君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

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ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

カテゴリー:「広報」の記事

新しい生活様式

2020.05.22


いま、私たちは生活習慣の、あるいは文化の歴史的な転換点に立っているのかもしれません。
人との間隔はできるだけ空けろだの、家に帰ったらシャワーを浴びろだのというお上のお達しのことではありません。
電話が黒電話から携帯、スマホと変わっても、私たちの第一声はいまも「モシモシ」です。ネット上の情報によれば1890年に日本で電話が開通したとき、「申し上げます」の「申し」が略されたことによるとのこと。英語のHello!に代わるものとして定着したらしい。
この2~3ヶ月、ネット会議だとかWEB会議がにわかに盛んになりました。少々ややこしい手順の末、モニターの画面に相手の顔が表示されたとき、さすがに「モシモシ」という人はいません。電話に似たようなものですが、相手の顔が確認できて表情がうかがえるとき、日本人は「モシモシ」を言わないのかもしれません。英語圏の人たちはWEB会議でも当たり前に「Hello!」と発しているでしょうから、これは日本独得の現象なのに違いありません。新発見ではないでしょうか。
その代り手を振る人が多い。「私はちゃんとここにいますよ」。会議ソフトの設定をちょっと誤ったりすると音声が届かなかったりしますから、これは有効なジェスチャーと言えます。
さらに、終わって会議から退出ときに手を振る人はずっと多い。「さようなら」、「バ~イ!」。
これって、新しい生活様式ではないでしょうか。それが生まれ、定着しつつある瞬間にいま私たちが立ち会っている。しかも世界共通のようなのです。これを歴史的な転換点と言わずして何としよう?

広報という人文知を軽んじるな

2020.04.27


4月26日付朝日新聞に掲載された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授による寄稿「人文知を軽んじた失政」を読んで、ハタと膝を打ちました。
一部を抜粋します。
「これまで私たちは政治家や経済人から『人文学の貢献は何か見えにくい』と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。」
まさにその通り。
しかし、私が膝を打ったのは、もう少し下世話なレベルで思い当たるところがあったからです。
長く広報の仕事をしてきた中で、何度も何度も「この広報企画が業績にどのように貢献するのかわからない」と言われてきました。説教も受けました。
いまこそ言い返したい。
あなたたちは長い時間でものを考えていない。かすかな兆候から重要なエビデンスを見出すことができず、いつ直面するかわからぬクライシスに対する緊張感に欠け、教条主義、官僚主義的にしか人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てませんよ。
言いたかったなあ、あのとき、このとき、そのように。

記事はこちら>https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456624.html?iref=pc_ss_date

これは台本です

2020.03.02

記者会見の想定問答集(Q&A)というものをこれまで何回書いて来たことか。企業に籍を置いていた頃は、記者会見や企業説明会のたびに毎回50~100近くの質問を想定し、それぞれの回答を書き上げていました。次に、関係部署に回覧して意見を聞いた上で修正を施し、最後に会見者自身が自分の言いたい内容を加筆修正して仕上げるするというプロセスです。
回答の書き方には2つの流派があるようです。回答事項を箇条書きにして、それを参考にしながら会見者が自分の言葉で発言する方法。もう一つは、回答者が読めばそのまま発言になるように、いわばセリフのように書く方法です。私は後者で作成していました。こちらの難しさは、できるだけ文章語ではなく語り言葉にするところにあります。それが原稿棒読み調を防止するのに役立ちます。もう一つは、発言者の日常の語り口調に合わせることです。発言者の好む言い回しなどを十分に把握しておかないとこれは不可能です。
広報コンサルタントとしては、回答を作成するのはクライアントサイドの仕事ですから、記者から出て来そうな質問を考えることが中心です。実際に9割ほど的中したことがありますが(エヘン)、これはクライアントサイドでは少々難しい作業となるようです。会社として答えにくい質問や発言者(社長や上級幹部)がいやがる質問は社内から出しにくいのです。そこに広報コンサルタントの存在意義があります。
さて、そこで先般29日の総理の記者会見です。
複数の報道によると、内閣記者会から質問をあらかじめ提出させて回答原稿を作成し、それを読んでおられたようです。その原稿は想定問答集ではありません。想定する必要がないのですから。これを日本語では台本と呼ぶのではないでしょうか。しかし、それを読む人を役者と呼んでは本物の役者さんに失礼になりそうです。

それもアリですが・・・

2020.02.14


昨年末、ひょんなことから2泊3日の緊急入院生活を送ることになってしまい、所在ないので病室のテレビでM-1グランプリを見ていました。サンドウィッチマンが優勝した年以来です。こちらの体調もあってか、優勝者のミルクボーイの漫才が特段面白いとも感じませんでしたが、これでもかこれでもかとコーンフレークをいじり倒すネタに、メーカーはどう対応するのかに興味を惹かれました。メーカーにとっては必ずしもポジティブに受け取れないツッコミばかりですから。
その対応について2月8日、毎日新聞が報じていました。日本ケロッグのブランドマネージャーがネタの一つ一つに回答したそうです。たとえば、「晩飯でコーンフレークが出てきたら、ちゃぶ台ひっくり返すもん」 に対しては、「実際においしさを知ってもらえたと思いますので、ひっくり返さないでもらえるとうれしいです」。「回るテーブルの上に置いて回したら全部飛び散るよ」に対しては、「想像してみたのですが、確かに勢いよく回すと飛び散りますね。普通に回してください」というように。
広報的な対応としては、なかなかお上手だと思います。ただ、「1月末にはミルクボーイが同社の公式応援サポーターに就任。就任イベントでコーンフレークネタを一部修正した限定バージョンで披露した。日本ケロッグはCM制作も検討している」というのには、少々違和感を感じます。敵を抱き込んでしまう戦略で、それもアリかもしれませんが、そういうことができるのは大きな資本力を持つ大企業だけです。決して広報の王道ではないと考えますが、どうでしょう。

ただし、です。

2020.02.03


雑誌「選択」の新聞広告に「危機管理『PR会社』が大繁盛」と出ていました。隣の芝生は青く見えます。
こちらは前向きな広報のお手伝いをメインにしていますが、長年の経験を買われて危機に直面した企業さんから支援を要請されることもあります。大騒ぎに巻き込まれた会社としては、社員だけでは心もとない、外部の目によるアドバイスがほしいとお考えになるのでしょう。そのような発想をする会社は、もうそれだけである程度は危機のトンネルの向こうに光が見えていると言えるかもしれません。
と、エラそうに書いてしまいましたが、「広報コンサルタントによって危機から見事に脱出」なんてことは金輪際あり得ません。ホンの少しよい方向に舵を切るお手伝いができるかなといったところです。それでも結果に大きな差となって出てくるケースが少なくありません。
ただし、です。私たちのアドバイスに会社が謙虚に耳を傾けていただければというのが前提です。
それぞれの業界でリーディングカンパニーになっている企業は殿様です。自覚はないかもしれませんが、周囲を睥睨しながらバリバリ中央突破した成功経験を積み重ねています。そういう企業ほど、他の意見を聞く耳を持ちません。医師免許も弁護士免許も調理師免許も持っていない(中型運転免許は持ってます)広報コンサルタントのアドバイスなど、業者のセールストークくらいにしか認識しないようです。危機に直面しながらも、「自分たちが求めること仕事だけをやってくれればいいよ」ということになりがちです。それでは広報コンサルタントの仕事はよい結果を残せません。そういう基本的理解ができない会社の仕事はできればご遠慮申し上げたい。
ただし、です。目の前に札束を積み上げていただければ、翻意するにやぶさかではございません。

放っておいてよいものか?

2020.01.22


かつて大騒動になったWELQ問題以来、ネット上の医療情報に関しては非科学的な情報が少なくなったようです。Google検索では上位に比較的まともな情報が上がってきます。そのようなアルゴリズムに改善されたそうですが、それでも眉唾ものの情報がなくなったわけではありません。
世の中には科学的な事実よりも反科学主義的な考え方を好む人たちもいて、そのような人たちは吸い込まれるようにおかしな情報にリーチしてしまうようです。自分だけが信じるなら、それはご自由ですが、さらにSNSなどで拡散しようとするのを見ることも少なくありません。
そのときどうするのがよいのか、少々迷うことがあります。こちらは医師でも研究者でもありませんので、頭に蓄えている情報はすべて伝聞情報にすぎません。自分の知識が絶対正しいという自信はまったくありません。それでも、あまりにもおかしな情報を、それも知人が信じ込んで拡散しているのを見たりすると、これを放っておいてよいのかと迷ってしまいます。コメントに「これはフェイクですよ」などと書き込めば、人間関係には好ましい影響を与えません。が、SNSは半ば公共的なメディアですから、その投稿を読んで信じ込む人がほかにも出てくるかもしれません。
こんなことで、自らの倫理感を試されることになるとは・・・。

新年のご挨拶とさせていただきます

2020.01.06


あけましておめでとうございます。
今日から仕事始めということで、メールも電話も少ないので業界各紙の1月1日号をパラパラめくっております。
恒例の、というべきか、毎年変わり映えもせず、というべきか、役所の幹部やら業界団体のトップやらの年頭所感がいくつも掲載されています。はっきり申し上げて、ほとんど読む価値がありません。
思い起こせば筆者もかつて年頭所感のゴーストライターをつとめた経験が少なからずあります。執筆のコツは、その時々のトピックスを散りばめること、厳しさを強調しつつも期待感を表明すること、署名筆者の個性をほんの少し臭わせること、そして何はともあれ無難な内容にすることなのです。読み手の参考になったり、役に立ったりする内容を提供しようなどとは少しも考えません。故に、読む価値がないのです。
仕事柄、それらを承知の上で斜め読みしましたが、7割方の結びの言葉が、「・・・を持ちまして、新年のご挨拶といたします」とか「新春の挨拶に代えさせていただきます」という紋切り型で終わっていることに、いまさらながらうんざりさせられました。これから各所で開催される賀詞交歓会でも「業界のご発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます」が締めの言葉になります。まあ、目くじらを立てるほどのことでもありませんが、こんな言葉を読んだり聞いたりするたびに、年が明けても世の中変わらないなあ、と思うのであります。

「いいね」はもういいね

2019.12.13

FacebookやTwitterなどへの投稿に対する「いいね」について、心理学やら社会学やら民俗学やら、ネットでいくつかの考察を読んでみましたが、どれが「いいね」なんだか「よくないね」なんだかよくわかりませんでした。「いいね」が多いとうれしいのは承認欲求が満たされるから、という説には納得できますが、若い人たちは「いいね」をつけるかどうかですべての事象を判断している、みたいな極論には「いいね」をつけかねます。それほどのものかどうか・・・。
Facebookなどに投稿すると、何でもかんでも「いいね」をつけてくる人がいます。知り合いの投稿には、中身を読まずとも「いいね」をつけるのが礼儀と心得ておられるようです。「読みました」というお印といった意味合いもあるでしょう。一方で、まったく「いいね」を送って来ない人もいます。何万というフォロワーを持つタレントさんや有名人なら理解できますが、そうでない人たちの場合はどういうことなのか? 威張っている、見下している、ばかにしている、まあそんなところでしょう。こちらは、ときどき「いいね」しているというのに・・・。どちらにしても「いいね」がうざったいことには変りありません。SNSにも少々飽きてきました。世の中でもいまがSNSのピークである、と大胆に予言しておきましょうか。

アジア的な

2019.10.04

脱亜入欧。いまとなっては胡散臭いスローガンですが、明治の頃はみんな「そうだ、そうだ」と燃えていたのではないかしら。時代が下って、戦後の日本では「アジア的」という表現がネガティブなニュアンスで使われていました。日本は欧米型の民主国家であるという前提で、アジア諸国における非民主的な政治体制や、袖の下がなければ何事も進まない社会を上から目線で軽蔑するニュアンスの「アジア的」だったように思います。
ところがどうです。いまとなっては日本こそが典型的にアジア的な国家であることが、あちらこちらで露見しつつあります。「民主的」なのは外形だけで、極めてアジア的な政治運営がまかり通り、選挙結果は国民がそれらを是認しているかのようです。億という単位の袖の下をもらった電力会社の経営者が平然と記者会見に応じているのもまた、アジア的奇観と言えるでしょう。
一方で、日本が範をとってきた欧米諸国の方も少々怪しくなってきました。袖の下が堂々とまかり通るほどには堕落していないかもしれませんが、独裁国家への願望が膨らんだりしぼんだりしています。
おっと、こんな偉そうなことを書くつもりではありませんでした。関西電力の記者会見を見て、これをサポートしているだろう広報コンサルタント氏に同情しているということを書こうとしたのでした。
あるジャーナリストがSNSに「このケースは非があまりに明々白々で、会見の場で関電経営陣を辞めさせなければならなかった」と書いていました。私も同意見ですが、このような会見で会社側へのアドバイスを頼まれたらどうするか。広報コンサルタントは弁護士ではありませんから、限りなくブラックな事例をカバーする理由はありません。莫大な金額を提示されたらグラグラ来るでしょうが、それを受ければ一蓮托生となってしまいます。ま、広報コンサルにびっくりするほどの金額を提示する会社もないでしょうし、実際に頼まれてもいないのですから私が悩む必要はありませんが。

実用文も文学も

2019.08.19

8月17日付の朝日新聞「天声人語」を読んで、初めて高校の国語で「文学」が選択科目になることを知りました。代わりに実用文として行政のガイドラインや駐車場の契約書が出てくるのだとか。
行政のガイドラインが実用文の模範例かどうか大いに疑問ですが、これまで日本の国語教育において実用文が不当なくらい軽んじられてきたことを考えると、これは悪いことではありません。企業にいた頃、主任や課長への昇進試験の「小論文」をたくさん読まされましたが、9割ほどは日本文を書く基礎がまるでできていませんでした。しっかりした文章が書けるような教育はとても重要です。欧米ではすべての課目のベースとしてwritingやécritureが重んじられていると聞きます。問題はそれを教えられる先生がいるのかどうか、ですが。
蛇足ながら、実用文の一典型はプレスリリースではないかと考えています。ぜひプレスリリースを書く練習をしてほしい。間違いなく有益です。
一方で、文学を選択科目にするという暴挙には絶対反対です。先日、某放送局の敏腕ディレクター氏が米国へ取材旅行に行くに当たり持参する5~6冊の本をSNSで公開しているのを見ました。その中に小説は一冊もありませんでした。「勉強熱心」なのは結構ですが、この方の10年後を思うと、かなり残念な気がしたのであります。

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