Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

大工さんの教え

2010.05.03

 今日は大型連休の真ん中です。こんなときにブログを書いてどうするんだ、とも思います(ココノッツブログは業務の一環として書いております)が、まあ、そんなカタイことは言わずに・・・というわけで書き始めました。しかし、これは実に考え物ではあります。
 子どもの頃、家の改修に来ていた大工さんは、正午になると弟子たちに声をかけて一斉に仕事をやめてしまいました。お弁当を使い、正確に1時までお茶を飲んでおしゃべりをしていました。
 なぜやりかけの仕事を放り出してまで時間を守って休憩をとるのか、子ども心にも不思議に思って大工さんに聞いてみました。どんな表現で質問したものか覚えてはいませんが、返ってきた答えは、時間をきっちり決めて休みをとらなければ疲れをとることができない、疲れたままで仕事をしてもよい仕事はできない、それが長く仕事を続けるコツだ、といったものでした。
 若いときの私は、この大工さんの考え方に従って、昼休みはいっぱいいっぱい自分の時間として使いました。業務時間内にできるだけ仕事をすませて、残業をしないように心がけました。しかし、残業手当がつかなくなった頃から、それが崩れ始め、昼食を食べ終わったらすぐやりかけの仕事に戻り、給料に反映しないにもかかわらず残業をし始めました。
 いまココノッツでも一部に残業が日常化しています(私はあまりやりませんが)。休日にも自宅で仕事をしたりメールを出したりしています(私もやっています)。お客様にできる限りのサービスをしようと考えると、ついついそうなってしまうのです。
 それがよいのか悪いのか、俄には判断しかねますが、やはり休みはちゃんととった方が長期的にはよいのではないかと考えています。働きすぎて病気になってしまったら、かえってお客様にご迷惑をおかけすることになりますし、休日の自宅仕事が効率がよいとも思いません。
 以前、日本企業に勤めていたとき、毎日残業毎週休日出勤で、一体いつ休んでいるんだろうと思うような人が何人もいました。その仕事熱心さには感服してしまうのですが、そういう人たちほど世間に疎い、視野が狭い傾向があることに気がつきました。もっとも、あんまり働かない社員が広い視野を持っているとも限りません。このあたりは誠に難しい。
 しかし、休みというものはただ疲れ休めに寝ているわけではありません。時間の余裕があれば、人間はいろいろなことをし始めます。自分の時間を豊かに使うことは、人間としての成長によい効果をもたらすだろうということは、確信に近いものがあります。
 休まなければよい仕事はできない、という大工さんの言葉はやはり真実ではないかと思うのです。というわけで、今日は自分の時間を有効に使おうと思います。〈kimi〉

築地の存在理由

2010.04.28

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 中央市場が豊洲に移転するのかしないのか、判然としないまま、築地はいま観光客や買い物客であふれかえっています。中国語、韓国語、英語、日本語、なんだかわからない語が飛び交っています。
 中央市場の建物はたしかに古い。このままにはしておけそうにないことは素人目にもわかります。しかし、単に市場機能という観点だけで移転をすることがよいのかどうか。
 観光客や一般の買い物客たちにとって、築地の魅力は場内、場外の商店街にあります。ここは魚屋さんや板前さんなどのプロの店でありながら、素人も利用できる。そこが普通の街とは異なる魅力です。飲食店も決して安くはないし、具体的にどこが違うのかよくわからぬものの、なんとなく築地独得の雰囲気を持っているような気がします。
 とくに場外市場の雑然とした店の並び、迷路のような路地など、もはや他ではほとんど見られないものです。日本の繁華街は次々に再開発という名の整理が行われ、どこへ行っても同じようなチェーン店ばかりが並んでいます。そんな人工的な街にはもう飽き飽きです。もっと自然発生的な、もっと人間くさい、懐かしい街はないか。そんな条件を満たしているのが築地の場外商店街です。
 中央市場が豊洲に移転しても場外はそのまま残ると看板が出ていました。しかし、場内と場外は一体です。卸売り市場というバックグランドを失った場外市場は、いまのような活性を失ってしまうのではないでしょうか。
 東京に残る貴重な街を守りたいという意味で、私は移転に反対です。〈kimi〉

立食パーティにて

2010.04.09

 立食パーティで気づいたこと3つ。
1.開会時には会場を埋め尽くしている人たちが、主催者や来賓の挨拶がすむと、潮を引くように少なくなること。義理で出席している人がいかに多いか。中には主催者の挨拶が始まる前に帰る人もいます。受付を済ませればアリバイ成立です。私も一度これをやったことがあります。逆に言えば、最後まで多数の出席者が残っているのがよいパーティということになるのでしょう。義理で最後まで帰れないというパーティも、まれではありますが存在します。
2.会場に知り合いが少ない人ほど早く帰ること。司会者から「しばらくご歓談ください」とアナウンスされると、出席者は一斉に料理のテーブルに向かいます。この時点では目立ちませんが、やがてテーブルごとに会話が弾み始めると、右手にビール、左手に料理の皿を持って、テーブルのない空間に孤立している人たちがポツポツと現れます。ホスト側はこういう人たちを目ざとく見つけて、話しかけるのが心得というものですが、それが徹底されているパーティはほとんどありません。話し相手が見つからない人は孤立に堪えきれず、早々に退散することになります。
3.女性は女性同士で群れたがること。男性の多いパーティでは、会場のところどころに女性の群れができています。女性はおしゃべり名人ですから、孤立することはあまりなさそうに見受けられますが、見知らぬ男性に気軽に声をかけるのはやはり憚られるのでしょうか。
先日、半ば義理で出席したパーティでは、100人ほどの出席者の中に顔見知りはたった二人でした。この二人は大切にしなければなりません。Aさんとは10分ほどおしゃべりしました。しかし、Aさんの表情に〈もう結構〉というサインが見てとれましたので、そこで解放して差し上げることにしました。Bさんとは、互いに料理の皿を持った状態で顔が合いました。Bさんは私を十分認識していないようです。考えてみればBさんとの接点は、あるセミナーで互いに講師を務めたというだけのことです。それをBさんに思い出していただいただけで、分かれました。
これでおしまい。他に積極的に知己を得るべき方も見あたりません。パーティのプログラムはまだ続くようでしたが、ここらで退散することにしました。
ホテルの玄関から送迎バスに乗り込んだら、まばらな乗客の中になんとAさんとBさんを発見しました。彼らもまた私と同じような状況だったのかもしれません。楽しいパーティ帰りというよりは、義理を果たした安堵感に浸りながら駅に向かったのでありました。〈kimi〉

花は名所でブランドで

2010.04.05

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昨日の午後、花冷えの中を、誘われて新宿御苑へ行ってきました。
新宿駅の南口から新宿門を目指して歩き出したのですが、反対方向からものすごい人の流れ。「何かイベントでも終わったのかなあ」などと呑気なことを考えていたらとんでもない。お花見から帰る人の波でした。小学校の遠足以来、御苑へは何回も足を運びましたが、あんなに人があふれている御苑は初めてでした。日本人は本当に桜が好きなんですね。
新宿御苑の古木の桜は立派でした。周囲の空間が広いので悠々と太い枝を伸ばしています。しかし、新興住宅地にあるわが家周辺の桜も意外に美しいんです。植えて30~40年ほど、成年期の活きのよい桜は、もしかしたら御苑の桜より美しいかもしれません。
だからと言って、仲間と連れだっての花見となれば、新興住宅地でということにはなりません。そこはやはり花の名所がよろしいようです。今年は新宿御苑でしたが、東京で花見の本場と言えば上野公園。歴史的には飛鳥山。千鳥ヶ淵も、六義園も素晴らしい。隅田公園も捨てがたい。
「お花見に行った?」
「うん。千鳥ヶ淵に行ってきました。お濠に映った桜がきれいでしたよ」
という会話は成り立ちますが、
「お花見に行きました?」
「はい、近所の児童公園の桜を見てきました。きれいに咲いてましたよ」
それも結構ではありますが、なんとなく話が弾みにくい。客観的な花の美しさより、誰もが知っているブランド的名所での花見の方が話の種としては価値が高そうです。
新宿御苑が大混雑するのは、きっとそういうわけなんだろうと、半分納得したような、しないような・・・。それにしても混んでましたな。〈kimi〉

「等」つながり

2010.03.29

私鉄の駅前に何本ものノボリが立っているのに気がつきました。選挙の候補者が演説しているのかと思ったら違いました。ノボリには大きく「自転車等駐車場」と書かれています。
興味深いノボリです。自転車置き場は、自動車置き場と区別するために「駐輪場」と表示されることが多いのですが、なんでここは「駐車場」なんですか? なんで「自転車等」と「等」がついているのかしら。
こんな疑問形で書くまでもありません。ここにはバイクも止められるようになっているんです。だから「駐輪場」ではマズイ。自転車置き場とバイク置き場に共通する用語としては「駐車場」の方が妥当性が高い。しかし、「自転車駐車場」ではバイクをカバーできない。ここはやはり「等」をつけまして「自転車等」で行きましょうよ、と。いや、私が考えたんではありません。区役所のお役人さんが、たぶんそう考えたのではないかと想像したまでです。
霞ヶ関方面で「医薬品等」と表記されることがしばしばあります。一般人の常識では、「薬のようなもの」をイメージするでしょう。ところが、この「等」の中にメガネが含まれることがあると言ったら、かなり違和感を覚えるのではないでしょうか。薬とメガネ。自転車とバイクよりはるかに縁遠い存在です。
薬事法という日常生活に縁の深い法律があります。薬事だから薬のことを決めている法律かと誤解されがちですが、それだけではありません。第1条に「この法律は、医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療機器の品質、有効性及び安全性の確保のために必要な規制を行うとともに、指定薬物の規制に関する措置を講ずるほか、医療上特にその必要性が高い医薬品及び医療機器の研究開発の促進のために必要な措置を講ずることにより、保健衛生の向上を図ることを目的とする。」とあります。
「医薬品等」というのは「医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療機器」を指しているわけです。メガネは医療機器とされているので、立派に「医薬品等」なのです。
製薬会社など、本丸の医薬品関係者にとっては「等」があろうがなかろうが、どこ吹く風ではありますが、「等」と一字の中にひっくるめられてしまった医療機器の関係者にとっては心中穏やかではいられません。なんでMRIが、人工呼吸器が、ペースメーカーが「医薬品等」なんだ、ということになる。ともに医療に使われるとは言え、薬と医療機器とはかなり異なるものです。違うところがたくさんある。そこで薬事法から切り離して医療機器法をつくれ、という声が近頃強くなって来ました。それを支持する国会議員も現れました。
「自転車等」と「医薬品等」。一見関係なさそうですが、根っこの方ではどこかつながっていそうです。〈kimi〉

目のつけどころ

2010.03.18

友人からメールをもらいました。共通の友人であるE君が俳優の阿藤快に似ていると思わないか?という呑気なメールです。なに故、突然そんなことを言い出したのか皆目見当がつきません。おかしな男です。
私はE君が、阿藤快に似ているとは思いません。私が、E君にそっくりだと思っているのは作家の立原正秋と俳優の綿引勝彦です。これはE君自身も認めるところ。しかし立原正秋と綿引勝彦の顔を比べると、これは全く似ていません。
世界的なチェリストのヨーヨー・マに似ている日本人を私は二人知っています。お一人はさるノンバンクの幹部の方、もうお一人は医療機器会社の人事部長さんです。お二人とも、ヨーヨー・マに似ていると言われたことが何回もあるとのことで、自他共に認めるヨーヨー・マ似です。しかし、ノンバンク氏と医療機器会社氏が、もし顔を合わせたら互いに似ているとは認識しないかもしれません。
A≒B、A≒C、B≠Cです。三角形は成り立たず、二辺だけが有効です。A氏とB氏の特徴が一致しているのは顔の上半分。A氏とC氏の似ている部分は下半分だとしたら、B氏とC氏は似ていないくて当然ということなのでしょう。
メールの差出人は、E君のどこかの特徴を阿藤快に見出した。それが私の目のつけどころと異なっているので、私の目にはちっとも似ていないと映ります。
一つの事実に対して、人によって見方が異なることはよくあることです。同じものを見ていながら、それぞれが別の側面を強く認識してしまうと、お互いに他の認識を受け入れがたい。コミュニケーションギャップは、こういうところからも生まれるのでしょう。(文中敬称略)〈kimi〉

ただの道具

2010.03.15

軽くて小さいノートパソコンを買いました。これまでは記者会見やセミナーなどでパワーポイントを映すのに、私の個人所有のノートパソコンを使ってきました。いまだ十分に使える性能ではあるものの、dog yearの世界においては少し古めかしくなっていました。
この仕事、休日や夜間に自宅で作業をしたりメールを出したりすることが結構あるのですが、それを1台だけでまかなうのにはリスクがあります。万一トラブルが発生したらお手上げです。そこで予備に10年前のノートパソコンを1台置いていたのですが、スイッチを入れてから立ち上がるまで日が暮れそうだし、負荷の大きい処理をさせると、その間にビデオが1本が見られるし、実用性をほとんど失ってしまいました。
そんなわけでご老体は1000円で売り払い、会社から自分の1台を自宅に戻し、会社で仕事に使うノートパソコンを新規購入という玉突きをしたわけです。
しかしまあ、新しいパソコンというのは世話が焼けますね。パソコンが道具である以上、自分の手になじむようにしなければ使い物になりません。その作業だけで正味2日を要します。ソフトがなければただの箱とはよく言ったもので、あれも買わなければ、あれもインストールしなければ・・・と、パソコンの購入費のほかにソフト代もバカになりません。
この土日、そんなことをしていたおかげで、私が仕事をする上で最低限必要なソフトが判明しました。
1)Word
2)PowerPoint
3)Excel
4)Photoshop
5)Acrobat Pro
米国のソフト屋さんの戦略に乗せられているような気分ではありますが、これらがなければまったく仕事になりません。そのほか日頃愛用している
6)Tunderbird
7)Firefox
も入れたい。IMEも使い慣れたATOKにしたい(これは国産ソフト)。あとはあれば便利というソフトをいくつか。
思い起こせば、こんな作業が楽しかった時代がありました。あの頃のパソコンは魔法の箱でした。それがただの箱、ただの道具となってしまったいまでは、この作業は苦痛以外のなにものでもありませんでした。いまや新しいパソコンを買っても、性能こそ向上しているものの、できることには大した違いがなくなってしまったからです。次に私たちをワクワクさせてくれる道具は一体いつ生まれるのでしょうね。〈kimi〉

何だかわからん

2010.03.09

先日、友人の某大学教授が演出する前衛演劇を鑑賞してきました。エンターテイメントを目指さないと演出家自身が公言しているくらいですから、楽しく観劇というわけにはまいりません。話の流れもよくわからず、なぜそこで叫ぶのか、なんでそのような身体の動かし方をするのか等々、脳味噌の中で疑問符が連打されるうちに1時間15分が経過しました。
いわゆる「ゲイジュツ」においては、それを見て、あるいはそれ聴いて、何らかの感応が得られればそれでよい、という誠に身勝手なことがときに称賛されたりします。それも一種のコミュニケーションではありますが、送り手が意図した内容を正確に受け手に伝達するということは、必ずしも目的とされていません。だから、何が何だかわからないうちに芝居が終わってもよろしい、ということになるようです。
広報の世界では、もちろんそれは通用しません。伝えたい内容は、より正確に相手に伝わってほしい。そして理解してほしい、納得してほしいというのが広報です。そのような世界に長年身を置いていると、何だかわからん前衛演劇の世界が新鮮であると同時に、どこか割り切れない気持にもなってきます。
このところ、何だかわからんうちにリコールされたり社長が交代したり、ビジネスの世界でも何だかわからんことは決して少なくないのではありますが。〈kimi〉

切れた靴ひもと神社に運ばれたライオン

2010.02.20

織田選手のスケート靴のひもが切れました。新しい靴ひもは伸びるのでしっくりこない。それで切れ掛かった靴ひもを使っていたそうです。大仕事の前には何度もチェックをして、リスクをできるだけ洗い出すのがビジネスの世界では当たり前のことです。
三味線の糸も、靴ひもと同じように新しいとどんどん伸びます。演奏中に伸びると音程下がってしまいます。発表会に臨んでは、切れるリスクがあっても伸びにくい使い込んだ糸を使うか、音が狂うのを承知で新しい糸に張り替えるかというジレンマに陥ります。三味線の師匠によれば、発表会の日の朝に新しい糸を張って、演奏までの時間をつかって糸の伸びを取るのだそうです。立派なソリューションです。織田選手にもそのくらいの配慮が必要だったのかもしれませんが、ここ一番というときに慣れ親しんだ感覚を大切にしたいという気持もわからないではありません。理をとるか情をとるか、まことに難しい問題です。
隅田川をはさんで浅草の向かい側、向島に三囲神社という古社があります。ここに狛犬ならぬライオンが鎮座しています。そのライオン、実は三越池袋店の入口に鎮座していたものです。三囲神社は、越後屋呉服店の頃からずっと三越と関係の深い神社なのだそうで、その縁でここに運ばれて来たようです。
しかし、ちょっと待てよと、場違いなライオンを見ながら考えました。池袋店は業績不振で閉めたはずです。多くの社員が心ならずも去らなければならなかったたはずです。一方、店の入口から撤去された大きくて重いライオン像をここまで運んで据え付けるには、それ相応の経費がかかったはずです。それって少々おかしくはないか、と連れの友人に問いました。すると友人は「三越にはライオンへの強い思いがあるのだろうから、いいじゃないか」と答えました。周囲の何人かにも同じ質問をしてみましたが、友人と同様の意見が多かったのは意外でした。理をとるか情をとるか、まことに悩ましいことです。
たまたま今週号の日経ビジネス誌は「三越伊勢丹の賭け」という特集です。贅沢という情の世界で商売をしてきたデパートの苦悩はまだまだ続きそうです。〈kimi〉

多読あるいは読書自慢について

2010.02.19

新社長を紹介する新聞のコラムを読んでいたら、「年に100冊超の乱読」なんて書いてありました。
読んだ本の数を自慢しても意味がないというのが、読書家でない私のかねてからの主張(兼自己弁護)です。量よりも、何を読んだか、読んでどう考えたかということの方がよほど重要ではないか、という考えです。
しかし、どう考えたかは簡単に表明できません。社長が読書感想文を書くわけにも行きません。一方で、ビジネスマンは何事も数字で示せと若いときから教育を受けています。社長になるようなエリートはなおさらです。そこで何冊読んだ、ということになりがちなんだろうなあと、新社長のコラム記事を読みながら考えました。
友人にも本に関しては絶対に負けられない、という人間がいます。ビジネスマンではないので定量的には表現しません。名著の話題が出ると、それは中学のときに読んだ、あれは高校生のときに通読した、と必ず自己の優位性を表明します。古今東西、読んでない本は存在しないかのような勢いです。あんな難しい本を中学生が読むだろうかと思わなくもないのですが、そこを追求しないのが友情、あるいは武士の情けというものです。最近出版された本に関しては、さすがに中学生のときに読んだとは言えないので、すぐに読んで、その報告が入ります。誠にご苦労様なことです。
先日のことですが、ある英会話のテキストが話題になりました。数日後、彼からメールが届きました。初級編、中級編、上級編全3冊を読了したそうです。それって、なんか変じゃないですか?〈kimi〉

腰パンと企業の論理の関係

2010.02.12

先日駅のエスカレーターに乗ったときのことです。前にいた男子高校生が盛んにズボンを気にしていました。てっきりズボンをたくし上げるのかと思ったら、意表をつかれました。彼はズボンを下げたのです。すでにベルトの位置は十分腰骨の下にあるにもかかわらず、です。
スノーボードのオリンピック選手が、ユニフォームのズボンをずり下げて空港に現れたと非難されています。私は実に寛容です。異なる価値観を受け入れることを基本としてこれまで生きてまいりました。だから高校生もスノボの選手もどうぞご自由に、といったところです。
しかし、少々気になることがあります。スノボの選手はストリート系ファッションが好みと報じられていますが、ズボンを腰骨より下げるのが、ストリート系ファッションなんでしょうか。若者のファッションに疎くなってしまったので自信はありませんが、ちょっと違うのではないか、という気がするのです。以下、独断と偏見で。
腰パンはサギー・パンツという米国輸入ファッションと言われていますが、日本の場合は、それとは異なる背景があるような気がします。近頃すっかり見かけることが少なくなった着丈の長い学生服、いわゆるガクランの流れです。これを戦前の蛮カラと結びつける説明もありますが、信用しかねます。蛮カラは、現在とは異なる階級意識のもとで、エリート層の内部での反骨精神の発露だったのです。ガクランや腰骨ズボンは、社会的エリートとは対極の存在でしょう。
スノボの選手もエスカレーターの高校生も、彼らの属している集団の中でのカッコよさを目指しているのでしょう。その小さな集団の中で評価されることに、価値観を置いているのです。その意味では、蛮カラもガクランも腰骨ズボンもまったく同じ種類の自己表現です。
これは企業社会にも当てはまります。いわゆる企業の論理というものです。自動車会社の論理が消費者の意識とズレていると、これまた批判を受けていますが、それとスノボ選手のベルトの位置はどこかでつながっているのではないでしょうか。遠い親戚なのだと思えてなりません。〈kimi〉

ちょうど時間となりました

2010.02.10

昨日は都内某所にて、正味5時間30分のレクチャーを担当しました。これだけの長時間になると、時間配分がとても難しいんです。
準備段階では、時間が余ってしまうのではないかという恐怖が先だって、ついついパワーポイントの枚数を多くしてしまいます。いざ話し始めると、今度は時間内にすべて話せるかという心配の方が強くなってきます。
回数を重ねるうちに、ある程度は伸び縮みができるようになりましたが、5時間以上ともなると、難易度が相当高い。なにはともあれ時間オーバーだけは絶対にしないように、時計を横目に突き進みました。
講演会やセミナーで、終了時間をとうに過ぎているのに悠々と話し続ける人がいますね。場内がだんだんザワついてきているのにも気がつかない。ご本人には話したい内容がまだまだあるのでしょうが、聞き手の耳にはすでにほとんど到達していません。退席しにくい雰囲気の会場だと、椅子に縛られたままこの状態を甘受しなければなりません。
ようやく長いお話が終わってほっとする間もなく、司会者が「時間は過ぎてはおりますが、ご質問がある方はどうぞ」と呼びかけます。手を挙げるなよ、手を挙げるなよと密かに念じているのに、こういうときに限って手を挙げる人がいるんですね。
その質問がまた長い。一種の演説だったりします。回答がまたまた長い。ようやく終わったと喜んだら、「他にご質問はありませんか?」とまた呼びかけるから、がっかりです。もう誰も手を挙げません。会場中が「早く終わってくれ~い」の怨念大合唱になっているにもかかわらず、司会者はじっくりと会場を見回します。この時間がとてつもなく長く感じられます。舞台に駆け上がって司会者をぶん殴ってしまいたいという衝動と戦っているうちに、長い長い講演会はお開きとなります。
そういうことが起こらないよう、昨日は途中を端折って定刻20分前に終了。それではご質問を、と会場を見回しました。
すると一番前の方が手を挙げました。「まだ20分ありますから、先ほど飛ばされたところを話してください」
リクエストに応えて、その部分の解説を加えたら、ちょうど時間となりました。長時間のレクチャーって、ホントに難しいですね。〈kimi〉

けじめ

2010.02.03

とくに秘密でもプライバシーに関わることでもないのに、こちらの何気ない質問に答えを言いよどんだり、いかにも話したくないそぶりを見せる方がいます。こういう方とやりとりしていると、さっぱり状況がつかめなかったり、どこか合点が行かない部分が残ったりするものです。慎重派。ガードが堅い。秘密主義。いろいろな表現ができると思いますが、それはそれで個性の一つですから、あえて目くじらを立てるべきものではありません。
しかし、企業で広報の仕事をしておられる方においては、これはちょっと困った性向ではないでしょうか。
取材する側からすれば、それが広報担当者自身の性格なのか会社の企業姿勢なのか、にわかには判断がつきかねます。しかし、最初に受けた秘密主義的な印象は長く心の底に残るはずです。これは会社にとって大きなマイナスでしょう。
一般論ではありますが、守りの姿勢が強い企業は、広報の担当者にもそのような性格の社員を配しているようです。さらに言えば、経営者が守りに入っているときは、その傾向が強まり、攻めに回っているときは売り込み型の外向的な方を任命するようです。
広報は会社の顔と言われます。生まれつきのご性格は変えようがありませんが、せめて話せることはちゃんと話す、話せないことは絶対に口を割らない、そのけじめだけはつけておいた方がよろしいと思います。〈kimi〉

魚長挽歌

2010.01.26

ココノッツのもう一つのブログにココランチ“があります。創業1周年記念行事として(ちょっと大袈裟ですが)、1年間に蓄積した麹町・半蔵門近辺のランチのお店情報をまとめて掲載することにしたものです
お昼を食べに出る距離には限度があります。おいしい店があっても、遠ければおのずと足が遠のきます。“ココランチ”に掲載しているお店も、だいたいオフィスから500mの半径のうちに収まっているようです。
新しいオフィスは、元のオフィスから直線で160mほど南西に位置します。半径の中心が移動したので、これから掲載するお店はその分だけ南西に移動することになそうです。これまでは新宿通りの北側の一番町近辺のお店でランチをとることが多かったのに対し、今後は南側の平河町や紀尾井町方面に足が向きそうです。
そんな折も折、“ココランチ”イチオシのお店が閉店してしまいました。二番町の裏道でひっそりと営業していた「魚長」さんです。魚屋さんが始めたお店で、刺身も焼き魚も飛びきり新鮮でおいしくて、半径500mの縁に当たるにもかかわらず遠路何度も足を運びました。
どのような経緯で店を閉めてしまったのか、情報はまったくありません。ランチばかりでなく、一度は夜に訪れてみたいと思いつつも果たせずに終わりました。返す返すも残念です。ご年配のみなさんが切り盛りしておられたので、少々気がかりでもあります。魚長で大もうけして、「これからはのんびりやろうや」という理由での店じまいであれば結構なんですが。〈kimi〉

新オフィスとお囃子の関係

2010.01.18

とうとう新しいオフィスに引っ越してまいりました。「とうとう」というのは、「ふ~」という気分を表現しております。いやはやオフィスの移転というのは手間のかかることです。
で昨日、ダンボールから荷物を取り出して整理を始めたところ、窓の直下から突然お囃子が聞こえてきました。麹町三丁目町会の主催するお餅つき大会が始まったのです。
オフィスの窓から
町内と言ったって、都心の真ん中ですから住人はそんなに多くはありません。しかし、毎年ちゃんと餅つき大会とお祭りをやっているのだそうで、さすがは伝統ある麹町です。
お囃子
では、なぜそれが新オフィスの真下なのか。今度のオフィスの大家さんは、町会長さんにして、由緒正しき(その由緒は長くなるので省略)料理屋兼仕出し屋さんのご主人だからであります。
そんなわけで引っ越しの日の昼食は、テントの下で振る舞われたお餅と豚汁とおでんですませてしまいました。
最後に写真をもう一枚。いいですねえ、こんな顔のいる麹町です。
麹町の顔
〈kimi〉

仕分けって難しい

2010.01.12

引っ越し準備
ただいまココノッツは来週の引っ越し準備でおおわらわです。夜逃げじゃありませんよ。これまでのオフィスがあまりにも手狭になったので、多少広いところへ移転することにしたのです。床面積は増えるのですが人数も増えるので、一人当たりの面積はかえって狭くなります。効率化と申し上げておきましょう。
移転先はすぐ近くです。近くであっても、荷づくりをしなければなりません。この際、不要な書類や資料を整理しようと考えるは当然です。ところが、その作業には実に莫大なエネルギーを要します。肉体よりも精神のエネルギーの方です。この資料は将来必要になるかな、二度と使わないかな、と一つ一つ判断を繰り返しているうちにクタクタになってしまいます。
1年間一度も使わなかった書類は廃棄!と割り切る方法もあります。しかし、2年目に必要にならないとも限りません。クールな論理ではありますが、合理的とは言えません。工場の5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)のような管理方法は、知的労働にはそのまま適用できない、というのが私の長年の主張です。
若いとき、生まれ育った一戸建てをたたんで公団3DKへ越すことになりました。かなりのダウンサイジングですから、大量の家財を処分しなければなりませんでした。少々悲しい気分で捨てまくりました。処分した物のほとんどは、その後必要となることはありませんでしたが、いまもって「しまったな」と悔やんでいるものがあります。
子どもの頃からのクルマ好きで、1950年代後半以降の内外の自動車のカタログを大量に集めていました。一方、ちょうど引っ越しをするときに夢中になっていたのは釣りでした。釣り具のカタログもまた大量に持っていたのです。さて、どちらを処分すべきか。そのときの私はクルマの方を選びました。蒐集したカタログのような外国高級車やスポーツカーを所有することは一生あり得ないだろうと判断したのです。その判断はまったく正しく、いまに至っても所有しておりません。しかし、カタログを捨ててしまったのは間違いでした。いま持っていたら、「なんでも鑑定団」ものだったかもしれません。釣り具のカタログは引っ越しの5年後にすべて捨ててしまいました。いま、釣りをすることはまったくありません。クルマにも興味を失いましたが、あのカタログにだけは無念さが残ります。
というわけで資料の仕分けには神経をすり減らすのです。もうクタクタ。〈kimi〉

まだ読んでません

2010.01.07

年末にこのブログで、朝日と日経の書評欄から「読んでいない本」を10冊ばかり選びました。
正月休みを過ごしたいま、まだ一冊も読んでおりません。それどころか買ってもおりません。まったく私は読書家ではありません。
言い訳をすると、近所の本屋に立ち寄った折り、橋本治の小説「巡礼」を探したのです。しかし、売っていませんでした。近頃の書店の現状はまったく嘆かわしい・・・と、本屋の悪口を言っても仕方がありません。
速読法というものがあります。1週間に10冊読める、100冊読めるというものです。これには私は一定の評価をしております。つまらない本は1ページ10秒ほどで読み飛ばしているんです。当初はそんなことして大丈夫かと不安があったのですが、速読ノウハウ本を立ち読みしつつ速読したところ、「それでよいのだ」と自信を持つに至りました。電車の中に広告を出しているようなビジネス書は、それで十分です。
しかし、やはり私は多読家ではありません。読みたくもない本を半ば強制的に、あるいは義理で読まされる場合しか「速読法」は使いません。
知り合いの大会社幹部に、毎年ナン百冊かを読むと自慢している男がいます。優秀なビジネスマンであることは間違いありません。雑学に通じてもいるのですが、人格については、とくにほめるほどのことはありません。読んだ本の数を出世の道具に使っているフシもあります。本の数とTOEICの点数は別物だと思うのですが。
かと言って、本を読まない大人物というのも、例外はありそうですが、身近には見あたりません。読書量と人間の価値との相関係数はたぶんそれほど高くないだろうと、読んでいない本のリストを眺めつつ想像しております。〈kimi〉

去年今年

2010.01.02

 去年今年貫く棒の如きもの
毎年、新年を迎えるとこの有名な高浜虚子の句を思い出します。
2009年から2010年へ、今年3年目を迎えるココノッツにとっての「貫く棒」とは何か。また、私にとっての「貫く棒」とはなんだろう。そんなことを考えながら年の初めを迎えました。
ココノッツが貫くべき棒とは、弊社のサイトに掲げている「ココノッツの企業理念」や「ココノッツは、こう考えます」の通り、製薬企業や医療機器企業をはじめとするヘルスケア産業のコミュニケーションをお手伝いすることによって、有用な医療情報を広く社会へお伝えすることです。これについては道半ばどころか、まだほんの緒についたばかりです。この棒をそう簡単に曲げることはできません。
私自身の貫くべき棒の一つは、ココノッツの棒が曲がらないように舵をとりつつ、さらに太く伸ばすことにあります。そのような決意で迎えた年の初めでした。
と、正月用にきれい事を言ってしまいましたが、一個人としては年々棒がやせ細って来ていることを自覚しています。グッと貫く力が弱まっています。と同時に、まっすぐ貫こうとするよりも、少々曲がってもいいじゃないか、その方が面白いじゃないかとも考えるようになって来ました。ところがですよ、これまでの棒が意外に堅くて、容易には曲がらないんです。細いくせに柔軟性がなくなりつつある。困ったことですが、それが人生の難しいところなのかもしれません。
 去年今年貫く棒も細くなり                〈kimi〉

今年読んでいない本

2009.12.28

学生時代、友人の家へ遊びに行くと、そこの本棚をしげしげと眺めて、友人がどんな本を読んでいるのか密かに値踏みをしたものです。若気の至りとは言え、まったく失礼な話です。しかし、どんな本を読んでいるかで、その人物のおおよそがわかるというのは真実に違いありません。だから、この一年間に私が読んだ本などはとても申し上げられません。質量ともに失笑を買うだけです。
年末になると、今年の本ベスト5などという企画が新聞を賑わします。そのほとんどは読む気の起きない本や読んでも理解できない本なのですが、こんな本が出ていたんだと初めて気づいたり、読んで置くべきだったと反省したりする本も少数ながら見つけることができます。昨日の朝日新聞と日経新聞の読書欄に挙げられていた本からいくつか選んでみました。
・「巡礼」 橋本治 新潮社
・「闘うレヴィ=ストロース」 平凡社新書
・「ノモンハン戦争」 田中克彦著 岩波新書
・「音楽の聴き方」 岡田暁生著 中公新書
・「更に尽くせ一杯の酒 中国古典詩拾遺」 後藤秋正著 研文出版
・「特攻と日本人の戦争」 西川吉光著 芙蓉書房出版
・「ジュール・ヴェルヌの世紀」 コタルディエールほか監修 東洋書林
・「荷風へようこそ」 持田叙子著 慶應義塾大学出版会
・「日本の医療の何が問題か」吉田あつし著 NTT出版
これらの本をこれから読むと宣言しているわけではありません。読んでみたいなあ、と思っただけです。最後にもう一書挙げておきます。
・「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール・パイヤール著 筑摩書房                         〈kimi〉

「ビジネスマンの狭い世界」その後

2009.12.22

昨日、一本の電話がかかってきました。
2009年11月7日にこのブログに書いた「ビジネスマンの狭い世界」に関することでした。どういうご趣旨か、にわかには呑み込めなかったのですが、電話の主がブログで取り上げた「優良放送番組推進会議」なる組織の事務局をされている(事実上の設立者らしい)とうかがって合点が行きました。ブログで批判されたとお考えになっての、反論のお電話だったのです。
いろいろとお話をしましたが、納得されたかどうか曖昧なまま電話を切ることになりましたので、ここに私の本意を改めて書いておきたいと思います。
長年のテレビ界における視聴率第一主義には、私は大いに疑問を持っています。とくにF1と呼ばれる20~34歳の女性層にターゲットを絞った番組づくりがテレビの質を低下させたのではないかと疑っています。そういう意味で、他の指標や価値観によってテレビ番組を評価しようとする試みには大賛成です。大企業のサラリーマンたちが番組を評価するのも結構だ思います。決して否定するものではありません。
しかし、大企業に勤めている人たちは社会的な強者です。かつては私自身もそうでしたが、一個の人間としては誠に弱い存在であるにもかかわらず、大企業の社員であるという身分において、強者としての発想から抜け出ることはできません。
NHKが放送している演芸やバラエティ番組の多くは実に面白くありません。こんな番組を誰が喜んで見ているのか、と私自身は思うのですが、もしかしたら、そのような番組を楽しんでいる人たちが大勢いるのかもしれません。大都市のビジネスマン層とは異なる感性を持った人たちもきっと存在しているのでしょう。
大企業のサラリーマンによる評価に価値があるように、他のさまざまな人たちによる番組評価もまた大切だろうと、私は考えます。何をもって「優良」とするのか、さまざまな価値観によって評価されてこそ定まるものではないでしょうか。
「優良放送番組推進会議」に参集されておられる一流のインテリジェンスをお持ちの方々がまさか間違われるとは思いませんが、一流企業のサラリーマンの価値観もまた、一部の人たちのそれに過ぎない、ということを先のブログでは申し上げたかったのです。〈kimi〉

講師の現実

2009.12.19

今日で、某ビジネススクールの今年度の講義がめでたく終了。広報担当者セミナーとかIR担当者講座といった、現にその仕事をしている人たちに教えるのではなくて、これからキャリアを積もうとという人たちにコーポレート・コミュニケーションを教えようというわけで、さて、どこにフォーカスしたらよいか、学生はどんなことに興味を持っているのか、結局手探り状態のまま終わってしまったような気がします。学生のみなさんには誠に申し訳ない気持です。企業においてコミュニケーションがいかに重要かということをちょっぴりでも理解していただけたのなら、うれしいのですが。
講義をするに当たっては、持っている知識を総ざらえし、虫干しをし、新たな知識も仕入れました。私自身にとっても大きな勉強の機会が得られたことになります。また、若い人たちとの交流はよい刺激になりました。感謝しなければなりません。
これで、約1年にわたって名刺に刷り込んでいた「講師」の肩書きをいったん消すことになります。「講師」の肩書きに何の経済効果も期待できませんが、学校側は広告効果を期待しているようでしたし、学生を引率して企業を訪問するときなどには、「何の売り込み?」などと訝しげな顔をされないですむという効用を確認できました。しかし、仕事の上で初対面の方から「先生」と呼ばれたりして、面映ゆいやら恐縮するやら、という経験もしました。「先生」は来年の秋までいったんお休みです
ここで、一つ誤解を解いておきたいことがあります。ときに「講師料もいただけていいですね」と言われることがあります。誤解です。時給で計算すると派遣労働者とほぼ同水準。90分授業を月に4回ですから、ご想像ください。準備に要した莫大な時間や必要な情報や知識を手に入れるために使った費用まで考えたら、かなり割の合わない仕事です。いっそのこと「ボランティアでお願いします」と言われた方が、「将来の有能なビジネスパーソンを育てるために一肌脱いでやろうか」と、こちらもやる気が高まろうというもの。毎月律儀に送られてくる給与支給明細書の数字を見ながら、「自分の価値」なんて言葉も頭をよぎったのであります。
これが日本の教育現場の現実かと、妙な勉強もさせていただいた講師稼業(稼いではいませんが)でした。〈kimi〉

思い出の軽食堂?

2009.12.14

毎週木曜日の朝日新聞夕刊に掲載されている小泉武夫氏のコラム「食あれば楽あり」を愛読しています。男が求める味の勘所みたいなものが押さえられていて、毎回実にうまそうです。
その先週は〈ソース焼きそば〉。どんな奥の手が登場するのかと期待して読んだら、スーパーの袋入り焼きそばと添付の粉末ソースを使っているので、ちょっとがっかりしてしまいました。と同時に、いまはほぼ絶滅した外食産業を突然思い出しました。
通っていた高校の正門へと曲がる路地の角にあったその店のガラス戸はいつも全開になっていて、その左に焼きそばを焼くスタンドがありました。店内には、赤色のデコラのテーブルにビニール張りの椅子。焼きそばは、発泡スチロールではなくて、ちゃんと皿に盛って出てきました。そこにテーブルの上にある紅ショウガを載せて、青ノリを振りかけて食べる。昼食にはボリュームが少し足りないけれど、下校時の空きっ腹を満たすには適当でした。メニューにはそのほかにラーメン、カレーライス、うどんやあんみつ等々があったような。
中央線中野駅の南口にあった同様の店には、入口の右に今川焼きのスタンドがありました。夏にはそこがかき氷の器械に代ります。アイスクリームのボックスには、バニラと小倉が大きな袋に入っていて、そこから掻き出してアイスモナカにしてくれます。
こんな店が東京にはいくらもあったのですが、バブル期にほぼ全滅してしまいました。当時、こういう業態をなんと呼んでいたのでしょう。軽食堂かな。ちょっと違う気もします。業態の名称など必要ないほどありふれた存在だったのです。
昔話をするようになるのは、年を食った証拠に違いありませんが、思い出すと妙に懐かしい。きっと探せば、下町のどこかに一軒や二軒は生き残っているかもしれません。年明けに旧友たちと向島の七福神巡りをしようじゃないかと話が盛り上がっているので、その折にでも探してみようかな。〈kimi〉

肥満と社会負担

2009.12.07

小さなお嬢さんを連れたそのお父さんを、初めて見かけたのは十数年も前のことです。ご近所のようで、朝のバス停や駅でときどきお見かけするようになりました。とても仲のよい親子です。あるとき、お嬢さんが障害をお持ちであることに気がつきました。お父さんが毎朝施設か学校かへ送っておられたのでしょう。
いまもときどきその親子を見かけることがあります。お嬢さんは高校生くらいになりました。相変わらず駅までお父さんと一緒です。ある朝は、ホームでお嬢さんがさかんに何事かをお父さんに訴えていましたが、仲のよい親子であることに変わりはありません。
変わったのは、お父さんの体重です。いつからかムクムクと横に膨張し始め、いまやふくれるだけ膨らんだ風船に手足が生えている状態です。とくに彼の足には同情を禁じ得ません。やっとこさ胴体の重量に耐えています。
お嬢さんの障害とお父さんの肥満。それを安易に結びつけるのは不遜かつ傲慢というべきですが、率直に言うと、私はお父さんの肥満に一種のシンパシーのようなものを感じています。
一時期の米国で、企業経営者の肥満が声高に批判されたことがありました。自己を律することのできない人間に企業を経営することはできない、というのがその理由でした。
なるほどその後、米国でも日本でも、肥満した経営者は少なくなったような気がします。批判は効果があったのでしょう。
太った人は電車の中でもはた迷惑です。最近の通勤電車のシートは一人分ずつ区分けされていますが、隣まではみ出す人がいます。デブとデブの間には子どもか痩身の女性しか座れません。ラッシュアワーに、同じ乗車位置に肥満した人が並んでいたら、私は他へ回ることにしています。
太るに当たっては、様々な個人の事情というものがあるのでしょう。太るも痩せるも個人の自由です。ましてやデブもヤセも差別の対象にしてはいけません。しかし、ヤセよりデブの方が社会に与える影響は大きい。肥満は社会の負担でもあります。人並み以上に太っている人は、健康問題もさることながら、その肥満が社会に及ぼしている影響についても、少しは理解していただきたいものです。〈kimi〉

あの外山さんが・・・

2009.12.02

9月18日のこのブログに、弊社のAは実にこまめにノートをとっているが、私はほとんどノートやメモをとらない、と書きました。メモをとっても、まず読み返すことがない。読み返さないなら書く必要がない。セミナーでもノートをとるよりも、講師の言葉に触発されながら頭を動かす方がよほど面白い。頭に残らなかった部分は、たいした内容じゃなかったと思うことにした、という趣旨でした。もっとも必要な時はちゃんとメモをとっている、とも書き添えました。
これに、弊社のAのご親族たる女子大生から大顰蹙を買ってしまいました(と聞きました)。どうやら「最後はただの自慢話じゃないの!」というお怒りらしい。それは大きな誤解というもので、要点だけはメモをすると書いたのは、このブログをお読みになったお客様に無用なご心配をおかけしないための営業上の配慮であります。
ま、そんなことは、今日のところはどうでもよいのであって、たまたま帰りの電車の中で読んでいた外山滋比古氏の「思考の整理学」に、以下の一文を発見したことをぜひご報告しておきたい。
「昔、ある大学者が、訪ねてきた同郷の後輩の大学生に、一字一字教授のことばをノートにとるのは愚だと訓えた。(中略)全部ノートするのは結局頭によく入らないという点に気付いていたらしい。大事な数字のほかは、ごく要点だけをノートに記入する。その方がずっとよく印象に残るというのである。字を書いていると、そちらに気をとられて、内容がおるすになりやすい。そう言えばかつて、講演をききに来た女性は、きそって、メモを書いた。(中略)そういうメモをあとになって読み返すことはまずない。それだのに、字を書いていて話の流れを見失ってしまう。どちらもだめになってしまう。講演をきいてメモをとるのは賢明でない。(中略)もっぱら耳を傾けていた方が、話はよく頭に入るのである」(ちくま文庫版p.92~93)
外山さんの著作は以前にも1、2冊読んだことがありますが、この「思考の整理学」は、近頃大学生の間で評判になっているという噂を聞いて、どれどれと初めて手にとったものです。世の中には、同じようなことを考えている人がいるもんですねえ。それもあの名エッセイストがです。なんてことを書いていると、また「自慢してる~」と女子大生に叱られそうなので、このへんでやめておきます。〈kimi〉

怠け者の言い訳

2009.11.30

ずいぶんブログを怠けてしまいました。
間隔が空くと、その言い訳を書かなくてはなりません(そんな法律はないと思うけど)。ということは「書くネタができた」ということでもあります。
世に多いブロガーたちも書くネタには困るようで、彼らにネタを提供するというビジネスが成立しています。そのネタモトはもちろん企業であって、こんな類のことも広報の仕事の一部になろうとしています。
この土日に、日本広報学会の研究発表大会が埼玉県の某大学で開催されました。そこでの発表にもブログに関するテーマがいくつか出されていて、いずれこのような仕事が広報のメインストリームになる日が来ることを予感させました。
さて、私がブログを怠けていたのはネタ切れのためではありません。あえて言えば、脳味噌のキャパシティがなくなっていたのです。ここんところ、なんだかとっても忙しい(≠儲かっている)。あちこち行ったり、あれこれ考えたり、あっちの仕事こっちの作業、それに頼まれ講義などが重なってくると、すっかり余裕がなくなって、言葉が枯れてしまいました。才能の問題でしょうが、どうにも文章が出て来ない。
そんなわけで怠けておりましたが、ようやくいくらか落ち着きました(=儲からない)。またボチボチと書いてまいります。以上、怠け者の言い訳でした。〈kimi〉

ビジネスマンの狭い世界

2009.11.07

今日の産経新聞に、「広告主による番組評価」という記事が出ていました。大手企業や研究機関で組織する「優良放送番組推進会議」が投票による番組評価をしたら、視聴率ランキングとはずいぶん違った結果になった、という内容です。投票したのは参加企業の社員とのことです。
その記事によると、報道番組で最も票を集めたのは、テレビ東京系の「ワールドビジネスサテライト(WBS)」、以下NHK「クローズアップ現代」、同「週刊こどもニュース」、TBS系「サンデーモーニング」の順で、視聴率では一番の「NHKニュース7」は5位にとどまったそうです。
「広告の費用対効果について新たな物差しを広告主自身が生みだそうという試み」だそうですが、この順位はまさしくビジネスマンの尺度です。
ぜひこの発表の内容をWBSで取り上げてもらいたい、といった声を企業の幹部から聞くことがあります。ビジネスネタに特化したユニークな報道内容を評価してのことだとは思いますが、一方では、自分自身が毎晩見ている番組で取り上げてもらいたい、という気持も含まれているように推測します。
忙しいビジネスマンはどうしても帰りが遅くなるものです。とくにエリートは帰りが遅い。9時のNHK「ニュースウオッチ9」に間に合うかどうか。10時のテレビ朝日系「ニュースステーション」は好みの分かれるところ。となると、自然に11時からのWBSということになります。「NHKニュース7」への投票数が少なかったのは、評価が低いというよりも、見ることができないためでしょう。「週刊こどもニュース」も「サンデーモーニング」も土日の番組です。
ビジネス視点からの番組評価にも一定の意味は認めますが、それがすべてとは決して考えてほしくない、というのが私の気持です。
仕事をしないで数ヶ月家でブラブラしていたことがあります。そのとき住宅地を巡回する昼下がりのバスに乗って驚きました。乗客のほぼ全員がバス料金を支払わないのです。車内を見回したら、高齢者パスか障害者パスをお持ちの方々ばかり。そんな現実があることを、毎朝7時の電車で出勤し、昼間はビジネス街で行動し、8時過ぎの電車で帰ってくる生活をしていた私はまったく知りませんでした。
ビジネスマンは、自分たちが身を置く世界だけがすべてだと勘違いしがちです。しかし、それは本当に限られた、狭い狭い世界なのだということを認識する必要があります。〈kimi〉

ブッたでしょ!

2009.11.04

今朝の満員電車での出来事です。
私から3人ほど離れたところから突然「アンタ、ブッたでしょ!」という鋭い声が飛んできました。マスクをかけた女性がけわしい目で誰かを睨んでいます。
しばらく沈黙が続き、やがて電車は次の停車駅のホームへ滑り込みました。そろそろ次のアクションが起こりそうだな、と思っていると、案の定「アンタ、ブッたよね!」と再びきびしい声が聞こえました。
「ブッてないから」と冷たく答えたのは、私に背を向けている女性です。
「ブッたよ。2度も3度も、ヒジでブッたじゃない」
以下、同様の繰り返しが続いたので省略しますが、マスクの女性はこう言い出しました。
「ここで降りなさいよ。降りて駅員さんに言いますから、アンタはブッてないって言えばいいでしょ
そうこうしているうちに、電車はまた動き出してしまいました。二人のテンションは上がるばかりです。近くの男性が、
「どこかに車掌さんへの通報装置はないですか」
と大声を上げました。幸か不幸か、そのような装置は近辺には見あたりません。誰からも声なし。
「次の駅で降りなさいよ」
「なんで降りるのよ。ブッてないんだから」
「それなら駅員さんにそう言えばいいじゃない」
電車は次の停車駅に着きました。
「降りなさいよ!」とマスクの女性は後ろ向きの女性の腕を引っ張ります。
「降りる人がいますから、ちょっと待ってください!」と、ドアから乗り込もうとする乗客を制したのは、先ほどの男性です。この言葉に促されて、対決中の二人の女性はホームに降りました。たまたまそこにいた駅員に、マスクの女性が訴え始めます。補助員のアルバイト学生も駆けつけて、二人を取り囲み、駅員は迷惑そうな顔をしながら、発車の合図をしました
そして電車は動き出し、二人は視界から消えました。
私は一部始終を目撃しておりましたが、ただの傍観者でした。なんで仲裁に入らないんだ、とお叱りを受けそうですが・・・いや実は、どこかで仲裁に入ろうか、と考えてはいたのですが、うまいタイミングが見つかりませんでした。どのようなロジックで説得を進めようかと思案も巡らしたのですが、うまい考えが浮かびませんでした。
二人を置いてきぼりにして電車が走り始めてから、ブツという行為をするくらいなら、原因となる何らかのエピソードがあったはずではないか、と思いつきました。乗車時に先を争ったとか、マスクの女性が顔のそばで咳をしたとか・・・。諍いが始まる前に何があったのか、それを聞き出すことから仲裁を始めればよかったなあ。
もし通報装置が押されていたら少なくとも10分は遅れたでしょうが、電車はほぼダイヤ通りに終着駅へと走り続けました。〈kimi〉

のの字

2009.10.23

のの字
エグゼクティブの服装戦略やイメージコンサルティングを手がけておられるFさんはおっしゃいます。どんな筆記具を使っているかで、他人はその人を評価する、と。
私は上着の内ポケットに、シャープペンシルと黒・青・赤ボールペンが使い分けられる4能ペン(と言うのかしら)を刺していました。安物です。そもそも3能とか4能といった姑息な筆記具が他人様からの評価に耐えられるとは思っておりませんが、私は機能優先。長らく愛用しておりました。
その4能ペンが先日、急に不調になってしまいました。シャープを使いたいのに青ボールペンが出る。黒を出そうとすると赤が出る。買い換えなくちゃなあ、と思ったときに思い出したのが冒頭のFさんのお言葉です。それならいっそのこと「高級」万年筆にしてみようか。
そこで初めて知りました。「高級」万年筆には調整が必要らしいのです。名人の手による調整済みの万年筆というものを売っている店もあって、買った直後からヌラヌラとなめらかに書ける、とあちこちのウェブサイトで絶賛されていました。ということは、メーカーから出荷されたばかりの「高級」万年筆は欠陥品か未完成品ということになります。そんなことって、あるのでしょうか。
調整済みの方は正価、またはそれより少し高い値段です。未調整ならネットで半額です。迷いますね、こういうの。価格差は心地よさと安心感を得るための必要経費と考えるべきなのでしょうが、それに倍額を支払う価値があるのかどうか。こんなことに悩むのは私がエグゼクティブでない証拠ですが、さらにそれを決定づけたのは、お値段半額の方を買ってしまったことです。
日本人はカタチのあるものには金を払うが、広報のような抽象的な技術やノウハウには金を払わない、と常々批判しているにもかかわらず、名人の手による調整というintangibleな価値にはついに身銭を切る決心がつきませんでした。
しかし、よく考えてみれば靴だってジーンズだって、買った直後は必ず違和感があるもの。それを我慢しながら身につけていると、いつの間にか身体にピッタリなじんで来るじゃありませんか。同じことが万年筆にも起こるのではないか、というのが、半額の魅力に負けた私の負け惜しみです。
そんなわけで、このところ毎日ペン慣らしに励んでおります。失敗コピーの裏面に何枚も何枚も「の」の字を書き続け、ペン先をなじませております。数日の努力の結果、はっきり変化が自覚できたのは、手がくたびれて来た、ということだけですが。〈kimi〉

スーツにネクタイ

2009.10.19

学生時代の私の夢は、総理大臣になることでも大会社の社長になることでもありませんでした。ネクタイを締めなくてもよい仕事に就くこと、それだけです。なんとささやかな・・・。
しかし就職したのは製薬会社。外資系といえども当時の社員はスーツにネクタイ。ジャケット姿もありましたが、全員ネクタイを締めていました。その後に転職した日本の会社は全員背広に白ワイシャツという典型的なドブネズミスタイル(その時代の流行語)でした。その上、広報担当ともなれば、なおのことスーツにネクタイから離られなくなってしまいました。
で、今朝なんですが、電車の中で何気なく周囲を見回したら、視界の範囲内でネクタイをしている人が一人もいない。座席の人も吊革の人も合わせて7~8人がブレザーにノーネクタイでした。クールビズの季節はとっくに終わっています。日本のビジネス界のドレスコードに、大きな変革が起きているのかもしれません。
かくいう私も、今日はそのような服装で出社しております。見事、学生時代の夢を実現しているわけですが、感激はまったくありません。
よくよく考えてみれば時間帯にもよるのでしょう。会社勤めのときは、始業時間の30分以上前に出社していました。いま毎朝乗っている電車は、それより1時間ほど遅いのです。早朝出勤する保守的な企業のサラリーマンはいまもスーツにネクタイ。フレックスタイムなどが導入されている進歩的な企業のサラリーマンはノーネクタイになっているのかもしれません。この点については、今後さらに研究の余地がありそうです。〈kimi〉

感情はサイテー

2009.10.14

このところコトが思うように進まない事例が重なったためでしょうか、ある事実に気がつきました。
〈バイオリズム〉という言葉を最近あまり耳にしないなあ、ということです。
人間は、『Physical 身体のリズム』、『Sensitivity 感情のリズム』、『Intellectual 知性のリズム』の3つのリズムに支配されている。それらはP=23日、S=28日、I=33日と、少しずつ周期がずれており、その微妙なずれの影響で、人間にいろんなことが起こるんだそうです。
いつ頃であったか、このバイオリズムが大流行したことがあります。近ごろ流行らなくなったということは、あまりアテにならないということなんでしょうが、試しに今日の私のバイオリズムをサイトで調べてみました。そうしたら、I=知性がもう少しでピークを迎えるところ、P=身体がほぼ真ん中(転換期)、S=感情が最低に近い位置であることがわかりました。頭はよく働いているにも関わらず、感情はサイテーであるということでしょうか。
ウ~ム。なんとなく心当たりがあるような・・・。
どのリズムでも、転換期を迎える日が最もアブナイのだそうで、そう言えばP=身体のリズムがぴったり転換期を迎えた昨日は、昼からお腹の具合が悪くなって困りました。これも、なんだか当たっているような・・・。
まあ、こんなことが気になっているようではいけません。たまたま先ほどある方から、ポジティブ心理学のサイトのURLを教えていただきました。これを実践すると年収が増えるんですって。早速これから読むことにいたしましょう。〈kimi〉

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