに「育ちのよさ」の問題がまたまた露見してしまっております。
米国の大統領は必ずメディアトレーニングを(候補者になったときから)受けていると言われます。日本の総理大臣は受けてない、なんてことがあるんでしょうかね。もちろんそれ以前の問題なのではありますが。〈kimi〉

書けない

2010.05.10

文筆業をしている友人からメールをもらいました。ある企業から入社試験の論文審査を依頼されたのだが、書くことを訓練された人が少ないことにすっかり驚いたとのこと。彼によると、文章の構成といった高度な話ではなく、段落行頭一字下げ、タイトルと本文の間を空ける、という基本的なルールを知らない人が多い。「為」とか「夫々」など、ひらがなで書けばよいものを漢字で書く人が多い。「ひいては」とすべきところを「しいては」と誤っている例が複数あったとのことです。(筆者注:このココノッツブログでは、広告コピー風に意識的に行頭を下げておりません)
私は驚きません。企業に勤めていたとき、入社試験や主任、課長への昇任審査を毎年のようにやらされました。何十編という「論文」という名の作文を読んでいると、実に気分が滅入って来たものです。友人が指摘している通りの状況ですが、より失望したのは、何を言いたいのかさっぱりわからない作文が半数以上を占めていることでした。そもそも自分の考えがないらしいのです。入社できたらがんばります、昇任したらもっとがんばります、と会社にアピールしたい。そういう思いが込められていることは伝わって来るのですが、だからと言って、鋭い視点や画期的な具体案を持っているわけではありません。精神論と抽象論ばかりの作文が出来上がります。何編読んでも似たようなことが書いてあります。そんな退屈な作文を続けて読まされている中で、たまに論旨がしっかりした文章に出会うと、梅雨の晴れ間のような気分になったものです。よし、合格!
このような文章力不足は、中学、高校の教育に責任があると推測しています。国語の授業で五段活用を教えるのもよろしいし、言文一致体の先駆けが山田美妙であることを教えるのも結構ですが、文章のトレーニングをしなければ生徒は文章が書けるようになりません。英文法や英文解釈をいくら教えても、英語が話せるようにならないのと同じことです。
そもそも文章を書くトレーニングができる国語の先生は少ないでしょう。迷いながら書いた作文に「よく観察できました」なんて赤ペンでほめてもらっても、文章力はつきません。論理的に思考を組み立てる方法と、それを書き表す技術が、社会生活には不可欠です。企業のニュースリリースを読んでいても、何がニュースなのか理解しがたい文面にときどき遭遇します。まともな文章を書くことはコミュニケーションの基本です。
なんて、偉そうなことを書いてはおりますが、ン十年前、就職して初出社したその日、社内への連絡文書を書けと命ぜられて、一行も書けずに立往生してしまった経験があります。ビジネス文の書き方など、小学校から大学まで教えられたことがありませんでした。
先日、教授に転身された元新聞記者氏に「大学では何を教えているんですか」と質問したら、「作文の書き方からですよ」という答えが返ってきました。「大学で作文の練習ですか」と、そのときは少々呆れたのですが、現状をよく考えてみれば、大学で作文を教えてもらえる学生は幸せというものなのでしょう。〈kimi〉

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