Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

腹話術と交通安全運動の関係

2023.10.05


毎年春秋に交通安全運動というものが行われます。内閣府によりますと「広く国民に交通安全思想の普及・浸透を図り,交通ルールの遵守と正しい交通マナーの実践を習慣付けるとともに,国民自身による道路交通環境の改善に向けた取組を推進することにより,交通事故防止の徹底を図ることを目的とする」ものだそうです。
2021年の筑波大学の調査では、運動の実施月の交通事故死者数は他月より2.5%少なかったそうですが、お役所もちゃんと効果検証をしているのでしょうか。
交通安全運動が始まると、街角にテントが設けられ折りたたみ椅子に誰やらが座っています。知り合いが、商店街振興組合の依頼で先日そのテントに詰めたそうです。高齢の女性が3人立ち寄られたので、サービス品のティッシュペーパーをお渡ししただけで、あとはただ座っているだけだったと言っていました。
テレビのローカルニュースが報じるところでは、交通安全週間中にはしばしば「一日署長」というものが任命されるようです。売れない(失礼!)タレントさんに警官の制服を着せタスキをつけてパレードしたりする。テレビに取り上げられれば、それなりに効果があったとなるのでしょうね、きっと。
それよりさらに不思議に思うことがあります。これもテレビニュースによりますと、交通安全のイベントにはしばしば所轄署の警察官が腹話術で交通安全をアピールするらしい。近年、腹話術を見る機会はほとんどありません。そう言えば半世紀前にも小学校で見たような気もします。上のイラストはあるフリーサイトにあったものです。「腹話術」と検索したらこのイラストがヒットしました。腹話術=交通安全は社会的認知を得ているようです。
なんとなく前例踏襲、惰性の臭いがします。伝統を受け継ぐのも大切かとは思いますが、少しは見直しをしたり新しいことも考えてみたらいかがですかと言いたい。

記者会見の向こう側はわからない

2023.09.13


ビッグモーター、日大、ジャニーズ事務所と、このところ広報の仕事をしている者には興味深い記者会見が続きました。にもかかわらずこのコラムでは、それらについて触れずにきました。
その主な理由は、
1)指摘すべき事項はすでにメディアやネットや「識者」によってほぼ語りつくされているように見える
2)会見のすべてをライブでも録画でも見ていない
3)事件関係の詳細をすべて把握していない
からですが、もう一つ大きな理由があります。
それは当事者の組織内で、それぞれの事案への対処や記者会見への対応などがどのようになされてきたのかがわからないということです。
「わかないから記者会見で追究しているのだ」とメディアのみなさんはお考えになるでしょうが、実際に問題を抱えた当事者を広報的にサポートしてみると、〈そのようなスタンスで答えるしかない〉と判断せざるを得ないケースにしばしば遭遇します。ところが、〈なぜそのように答えるしかないのか〉という理由は会見で説明できる場合とできない場合があります。
いずれにしてもこれはご気楽に判断しているわけではありません。当事者は困惑したり悩んだり逡巡した上で判断を下すのが通常です。組織内でどのような人物たちによってどのようなやりとりが行われたのか、それらを記者席から知ることは、どれほど鋭く追究しようとも不可能です。それは当事者側と記者側双方の立場から記者会見を見て来た者にしかわからないことだろうと思います。安易にコメントできない理由はそこにあります。

この8月に新潮文庫から「山は輝いていた」というタイトルの一冊が発刊されました。山をテーマにした名エッセイを「山と渓谷」の元編集長がまとめたアンソロジーです。
それを読んでいたら、「深田久弥氏のこと」と題する一篇がありました。筆者は藤島敏男さん。東大法学部から日本銀行に入りパリなどにも駐在されたと略歴にありました。登山家でもあって、「日本百名山」で知られる作家が南アルプスを登山中、脳出血で急死したときに同行しており、そのときの状況が滋味あふれる文章で綴られていました。ジャニーズ事務所元社長藤島ジュリー景子氏はこの方の孫なのだそうです。

カタイ人

2023.08.28


そろそろ高校の同期会をやろうじないかと幹事として十数名が呼び集められました。
卒業生名簿の確認・再整理から当日の段取りまで、もろもろを決めなければなりませんが、そのような事務的な話はほんの十数分で終わってしまい、あとは焼酎で酔っ払う宴会になってしまいました。
肝心の打合せが簡単にすんでしまうのは、隅の方に坐っている一人の男の存在があるからです。
彼は幹事代表でも元生徒会会長でもありません。一幹事に過ぎませんが名簿の作成から出欠メールや往復はがきの文案まで、すべて彼の手によって事前に用意されています。それを見て「まあ、こんなところでいいんじゃないの?」と、あっという間にすませてしまうのです。
宴会に移ると彼はみんなの話の輪にほとんど加わりません。ウケル話も冗談の一つも言うことなく後景へと退いてしまいます。
この種の人物がどこの会社でも団体でもあらゆる組織に存在します。しかも多数派です。彼らは完璧なスケジュール管理や在庫管理などをなし遂げます。文書を作成させても誤字脱字がありません。一方で原理原則にはうるさい。前例を尊重したがる。細かい。整合性にこだわる。斬新な提案には抵抗を示します。クリエイティビティは一般に乏しい。しかし、命じられれば着実に遂行する。規則が変更されればそれを忠実に順守する。一旦前例ができてしまえばその後は何事もなかったようにそれを実行します。
こういう人たちは往々にしてアタマがカタイと評価されます。これは一種の悪口でもあって、時として「アタマがワルイ」の言い換えであったりします。実直ではあるけれどリーダーにはなりにくい。しかし、組織も社会もそのような大多数の人たちによって下支えされています。彼らがいなければ世の中回りません。
個人的にはこういう人種は少々苦手なんですが、こういう人たちのことをエスタブリッシュとかエリートとか上級国民とか呼ばれている人たちはいま一度思い出してほしいとも思うんです。だって彼ら多数派がいるから、その上にあぐらをかいていられるんですから。

土産話はお好き?

2023.08.22


今年の旧盆や夏休みは台風にたたられましたが、それでも旅行をした人は増加したそうです。テレビのワイドショーで、あなたはお土産を買いますか、買いませんかというインタビューをしていました。どちらが多かったか忘れてしまいましたが、番組としては「土産話」が一番よいお土産でしょう、と四方八方丸くおさめていました。

このところ知人が北欧をクルーズ旅行した話をSNSにさかんに投稿しています。豪華クルーズ船の内部の紹介から美しい観光地で感動した話、旅行者があまり行かない土地での出来事などを写真つきで紹介しています。さぞ楽しかっただろうと思いますが、それを読まされるこちらは・・・それほどでもありません。
SNSなら読まなければすむのですが、ときどき自分の旅行記をまとめた冊子を送ってくださる方もおられて、その処理に頭を悩ますこともあります。
沢木耕太郎の「深夜特急」や高野秀行の「南西シルクロードは密林に消える」など、書籍となっている旅行記は大好きなんですが、あれは才能とスキルを持つプロが書いたもの。素人の紀行文ってやつはどうもいけません。
顔中に感動を漲らせての土産話も同様で、「あんたが行ったことのないところに行ってきたんだ」とか「こんなこと、行った人しかわからないでしょう」といった優越感がそこはかとなくまとわりついています。その上から目線が不快感を呼び起こします。エッフェル塔の前でバンザイしている写真などその最たるもの。
なにを僻んでいるんだと言われそうですが、その通りです。こちらは大いに羨ましくて、それで不愉快になってくるんですよね。

記念日報道

2023.07.28


間もなくやってくる8月6日は広島、8月9日は長崎に原爆が投下された日。
8月15日は第二次世界大戦で日本が敗戦した日。
ここしばらくは新聞、テレビで原爆や戦争の特集が連続して組まれます。ウクライナでの戦争も続いているので、今年も企画が目白押しとなるでしょう。これを「8月ジャーナリズム」とか呼ぶそうです。
月が変わって9月1日は関東大震災が起こった日。今年はちょうど100年目だそうで、南海トラフ地震も高い確率で起こりそうという昨今、大々的にキャンペーンが組まれそうです。
記憶を風化させてはいけない。誠にごもっともで異論はいささかもありません。しかし、これからも大災害や大事件は起こります。「記念日」は次々生まれてきて積み重ねられて行きます。
するとメディアは、それらの特集や特別企画を組まなければならないことになります。記者さんたちはその取材に追われます。記者の数を減らしている中で、その取材時間を確保するには何かを削減しなければなりません。
そこで削られるのは何ですか?
たぶんいまの世界や日本で起こっていること、これから起こりそうなことを発見し、掘り起こし、調査する報道が削られることになるのでしょう。
記念日報道だって、そこから新たな教訓が導き出せるし未来への警告にもつながるのだ、という反論もあり得るでしょう。
しかし記念日報道は、あらかじめテーマを与えられた報道です。その災害や事件のこぼれ話を探し出して記事や番組を作ればカッコはつきます。一面では安易なやり方と言ってよいのではないでしょうか。
記念日ばかりでなく、高校野球やノーベル賞の季節も同様に記者さんはそれらに動員されて、他の出来事にまで手が回らなくなります。
メディアの衰退が論じられるいま、一度考え直してもよいのではないでしょうか。

ここに書いてあったのかあ

2023.07.06


今日7月6日付朝日新聞の「声」欄に「『させていただく』違和感あり」というタイトルの投書が掲載されていました。
「させていただく」表現に違和感というか、抵抗感を抱く方が高齢者を中心に多いような気がします。かく言う私もそうでした。
ところが、あるときからさしたる抵抗感がなくなって使い始めました。そのきっかけは司馬遼太郎が「この語法は浄土真宗の教義上から出たもの」と書いているのを読んだからでした。
ところが、それが作家の膨大な著作のどこに書いてあったのか、すっかり忘れてしまいました。どこだったかなあと、著書を何冊かめくってみても見つからず、サイト検索してもヒットせず、あきらめていたら偶然1ヶ月ほど前、それを再発見したところだったのです。
朝日文庫「街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩」p.11~12。
司馬は言います。
「真宗においては、すべて阿弥陀如来-他力-によって生かしていただいている。(中略)この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。『お蔭』が成立し、『お蔭』という観念があればこそ、『地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました』などと言う。(中略)この語法は、とくに昭和になってから東京に浸透したように思える」
そういうことなのか。それなら使ってもいいかな、などと極めて非論理的ではありますが、考えたのでした。
ちなみにわが家の菩提寺は禅宗、曹洞宗なんですが。

この年で?

2023.04.26


にわかに思い立って、アスレチッククラブに入会しました。
この年で?と高校の同級生に訝しがられましたが、そうです、この年にしてなのです。
一昨年の暮れから自宅で軽い筋トレを始めました。体力の衰えを自覚したということもありますが、健康診断のたびにドクターから「なんだかんだ」とご注意を受けるからでもあります。「なんだかんだ」は言われるものの治療はなしです。それほどではない。その代わり運動をしなさいとしつこく忠告されます。
ブルワーカーⅡという筋トレ道具、何十年か前、PLAYBOY誌などに広告が出ていました。これを使えば誰でもムキムキのキン肉マン(当時はマッチョという単語は使われていなかったはず)になれると思わせてくれました。しかも秘かに部屋の中でトレーニングできる。実に魅力的です。貧相な肉体の持ち主として、恥ずかしながらムキムキを夢見て購入したものの、ほとんど使わないまま押入の奥に放り込んでいたのを引っ張り出しました。ビニール製のケースには穴が開いていましたが本体は新品同様。説明書もありました。
さらにAmazonに鉄アレイを二つ注文しました。最近の鉄アレイは表面がソフトに加工されていてとても感触がよろしい。これも家捜しをすれば立派なダンベルがあるはずなのですが、探すのが面倒くさい。
この二つの器具を使って、週に4~6回筋トレを行って1年半。力を入れてもふにゃふにゃだった二の腕にささやかながら力こぶができてきました。
となるとさらに負荷を高めたい。もっと重い鉄アレイを購入しようかとも考えましたが、アスレチッククラブのマシンを使った方がより効果的かもと思い至りました。
入会して驚きました。「この年で?」どころではありません。トレーニングに励んでいるのは高齢者ばかりではありませんか。背中が屈曲した高齢のご婦人が静々とエアロバイクに歩み寄り、慎重にセッティングをしてこぎ出します。同年代と思われる男性が猛烈な勢いでランニングマシン上を疾走しています。どこを見回しても若者も壮年もいません。平日だからでしょうか。いやいや、いまや土日でもアスレチッククラブは高齢者で満ちているのだそうです(平日会員だから土日の様子は見たことない)。どおりで入会申込みをするときも、係の女性がごくごくあたりまえに対応してくれたわけです。
知らないところで世の中って変化しているんだなあ。

ロバートさんのルール

2023.03.01


昨年の4月から仰せつかっていた分譲住宅管理組合の理事職も今月一杯で任期満了となります。ほっとする前に「総会」というものがあります。理事長=管理者ではないただの並び大名ながら、何もしないでいるわけにも行きません。
管理組合の総会は株式会社の株主総会にあたるもの。執行部たる理事会としては、議案は粛々と可決されなければなりません。ところが株主総会同様、いやそれ以上に何やかやとご意見やらクレームやら自己アピールやらが表明されて紛糾することが少なくありません。にも関わらず今回の議案は13もあるのです。とても1~2時間では終わりそうもありません。
それなら13議案を一括して採決してしまったらどうか、などという意見も出て来ました。
ちょっと待って。それはまずいでしょう、と申し上げて、突然思い出したのがロバートのルールです。オフィスの本棚に英語版があったなあ、と。
ご存じのように米国連邦議会の規則をもとにロバートさんという軍人さんがまとめたもの。民主主義の基本ルールと言われ、どこの会議でも概ねこれに基づいたルールで運営されているはずですが、その存在を知っている人は少ないという不思議なルールです。
それによれば、議案は一つひとつ採決されなければなりません。一括採決なんて乱暴なことをしてはいけません。
ちなみにロバートのルールの日本語訳は絶版で、ネットで調べたら8万円とか10万円の値がついていました。必要とする人は確実にいるということでしょう。民主主義の危機が叫ばれているいま、新訳が出版されるとよいと思うのですが、売れないのかなあ。それこそ民主主義の危機の象徴ですね。

見えていなかった

2023.02.13


「見えているようで見えていない。」
二人称の主語を加えると、「キミは見えているようで何も見えていない」と年寄りのお説教になってしまいますが、実際にそういうことってあるんですね。
なんとなく感じてはいたのですが、やはりおかしいと意識したのはほんの数ヶ月前のこと。昼間の明るいリビングでは、自宅のテレビがよく見えないのです。カーテンを引くといくらか改善するものの、コントラストの低い夕方の場面などは何が何だか見分けがつきにくい。自分の目のせいかとも思ったのですが、よくよく画面を観察してみると上部が少し暗く、下の方が明るく見えます。チューナーは内蔵していないものの4K対応というこの液晶テレビを購入して5年あまり。故障するにはちと早すぎます。
しかし、こりゃだめかもしれないと意を決して大型家電店へ向かったのでした。
いや驚きました。実に鮮明。とくに青が鮮やか。見慣れたニュースショーのスタジオが、まったく違った景色に見えます。女性アナウンサーの目の下に灰色のカゲがあるのにも初めて気がつきました。
見えているようで見えていなかった。
近所の歯医者さんの建物の壁を家人は「きたない色だなあ」と思っていたそうです。白内障の手術をしたら、それがきれいなレモンイエローに塗られていることに初めて気づいたと言っていました。編集者をしていた友人は、色校正を見て印刷所にあれこれ指示を出していましたが、白内障の手術をしたら・・・そんな雑誌を買わされた方は、見たくても正しい色を見せてもらえなかったことになります。
気づかぬところで、このようなことはいろいろあるのだろうなあ、と思いながら毎日有機ELの画像を眺めております。

第五福竜丸を覚えていますか?

2023.01.13


一度は実物や現地を見てみたいと思いながら、いつか長い年月がたってしまうということがあります。江東区の夢の島公園に保存されている第五福竜丸(福龍丸)がその一つでした。
いまや世の中からすっかり忘れられてしまっていますが、米国が南太平洋で盛んに原爆や水爆の実験をやっていた頃、近くの海域で操業していたマグロ漁船の第五福竜丸に放射能を含んだ灰が降りかかり、乗組員が放射線被害を受けました。そのお一人は数ヶ月後に亡くなり日本中が大騒ぎになりました。
と書いても、それは1954年のこと。まだ幼児だったのでリアルタイムでよく理解できたはずもありません。雨に放射能が含まれていて濡れるとハゲるぞなどと真剣に心配していただけです。なのになぜか第五福竜丸が焼津港に帰ってきたシーンなどが記憶に残っています。まだ家にテレビはありません。どうして覚えていたのだろうと思いを巡らせて、思い至ったのはニュース映画です。当時は映画館に行くと、お目当ての映画の前や二本立ての間にニュース映画を上映していたのです。
話を戻すと、第五福竜丸はその後、紆余曲折を経て東京のゴミ捨て場であった「夢の島」に廃棄されました。それを東京都が展示館を建てて保存しました。1976年のことだそう。美濃部都知事の時代ですね。
50年近く経ちますが展示館は十分メンテナンスされていて、その日は休日のためか見学者が10人以上いました。小さいお子さんを連れた夫婦なども見かけました。時代は変わっても世の中から忘れられても、よくぞこれまでしっかり保存してきたものです。
それにしてもこんな小さな木造船でよく南太平洋まで行ったものだと、それにも驚きました。
実物を見ないとわからないことって、たくさんあるものですね。

寝正月で思ったこと

2023.01.05


最近めっきり弱くなったためか、お屠蘇代わりの日本酒の1合あまりでよい気持に酔っ払ってしまいました。三が日にはなんの予定もなく来客もなく、酔眼を空中に漂わせ、ただただ所在なく過ごしていましたが、新年だから何か新しいことが始まるとか、期待するものがあるとか、何かを始めようということもありません。
それは日本が衰退し始めているためか、ロシアが戦争を仕掛けているためか、中国が独断的な政策を推し進めているためか、いやいや単にこちらが年齢を重ねたためなのでしょう。
ぼんやりテレビを見たり新聞を読んだりソーシャルメディアを眺めていたりしていると、心配になるのはメディアの衰退です。
正月のテレビ特別番組は、いつになったらステレオタイプから脱皮するのでしょう。タレントの大騒ぎやら、通常の番組を薄めに薄めて尺を延ばしたスペシャルやら、とても見る気にはなりませんでした。NHKもニュースを含めて徳川家康がらみの企画ばかり。そんなにまでして大河ドラマを見せたいんか。
ステレオタイプの企画や家康がらみのコンテンツを作っている方が独創的な番組を創るよりずっとお手軽なのでしょう。そうして、テレビはますます視聴者を失って行くのでしょう。
元旦の分厚い新聞も毎年同工異曲の企画で読む意欲がわきませんでした。
ソーシャルメディアに投稿する「友達」も年々少なくなって、広告だけがずらずらと表示されます。
できればメディアに批判的なことは申し上げたくありません。しかしメディアが多くの人たちの支持を失ってしまえば、私たちの広報の仕事も成り立ちません。
既存のメディアに頼らない広報の方法を多くの広報のプロたちが模索しています。残念ながらいまのところ、これはという方法論を確立したという話は耳にしていません。
いましばらくメディアにはがんばってもらわなければならないのです。
現状のまま、また1年が経過してしまえば、また「なんだかなあ」とため息をもらしながら、年末を迎えなければならないことになってしまいます。

ある読書家への返信

2022.12.08


○○○○○様

メール、ありがとうございました。
お読みになったという山崎努さんの「柔らかな犀の角―山崎努の読書日記」は、たしかに面白そうですね。この夏に連載されていた日経新聞「私の履歴書」もとんでもなく面白かった。彼は天性の文章書きですね。
さて、こちらは先週の金曜日から熱を出しまして、翌日には38度を超えました。これはやられたなと思いましたが、PCR検査が陰性ということでコロナではありませんでした。それでも二日ほど病臥していました。その間に読んでいたのは、最近文庫本になった池井戸潤さんの「ノーサイド・ゲーム」です。
ビジネスマンが低迷するラグビー部の再建を任されるというストーリーと広告にありました。あの作家の小説はどれも面白く、長く会社勤めを経験した人間にはリアリティが半端ないのですが、一方で、読む前になんとなく筋立てが想像できるようでもあり、スルーすることも少なくありませんでした。
ただ、この小説の主人公が君嶋という名前なのです。「島」の字が旧字の「嶋」であるところが、私と異なっていますが、キミシマには違いありません。
実際に読んでみると、半沢直樹の焼き直しみたいなシーンがあったりして、そのあたりは予想通りでした。そこに例によって、主人公が取締役会で対決する場面が出てきます。そして敵対する役員から
「・・・・・、君嶋!」
などと叱責されます。小説中の会話であっても、「キミシマ!」と名指しされるのを読むたびに、自分が怒鳴られたかのようにドキッとしまうのです。キミシマという苗字が比較的少なく、これまで同姓の方と遭遇する機会が少なかったという事情もあります。しかし、かつて勤め先の取締役会で報告などをしたときの情景や緊張が反射的に蘇ってくるようなのです。勤め先の会社では呼び捨てにされることはありませんでしたが、説教のような厳しいご意見をいただいた経験は何度もあります。それがトラウマになって意識の底に沈殿しているようです。
フランスの詩人ギヨーム・アポリネールは、第一次世界大戦の終結を喜ぶ群衆の「くたばれ、ギヨーム!」という叫びを死の床で聞いて、自分が罵倒されていると思い込んでしまったと伝えられます。群衆が叫んでいた「ギヨーム」とは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世のフランス風の呼び名だそうです。
名前って思いのほか自意識と深く結びついているのですね。


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「ございます」の使い方でございますが・・・

2022.11.04


お役所独得の言葉遣いについては、これまで多くの識者によって種々論じられていますから、いまさら書く意味もないのですが、どうにも気色悪い言い回しがこのところ気になって仕方ありません。それは、
「ございます」
の使い方です。
辞書によれば「ある」の丁寧語だそうで、日常的にごく普通に使われていますし、使ってもいます。たとえば、
「これはほんの気持です」を「これはほんの気持でございます」と丁寧に言いかえて不自然なことは何もありません。
「いま検討しています」を少し丁寧に「いま検討しております」と言いかえても自然に聞こえます。
ところがですよ、「いま検討してございます」と言うのは、ちょいと気色悪くありませんか?
このような表現は役所にお勤めのみなさんが頻用しておられるようですが、いくら「ございます」が「ある」の丁寧語だからといって、無闇に置き換えてよいというものじゃないと思うのですが、いかがでしょう。
「・・・と認識しております」で十分なのに、「・・・と認識してございます」とか。例を挙げればどんどん出てきます。
役所ばかりではありません。数日前、電力会社による値上げの記者会見をニュースで見ていたら、
「・・・検討させていただきたいというふうに考えてございます」
だって。
お役所気質なんだなあ、やっぱり電力会社は。

「なぜこれをくださるのですか」

2022.10.13


学校を出てからずっと会社勤め。自分で会社を興しても会社勤めには違いありません。カッコよく言えば“ビジネス社会で生きて来た”ということになりますが、そういう自覚はありませんでした。
ところが今年、居住地域の活動に引き込まれてしまって、それを思いっきり自覚させられることになりました。
そのモロモロはいずれ書くとして、先日はこどものためのミニ縁日と地域住民の作品展が開催され、作品展の係を命じられました。写真展の経験は何回もあるのでお安い御用です。
店開きをして間もなく、一人の高齢婦人がお越しになりました。そして氏名・住所・電話番号だけが印刷されたシンプルな名刺を差し出されました。こちらは名刺の用意などありません。すると小さなカードを差し出され、ここに住所と名前を書けとおっしゃる。すぐご近所ですから、逃げも隠れもできません。ご要望通りにいたしました。
2、3時間後のこと、その高齢婦人がペットボトルに詰めたお手製のコーヒーを差し入れてくださいました。一口飲んだらその甘いこと甘いこと。
その日の夕方、件の高齢婦人が自宅を訪ねてこられました。お手製の料理を冷凍保存したもの2品お持ちくださったのです。ありがたいことです。なんでも資格をお持ちだとか。何の資格かは聞き漏らしましたが。
何はともあれお気持は誠にありがたいものの・・・。

 

10月9日付毎日新聞のコラム「松尾貴史のちょっと違和感」にこんな記述を見つけました。
「差し入れといえば『なぜこれをくださるのですか』と聞きたくなる物を持ってこられる人もいる。いや、善意をもらっておいて不平があるわけではないのだけれど、もったいないなあと感じることが、ままあるのだ。
ファンの方による手作りの食べ物は、いかに心がこもっている物でも、出演者に届けられることはまずない。もちろん、安全上の問題だけれども、たとえ直接『人柄の良さそうな』方に楽屋口などで手渡されても、それを口にするということはない。」

便りがないのは訃報の代り

2022.09.13


母校が“Home coming day”をやるそうだ、と当時の同級生がバッグから封書を取り出しました。同窓会ですね。ところが、こちらにはそんな郵便物は届いていません。それもそのはず、そこに同封されていた行方不明者リストに私の名前が記載されていました。
40年間も引っ越しをしておらず、その昔は「総長室」なる名刺を持った紳士が勤め先を訪ねてきて、社内同窓会をつくってほしいと要請されたこともあります。もちろんお断りしましたが、そのときは勤務先まで把握していたのに、いまになって行方不明者とはどうしたことでしょう。どこかで意図的に削除されてしまったか・・・それは考え過ぎでしょうが。
同窓生リストに登録するメリットは何もなさそうですが、「行方不明者」というのも気色が悪いので、同級生に学校への連絡をお願いしました。
このところ昔の友人仲間にご機嫌伺いのメールを出しても、返信が戻ってくる確率がかなり低下しました。年賀状は寄こすのにメールに返信しないのは、ITリテラシーが低い高齢者故かもしれませんが、まったく音沙汰ない人はどうしたのでしょう。これも行方不明のようなもの。シカトでしょうか。礼儀知らずなのでしょうか。それとも・・・。
若い人なら「便りがないのおは無事の知らせ」ですが、高齢者では「便りがないのは訃報の代り」です。冷たいようですが、死んじまったのだろうと考えることにしました。合掌。

台風情報の国粋主義

2022.09.02


台風が近づくたびに気になります。
台風の進路予想を伝える報道を見ていると、離島を除く日本本土に「上陸」するかどうかに異常に固執していませんか。台風の上陸とは台風の中心が北海道、本州、九州、四国の海岸に達した場合で、沖縄は台風の上陸とは言わず、通過と言うのだそうです(お天気.com)。これも一種の沖縄差別ですかね。なんだか太平洋戦争末期の状況を思い出してしまいます。沖縄にしてそうなのですから、小笠原諸島や南北大東島は真上に台風の目が来ても「通過」。深刻度が伝わりにくいですよね。
それ以上に理解できないのは、「台風は日本海を進みそうです」となんとなく安心感を漂わせてアナウンスされているテレビ画面を見ると、台湾や韓国が進路の真下にあったります。「台風は大陸方面へ抜けそうです(ホッ)」というのも同様です。
大して雨も降っていない新宿駅南口からの中継などよりも、日本をそれて他国に向かった台風の状況を中継するくらいのことはしてもよいだろうと思います。そのようなところから隣国との共感性も生まれてくるのではないですか。台風ばかりでなく何事も、日本本土に来なければよしという国粋主義はいかがなものかと思います。
(写真はtenki.jp)

肉声、肉筆、自筆原稿

2022.09.01

8月中に日経新聞に連載されていた俳優山崎努さんの「私の履歴書」が終わりました。
2、3回読んだところで、抜群に面白いとSNSを通じて友人知人に触れ回りました。同じように感じた人が多かったようです。
学生時代には戯曲や演劇に興味があったので、劇団雲でも演劇集団 円でも山崎さんの舞台を何回か見ています。しかし、自分で舞台に立ったことがないので、彼が書いている演技の真髄のようなものは残念ながら十分理解できません。
その昔、日経の記者さんだったか友人の日経役員だったかに聞いた記憶では、「私の履歴書」の多くはインタビューをもとに記者が原稿をまとめているが、まれには本人の書いた原稿を掲載するということでした。文章を書き慣れていない素人がこれだけの文字数の原稿を書くのは、どう考えても難しい。ライターを生業にしていた友人は記者が書いたものだろうとの見立てでした。
実際のところはわかりませんが、私は違うと考えます。あのような闊達で自在な語り口、文体は本人にしか書けません。肉声が聞こえてくるようです。新聞記者のみなさんは、破綻のない文章を書くようにトレーニングされていて、かえってそこから抜け出しにくい。
あんなふうに書きたいな、とは思うもののそうは行きません。文章力だけではなく自由な解放された精神が必要なのでしょう。
この「私の履歴書」にも登場した芥川比呂志さんも名文家でした。「決められた以外のせりふ」というエッセイ集はいまも持っています。俳優さんには、名文家が少なくありません。台本を暗記するほど繰り返し読んでいるうちに、トレーニングされるのではないかと推測します。古いところで沢村貞子や高峰秀子、最近では岸恵子。
高峰秀子は、初めはまるきり書けなかったが、週刊朝日の編集長をしていた扇谷正造氏に特訓を受けたのだと聞きました。最近のタレント本はほとんどゴーストライターの代筆なので、ご本人の筆力のほどはわかりません。

一昨日、知り合いから書類を1枚送ってもらいました。その封筒を見て驚きました。
まず、宛名。ワープロで打ってあります。封筒をわざわざプリンターにかけたようです。裏の差出人名は、住所氏名が印刷された小さなシールが貼りつけてあります。そして送り状。ワープロで本文2行のみ。
私も以前は手書きが苦手で、できるだけワープロですませたいと考えていましたので、その気持はわからないではありませんが、それでも自分の署名くらいは手書きで書いていました。あきれると同時にちょっとさびしい気持にもなりました。やはり肉筆、肉声、その人の体温がどこかに感じられないとむなしいなあ。
ちなみに、この文章は自分で書いております。ゴーストライティングしてくれる人がいないもので・・・。

早く言ってよ~

2022.08.24


1ヶ月ほど前のこと。知り合いのカメラマンのもとを訪れました。
帰宅してしばらくたってから、電話がかかってきました。
「今日は朝から熱があったので検査を受けていた。その結果をいま聞いたら陽性だった」
先に言ってよ、そういうことは・・・。
いまの感染状況のもとで発熱したら、検査結果を待つまでもなく面会は避けるのが常識、いや良識というものでしょう。あまりにもいい加減。能天気もいいところです。
ということは濃厚接触者になったかな?
どうなることかと思いましたが、幸い何の症状も出ずに過ぎました。
1.お互いにマスクをしていたこと、
2.1m半ほど離れて会話していたこと、
3.部屋がスタジオで、広くて天井が高かったこと、
4.20分ほどで別れたこと、
等々が幸いしたかもしれませんが、あるいは知らないうちに無症状感染者になっていたのかもしれません。危険はすぐそばにあるものだと肝を冷やしました。

ということがあったので、昨日、調剤薬局に寄ったついでに、抗原検査キットが買えるか尋ねたら、「あります、あります! いまならあります!」と嬉々として答えてくれました。長く欠品になっていたが、ちょうど納品されたところだとか。
それならと4セット購入したのですが、さてどうしたものか。
体調が悪くなったら使ってみる。それは当然ですが、発症から2日くらい経過しないと反応しないようです。それで陽性となったらどうするか。すぐに医療機関に連絡して指示を待てが原則。しかし、いまの状況ではどうなるものか。
陽性でも陰性でも、自宅で解熱剤飲んでじっとしていろ、ということなら、まことにむなしい検査キットであります。もっとも高齢者なので、行政も放ってはおかないとは思いますが。

勇気りんりん、るりの色

2022.08.02


外資系企業のプレスリリースの、あるフレーズにひっかかりました。
「その成果には勇気づけられました」
おかしいと感じませんか? そうですか、感じないですか。
いや間違った表現だとまでは言いません。あえて言えば「生硬*」という言葉が当てはまるかな。
広辞苑の「勇気づける」の項には「勇気を持たせる。元気を出させて何かをしようという気持にさせる。『悲しんでいる友を―・ける』」とありますから、正しい日本語の使い方なのでしょう。
このリリースで使われているのはたぶんencourageという英単語で、その和訳と推測します。英語ではごくふつうの表現であっても、日本語の発想にはもともとない表現ではないかと思うのです。encourageを直訳すると「勇気づける」となるのでしょうが、初めから日本語として原稿を起こしたら「勇気づけられました」って書くでしょうか?
「その成果には励まされます」の方がこなれているかな。エライ人のコメントなら「励まされる思いでございます」とていねいに。英語に堪能な人だと、かえってこちらに違和感を覚えるかもしれませんが。
明治以来、日本語に英語文脈が導入されて久しいので、こんなことに目くじらを立てる必要はありませんが、どんどん「こなれた日本語」が姿を消していくのがちょっとさびしいのです。
「勇気りんりん、るりの色~」。こんな歌詞を知っている人はほとんどいなくなったでしょうね。なんで勇気りんりんで瑠璃の色なのか。これもへんな詩ですね。写真の色が正しい瑠璃色です。

*生硬:(1)世情に通じないで頑固なこと。(2)表現などが未熟でごつごつしていること。「―な文章」(広辞苑)

黙っている人、いられる人

2022.07.28


企業もののテレビドラマでは、会議がしばしば見せ場になっていて、主人公が議長やらエライ人やらを追究するシーンが描かれます。ああいうシーンを実際に見てみたいと思うのですが、現実社会では滅多に起こりません。議長が議事を進行し、発表者が説明し、「異議はありませんか?」でいくつかの質問ややり取りがあって、シャンシャンと次の議題へと移って行く。そういう会議ばかりです。
自分の意見を堂々と述べる立派な人もおられますが、自分の考えではなく、どこかで聞きかじったことを延々と説明するような人もいて、こういうのは困りものですね。
そのほかの人たちは、指名されれば発言はしますが、そうでなければ黙っています。なぜ多くの人たちは黙っているのか。
「何か言うとにらまれそう」とか「トンチンカンなことを発言して評価が下がってしまうのではないか」とか「自分のような若輩者が発言してはいけないのだろう」などと過度な忖度をして発言しない人もいるのではないでしょうか。
「黙っているのは、言うべきことが何もないからだよ。な~んにも考えていないから」という説を聞いたことがあります。その通りかもしれません。その一方で、よくも初めから終わりまで黙っていられるなあ、とも思います。何のために出席しているんだ! 時間の無駄だ!との非難はもっともですが、それよりも「ずっと沈黙を守っていられる」という能力の方に驚きます。
こんなことを書いているオマエはどうなんだ?と言われそうです。どちらかと言えば、何か一言いわなければ気がすまない方なんですが、近頃は意識的に黙っていることが多くなりました。なぜか。理由はさまざまなのでここでは申しませんが、これがいささかつらい。気がつくと、唇をかたく結んでいる自分に気がつくことがあります。そして「沈黙は能力である」という真理に到達したのであります。

そして誰もいなくなった、りして

2022.07.01


SNSもいろいろある中で、FacebookとTwitterを比較的多く使っています。広報が商売ですから、使っていなければどうにもなりません。InstagramやYouTubeもときどき投稿したり、チャンネル登録したりしています。
Facebookでは、うまく撮れた写真を投稿すると20人余のお知り合いから「いいね」をいただけます。少ないでしょう。うなぎの蒲焼きが好きな人たちのグループに四万十川の天然うなぎの鰻重の写真を投稿したら383人から「いいね」をもらったのが最高記録。うなぎ好きは四万十川が好きなんです。しかし、これはうなぎオタクの世界だから特別。ちなみに、そのグループに投稿したのはその1回だけです。
Twitterは複数のアカウントを持っていますが、投稿してもほとんど❤はもらえません。あれも知り合い同士でほめ合う世界なので、仲間が少なければ反応もほとんど得られないわけです。
それはともかく、このところとくにFacebookがさびれてきました。「友達」たちがどんどん脱落して行きます。脱落というのはFacebookにあきあきして見なくなった。あるいは投稿しなくなったということです。一部の懲りない人たちと、趣味のグループに属している人たちだけが投稿をしているという状態であるように、こちらからは見えます。
Twitterも同じような傾向が見られますが、一応匿名であるせいか、政治的立場や医学的見解など、専門性の強い書き込みがまだ活発であるように見えます。
いまは隆盛を誇っているYouTubeやInstagramも、そのうちどうなることやら。かつて一時期話題になったセカンドライフやクラブハウスのように、気がつけば誰もいなくなった、などという将来がなんとなく想像できるのですが、考えすぎでしょうか。

ご厚意には感謝いたします、が

2022.06.23


世の中で最も読まれない出版物は「社史」、と常々断言しております。たまたま元の勤務先が100周年を迎えるとのことで、現役当時の会社のことを話してほしいと依頼を受けました。その社史が出来上がって送られてきましたが、パラパラとページをめくっただけで本棚の奥へ直行となりました。協力者一覧に記載されている私の氏名に誤字もありましたし・・・。
もう一つ、どうしたらよいか途方に暮れる出版物があります。知人の書いた自費出版本です。
つれづれに書かれたエッセイ(ある年代より下ならブログとなるのですが)、趣味で研究した新発見、俳句集、中にはご自身が一生懸命努力したプロジェクトを記録したものも・・・その他もろもろ。
先日、ある大先輩にお会いしたら、「また本を書くから送るよ」と言われて、返事に窮しました。ご厚意はありがたいのですが、いただいた以上は目を通さなければなりません。その上で、礼状ハガキかメールを出さなければ・・・。それが俗世の義理というものです。ところが、これが難しい。小学生の頃から読書感想文は大の苦手で大嫌いです。
こういうことが度重なるうちに、この苦境をなんとか切り抜ける方法を見出しました。
その一。本は読む前に礼状を出す。
送られて来たら、そのことに対してのお礼を申し上げる。「これから読むのが楽しみです」なんちゃって。すぐに読む義理はなくなります。
その二。本の内容には直接触れることなく、その周辺のことを書く。
読んでいないのですから、内容について書けるわけがありません。ざっとページをめくってみて、海外旅行記だったら「衰えることのない好奇心とご健脚には頭が下がる思いです」。句集だったら「よいご趣味をお持ちでうらやましい」。中身がなんであっても使えるのが「ご健筆にはホトホト敬服いたします」。いかにも白々しいですが、そこはやむを得ません。
さてつい先日、昔の同僚で隣町で趣味の教室を開いている人が、エッセイ集を発行したので買ってくださいと、SNSに投稿しているのを見つけてしまいました。間違っても「いいね」などは送らないように、黙ってやり過ごすことにいたしました。

巨人、大鵬、卵焼き

2022.05.30


「巨人、大鵬、卵焼き」は、堺屋太一氏が言い出しっぺだそうです。誰も彼もが好きなものを挙げたと理解されていますが、大勢に迎合できる無難な方法を象徴的に示したとも考えられます。自立した精神の持ち主ならば「阪神、柏戸、だし巻き玉子」で行きたい。
と、この導入はさほど意味はありません。阪神タイガースに関連したことを書きたいと思っただけです。

「まあ、見た目に大仕事ってことではないけど、(長坂)拳弥(捕手)もなかなかスタメンで出るっていうチャンスがない中で、それがどうつながっているかは分からないけど、俺も球場早く来るけどアイツたぶん一番早く、選手で(来ていて)。必死に何か変えたいとか、何かしたいっていうのがアイツの中でも変わってきているところがある中で今回、チャンスって最初はそんなに多くないんで。少ない中でどうつかんでいくかっていうところをこの2試合でアイツ自身がいい形でつかみとった2試合だと思うんでね。これをやっぱり1軍の試合でこれだけ勝つ試合でマスクをかぶれば、これだけ緊張もするけどこれだけ充実感があるんだとか。そういうのも味わえるポジションだと思うんで。ほんとに拳弥の働きっていうのは数字に大きく表れるようなことじゃないけど、貢献度は高いんじゃないかな」(2022.5.22. デイリースポーツonline 阪神矢野監督インタビューより)

何が言いたいのか、阪神ファンならわかりますが、そうでなければさっぱりわかりません。たぶん矢野監督の頭の中をそのまま反映しているものと思われます。正直と言えば正直なんですが、矢野監督にメディアトレーニングをしてほしいと依頼されたらどうしようと、阪神フアンとしては、頼まれるはずもないのに少々気を病んでおります。
まさか「巨人、大鵬、卵焼き」のビジネス界で経験を積まれてこられた方々の中に、これほどの例はないだろうとは思うのですが・・・。

地獄への道

2022.04.26


吉野家でマーケティングの責任者をつとめていた方が、早稲田の社会人セミナーで、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢、生娘なうちにシャブ浸けにする」、「男に高い飯を奢って貰えるようになれば、絶対に食べない」といった発言をしたと炎上し、解任されてしまいました。
なるほどね。この表現はまことにお下品で差別的だけど、マーケティングの行き着く一つの究極点、しかも地獄のそれかもしれないなあと思いました。私の乏しい知識によれば、マーケティングって人間を非人間化しないと理論構築できない面がある。その見本のようなものではないかしら。この発言に「わかる、わかる」と秘かに頷いているマーケッター諸氏が世に少なくないと怪しんでおります。コトラー教授が強調しているように、本当のマーケティングはそういうものではないのだろうけど、天国と地獄の分水嶺、どちらかに落ちそうな狭い塀の上を歩いているようなところがあるようです。
今回の騒動はまたマーケティングと広報の違いを象徴する出来事であるようにも思います。マーケティングは天国への道だろうが地獄への道だろうが、最後は「売上」に行き着きます。行き着かなければ失敗です。
一方、広報のゴールは社会に認識されて、理解を得て、その社会の一員と認められることです。その結果として売上と利益に貢献することになる。そこに人間を非人間化するような発想は存在しません。
と書くと、なにやら広報はよいことずくめのように思えてしまいますが、そうでもありません。広報にもまた怖ろしい地獄への道が口を開いています。最近すっかり有名になってしまったプロパガンダがそれであります。

SNS上の悲しみ

2022.03.29


インターネット上に残った故人の書き込みや写真をどうしたらよいものかと、ときどき話題に上ります。
身近にも、Facebookで写真のグループを主宰していた写真家さんが亡くなり、その後も主のいないままグループが存続しているケースがあります。メンバーからの投稿は続いていますが、代表を他の人が継ぐことも閉鎖することもできないようです。
Facebookで経験するもう一つのつらい現実があります。
在宅医療の患者さんを支援する活動に携わっていた知人ががんの末期になってしまいました。彼は毎日のようにFacebookに書き込みを続けていて、その投稿の末尾には必ず「今日も無事に楽しくお疲れ様でした~ルンルン~」と記していました。その投稿は亡くなる数日前まで続きました。それを読む私たちは、彼の入院や治療や一時退院などの経過を逐一知ることとなり、病状が徐々に悪化して行くさまを目の当たりにすることになったのでした。
そしていまも知人が一人、末期がんと闘っている日々をFacebookに書き込んでいます。いまは書くことが、その人にとっての何ごとかになっているのでしょう。
SNSがなければ肉親や親しい友人だけに共有されていたであろう病気の進行を、それほどは親しくない私たちまでもが同時進行で知ることになる。SNSが登場するまでは考えも及ばない事態と言えます。
それがよいことか悪いことか、と二者択一で判断できることではありません。書き込む人もそれを読む人も、これまでとは異なる、なにがしかの覚悟が求められていることだけは間違いないようですが。

「ココランチ」本日閉店

2022.03.12


本日、このココノッツのサイト(ホームページ)にあった「ココランチ」というコラムを削除しました。
2008年の創業間もなく、ココノッツのある麹町/半蔵門界隈でランチをとるのにお薦めのお店を紹介するコラムとして設けました。少しでもココノッツのサイトを覗きに来てくださる方を増やしたい。つまりPVを増やす目的で始めて足かけ14年続きました。自分たちで実際に食べて「ここはいいねえ」と言える店だけを紹介することにこだわりました。ときには批判や皮肉も書かせていただきました。しかし、もうダメです。ご推察の通りCOVID-19、新型コロナの影響です。
2020年から出たり引っ込んだりした「緊急事態宣言」やら「まん延防止等重点措置」やらの中で、この界隈でも多くの素晴らしいお店がひっそりと、いつの間にか消えてしまいました。
ココノッツもリモートワークが中心となり、社員が出社する日が極端に少なくなりました。会食が制限されると、お昼を食べに出るよりコンビニ弁当やキッチンカーで購入したランチが多くなりました。外食しなければお店の情報も得られません。知らないうちに閉店していて驚いた、といったことが重なりました。
そんな中、新たに開店するお店もありました。しかし、それらを利用する機会が滅多に訪れないので、「ココランチ」で自信を持ってお薦めすることができません。
そんなこんなで、「ココランチ」を継続することはあきらめました。
これまでお読みくださったみなさま、利用していただいたみなさまには申しわけありませんが、そんな次第で「ココランチ」も新型コロナに負けたのでした。
(画像は本文と関係ありません)

「はい、ハム~!」

2022.02.28


Photoshopという画像ソフト、とても高機能なのですが、そこにまた新しい機能がつけ加わりました。顔写真を笑顔に自動修正するというもの。
むっつりを笑顔にすることもできますが、笑いすぎを修正することもできます。パスポートや免許証の写真は大笑いだと却下されることもありますから、役立つかもしれません。試したのが上の写真です。どちらが修正したものかわかるでしょうか。
一般にはニッコリ笑顔の写真が歓迎されます。「はい、チーズ!」も口角を上げさせるおまじないです。どうして写真は笑顔でなくてはいけないのか。そこに噛みついたのが、かの夏目漱石です。
ある雑誌社から写真をもらいたいと電話がかかってきます。「あなたの雑誌へ出すために撮る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」と言うと、「いえ、そんなことはありません」と言う。当たり前の顔でよいのならと承諾して撮影にのぞむと、「お約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と言う。その注文には取り合わなかったものの、送られて来た雑誌に載った写真は笑っていた、というのです。随筆「硝子戸の中」に出てくるエピソードです。
どうやら写真を修正したらしい。その頃のことですから筆で修正したのでしょう。フィルムの時代、つい最近まで修正用の細筆などが販売されていました。
この話に出てくる雑誌は大正時代に発行されていた「ニコニコ」のようです。ある銀行の頭取によって創刊されたこの雑誌は当時発行部数第二位。口絵はもとより本文中にも「笑う写真」を多数配していたそうです。この雑誌によって「笑う写真」が誕生し、普及したということです(岩井茂樹:国際日本文化研究センター刊日本研究 61, 45-67, 2020-11による)。
私たちは笑顔で撮るのが当然と思い込んでいますが、そんな経緯があったのですね。さすが漱石先生です。物事の本質を射抜いています。そうと分かれば、「はい、ハム~!」と口を閉じてもよさそうな気がします。

式が嫌いな次第で

2022.02.21


冬季オリンピックが昨夜で閉幕しました。閉会式の中継は見ないで寝てしまいました。開会式も見ていません。昨夏のオリンピックの開会式も、事前にもろもろの問題が報じられていましたので、傍目八目で少々見たものの、やはり途中で寝に就いてしまいました。
競技は楽しませてもらいましたが、セレモニーにはどうにも興味がわきません。面白い趣向が登場するかもしれませんが、それがどうした?というカンジ。感性が鈍いのだと言われれば、その通り。セレモニーへの感性が薄いのです。
小学生のときから入学式だの卒業式だのにはうんざりしていました。校長の挨拶というか訓示というか、あんなものまるで聞いていなかったし覚えていません。来賓の地方議員やPTA会長の挨拶においておや。なぜあんなことが続いているのでしょう。大学の卒業式にも出席しませんでした。
先日、マンション管理組合の重要事項説明会というものが開催されました。1000人以上いると思われる住人のうち、出席者は6名のみ。管理業者の社員さんの説明と若干の質疑のみで終わりましたが、出席者の一人が「組合長がこの場に立ち会っているのだから、挨拶の一つもしたらよかったのに」と言っていました。そういう挨拶好きもいるんですね。ま、「けじめ」がほしいということかもしれません。その気持もわからないではありませんが。
さて、記者発表や記者会見をセレモニーの一種と思い込んでいる会社があるようで、これは大きな誤解だと思います。会社にとって記者会見の開催は一大事であることは間違いありませんが、記者会見は情報提供の場であると認識した方がよいと考えます。記者が会見に出席するのは、情報がほしいからであって、セレモニーに出席する栄誉を得たいと考えているわけではありません。だからエライ人の単なる「ご挨拶」は不要です。エライ人が登壇する以上は、報道に足る情報を提供しなければならないのが記者会見というものです。

どうにも手に余る

2022.02.07


10年以上前、退職祝いに有志の方々からいただいたのがこの写真の携帯用ボトル。スキットルとかフラスコとか呼ぶらしいんですが、「酒好きにはこれだろう」と暖かいお気持で選んでくださったものです。中央には伸縮カップはめ込まれていて、これでスコッチをチビチビできる。なぜスコッチかと言えば、これがスコットランド製だからです。間違ってもバーボンやらジャパニーズを入れてはいけません。そんな法律はありませんが。
このタイプの新品はいまは手に入らないようです。結構なお値段します。
しかしです。贈ってくださったみなさまには申し訳ないことながら、たった1度使っただけで、どこにしまったかすっかり忘れてしまいました。家内捜索の結果、ようやく発掘したところです。
何故使い続けることがなかったのか。
理由の1:通でなくてごめんなさい。スコッチはストレートで飲むのはちょっとキツイんです。だからと言って水割りにして詰めるのもなんだかなあ。うまい焼酎を本場鹿児島でやるように前の日から水でで割っておく「前割り」ならよいかもしれません、日本酒を入れたらすぐに飲んでしまいそう。もう少し入るといいんですがね。いずれにしても、スコッチしばりですから、そんなことをしてはいけません。
理由の2:中身を飲み切ったあとも、そこらに捨てて帰るわけにはいきません。環境には大変好ましくはありますが、旅先で空容器を持ち歩くというのは抵抗があります。その昔の遠足では空水筒を持ち帰りましたがね。
ではさらに注ぎ足したらどうでしょう。行った先の酒屋で追加でスコッチを買うとしても、全部は入りきらない。残りはどうしたらよいでしょうか。飲んでしまう、というのも一つの解決策ですが、前後不覚に酔っ払ってしまいます。身体にも悪い。スコッチの残りが入ったビンをを持ち歩くなら、このスキットルを使う意味がありません。どうにも手に余る。
まあ、そんなこんなで使っていなかったのですが、寒い日が続きます。これを湯たんぽ代りにするのもよいかもしれません。どうせならただのお湯ではなく、スコッチのお湯割りを入れたりして。でも、冷めたら美味しくないだろうなあ。
と、寒い寒い昨日の日曜日、外出はオミクロンが怖いので、家に籠もって思案し続けていたのであります。

誤用を「お聞きします」

2022.01.27


「お聞きします」という表現は日本語としていかがなものか、ということになっております。
上はwordにATOKで「おきききする」と打ち込んで変換をかけたところですが、他の表現に言い替えろという指示が出て来ます。
「先生にお聞きしますと」
といった表現は誤用。
「先生にうかがいますと」
が本来の日本語の敬語表現。
ところが、いまは「お聞きします」ばかりで「うかがいます」なんてほとんど耳にしません。テレビを見ていると出演者たちが、アナウンサーを含めてみな「お聞きします」、「お聞きします」と何の疑いもなく連発しています。ディレクターがチェックを入れないのかしら、とも思うのですが、若いディレクターに「お聞きして」もまともな返答が返って来るとも思えません。
実は筆者もときどき口にしてしまいますので威張れたものではありません。それではいけないとずいぶん前に反省して、以後、意識的に「うかがいます」と言うように心がけています。何年間も意識し続けていると、90%くらいの割合で「うかがいます」になっているかと思います。だから意識すれば修正可能ではありますが多勢に無勢。すでにすっかり「お聞きします」の世になっています。
たとえばメディアトレーニングなどで、年配の社長さんが「お聞きします」とおっしゃったとき、修正をお願いすべきかどうか大いに迷います。信頼を得ようと思えば「うかがいます」、若さを演出したいなら「お聞きします」かなあ。よくわかりません。

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