Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

反知性の時代を生き延びる

2020.03.16


いまで言うところのパワハラ上司のもとで働いていた若き日の十数年間、つくづく「泣く子と地頭には勝てない」を実感したものでした。マネジメント技術などてんで持ち合わせていないその上司は常に強権的でした。部下の尊厳などには少しも気が回りませんでした。自分の思うようにならなくて、ついに窮すると泣き出すのです。女性でしたから。男性だったら暴力をふるうか開き直るところでしょう。どちらにしても論理や理屈を受けつけずに自分の意志を押しつけるという点では同じことです。
こういう人がなぜか成功する。少なくとも理屈ばかり考えている人よりも権力を握る確率が高い。知識や教養は無知や自己愛には勝てないのです。最近、論理を理解できないか、理解できないふりをする「指導者」が世界中にたくさん登場していますが、権力とは本質的にそういうものなのかもしれません。
それに関連する、とも言えないのですが、東京の西の郊外へ向かって伸びる私鉄に京王線と田園都市線があります。何年も前のことですが、不動産屋さんが言いました。「京王線てインテリが多いんですよ。みんないい学校を出ている。でもお金は持っていないんだ。田園都市線は、田園調布あたりの金持の子どもが家を建てて住んでいる。大した学校は出てないけど、金はあるんですよ」
これが事実であるかどうか確認する術もありませんし、近頃はずいぶん様子が変わっているとは思いますが、不動産屋さんの感想は、社会的なパワーと知性とは反比例するという指摘にほかなりません。
昔もいまも金と権力を得たいと思ったら、間違っても知性を持ってはいけません。それが反知性の時代を生き延びる方法ではないか。このところそういう思いを強くしています。

これは台本です

2020.03.02

記者会見の想定問答集(Q&A)というものをこれまで何回書いて来たことか。企業に籍を置いていた頃は、記者会見や企業説明会のたびに毎回50~100近くの質問を想定し、それぞれの回答を書き上げていました。次に、関係部署に回覧して意見を聞いた上で修正を施し、最後に会見者自身が自分の言いたい内容を加筆修正して仕上げるするというプロセスです。
回答の書き方には2つの流派があるようです。回答事項を箇条書きにして、それを参考にしながら会見者が自分の言葉で発言する方法。もう一つは、回答者が読めばそのまま発言になるように、いわばセリフのように書く方法です。私は後者で作成していました。こちらの難しさは、できるだけ文章語ではなく語り言葉にするところにあります。それが原稿棒読み調を防止するのに役立ちます。もう一つは、発言者の日常の語り口調に合わせることです。発言者の好む言い回しなどを十分に把握しておかないとこれは不可能です。
広報コンサルタントとしては、回答を作成するのはクライアントサイドの仕事ですから、記者から出て来そうな質問を考えることが中心です。実際に9割ほど的中したことがありますが(エヘン)、これはクライアントサイドでは少々難しい作業となるようです。会社として答えにくい質問や発言者(社長や上級幹部)がいやがる質問は社内から出しにくいのです。そこに広報コンサルタントの存在意義があります。
さて、そこで先般29日の総理の記者会見です。
複数の報道によると、内閣記者会から質問をあらかじめ提出させて回答原稿を作成し、それを読んでおられたようです。その原稿は想定問答集ではありません。想定する必要がないのですから。これを日本語では台本と呼ぶのではないでしょうか。しかし、それを読む人を役者と呼んでは本物の役者さんに失礼になりそうです。

守りのマスク

2020.02.19


このクルマ、ドアにクッションのようなものをぶら下げて駐車しています。隣のクルマのドアにぶつけられて、自分のクルマがキズつくのを防ごうということでしょう。その隣のクルマとはわが家のクルマのことです。仮想敵は私と連れ合いの二人です。これまでキズつけた覚えは一度もないにも関わらずです。当初は「新車だからなあ」と鷹揚に構えていましたが、だんだん不愉快になってきました。ロールスロイスじゃあるまいし・・・。
これが何かと似ていると気づいたのは昨今のことです。新型コロナウイルスの感染が拡大するにつれてマスクで外出する人が多くなりましたが、健康な人の感染を防ぐためにマスクは役立たないと専門家は言っています。すでに感染している人がマスクをするのは咳やクシャミによる飛沫を遠くに飛ばさないために有効であるということです。
クッションは元気な人のマスクです。クルマのドアの端に取り付けるプラスチック製の小さな緩衝材がありますが、あれをわが家のクルマにつければ、感染者のマスク同様、お隣さんのご心配を和らげることができるかもしれません。しかし、咳やクシャミが出るのは止められませんが、ドアを注意深く開けることはできますし実際にそのようにしています・・・などとあれこれ考えているうちに、なんだか犯罪者のような気分になってきました。
一昨日から37.7℃の発熱がありました。これが4日続けば相談窓口に電話してよろしいとのことでしたが、1日半で36℃台に下がりました。だからと言って新型コロナでないとは言えません。明日はマスクをして外出することにしましょうか。

それもアリですが・・・

2020.02.14


昨年末、ひょんなことから2泊3日の緊急入院生活を送ることになってしまい、所在ないので病室のテレビでM-1グランプリを見ていました。サンドウィッチマンが優勝した年以来です。こちらの体調もあってか、優勝者のミルクボーイの漫才が特段面白いとも感じませんでしたが、これでもかこれでもかとコーンフレークをいじり倒すネタに、メーカーはどう対応するのかに興味を惹かれました。メーカーにとっては必ずしもポジティブに受け取れないツッコミばかりですから。
その対応について2月8日、毎日新聞が報じていました。日本ケロッグのブランドマネージャーがネタの一つ一つに回答したそうです。たとえば、「晩飯でコーンフレークが出てきたら、ちゃぶ台ひっくり返すもん」 に対しては、「実際においしさを知ってもらえたと思いますので、ひっくり返さないでもらえるとうれしいです」。「回るテーブルの上に置いて回したら全部飛び散るよ」に対しては、「想像してみたのですが、確かに勢いよく回すと飛び散りますね。普通に回してください」というように。
広報的な対応としては、なかなかお上手だと思います。ただ、「1月末にはミルクボーイが同社の公式応援サポーターに就任。就任イベントでコーンフレークネタを一部修正した限定バージョンで披露した。日本ケロッグはCM制作も検討している」というのには、少々違和感を感じます。敵を抱き込んでしまう戦略で、それもアリかもしれませんが、そういうことができるのは大きな資本力を持つ大企業だけです。決して広報の王道ではないと考えますが、どうでしょう。

ただし、です。

2020.02.03


雑誌「選択」の新聞広告に「危機管理『PR会社』が大繁盛」と出ていました。隣の芝生は青く見えます。
こちらは前向きな広報のお手伝いをメインにしていますが、長年の経験を買われて危機に直面した企業さんから支援を要請されることもあります。大騒ぎに巻き込まれた会社としては、社員だけでは心もとない、外部の目によるアドバイスがほしいとお考えになるのでしょう。そのような発想をする会社は、もうそれだけである程度は危機のトンネルの向こうに光が見えていると言えるかもしれません。
と、エラそうに書いてしまいましたが、「広報コンサルタントによって危機から見事に脱出」なんてことは金輪際あり得ません。ホンの少しよい方向に舵を切るお手伝いができるかなといったところです。それでも結果に大きな差となって出てくるケースが少なくありません。
ただし、です。私たちのアドバイスに会社が謙虚に耳を傾けていただければというのが前提です。
それぞれの業界でリーディングカンパニーになっている企業は殿様です。自覚はないかもしれませんが、周囲を睥睨しながらバリバリ中央突破した成功経験を積み重ねています。そういう企業ほど、他の意見を聞く耳を持ちません。医師免許も弁護士免許も調理師免許も持っていない(中型運転免許は持ってます)広報コンサルタントのアドバイスなど、業者のセールストークくらいにしか認識しないようです。危機に直面しながらも、「自分たちが求めること仕事だけをやってくれればいいよ」ということになりがちです。それでは広報コンサルタントの仕事はよい結果を残せません。そういう基本的理解ができない会社の仕事はできればご遠慮申し上げたい。
ただし、です。目の前に札束を積み上げていただければ、翻意するにやぶさかではございません。

独り酒の楽しみ

2020.01.29


外で独り酒を飲むことはまずありません。例外は旅先です。旅に出るときは一人が多いので、どうしても独り酒になります。ぶらぶらと繁華街の裏あたりを一周して、目星をつけた店に入ります。
カウンターに一人で坐るのはなかなかいい気分。これは人さまざまでしょうが。
その土地のうまい食材や料理をアテに酒杯を傾けるのが楽しみですが、酔いが回るほどに、他の客さんと話が盛り上がるのも独り酒の効用です。東北のある街で隣り合った40代初めの男性から聞いた身の上話は、関東出身の子連れの女性と結婚したが、間もなく女性は亡くなってしまい、残された子をやむなく施設に預けていまも毎月かかざず面会に行っているというものでした。いろいろな人生があるものだなあ、と胸にしみたのでした。
会話をするまでに至らなくても、隣の客同士の話が耳入ってくるのも独り酒ならではです。盗聴するつもりはありません。一人だと自然と耳に入ってくるのです。
少々事情があり、先日バスを途中下車して鮨屋の暖簾をくぐりました。カウンターの先客は、年配のご夫婦とその娘とおぼしき女性の3人。うまい地酒と高いネタを次々の注文していました。耳に入ってきたのは、女性は離婚を経験したこと、初めて鮨屋に両親を連れてきたことなどです。お父さんもお母さんもとても嬉しそうで、親孝行しているのだなあと、こちらの心も温かくなりました。
ちなみに、帰がけ勘定を払ったのはお父さんでした。

放っておいてよいものか?

2020.01.22


かつて大騒動になったWELQ問題以来、ネット上の医療情報に関しては非科学的な情報が少なくなったようです。Google検索では上位に比較的まともな情報が上がってきます。そのようなアルゴリズムに改善されたそうですが、それでも眉唾ものの情報がなくなったわけではありません。
世の中には科学的な事実よりも反科学主義的な考え方を好む人たちもいて、そのような人たちは吸い込まれるようにおかしな情報にリーチしてしまうようです。自分だけが信じるなら、それはご自由ですが、さらにSNSなどで拡散しようとするのを見ることも少なくありません。
そのときどうするのがよいのか、少々迷うことがあります。こちらは医師でも研究者でもありませんので、頭に蓄えている情報はすべて伝聞情報にすぎません。自分の知識が絶対正しいという自信はまったくありません。それでも、あまりにもおかしな情報を、それも知人が信じ込んで拡散しているのを見たりすると、これを放っておいてよいのかと迷ってしまいます。コメントに「これはフェイクですよ」などと書き込めば、人間関係には好ましい影響を与えません。が、SNSは半ば公共的なメディアですから、その投稿を読んで信じ込む人がほかにも出てくるかもしれません。
こんなことで、自らの倫理感を試されることになるとは・・・。

ある企業戦士の死

2020.01.14


昨秋、一人の男が死にました。心筋梗塞と聞きました。
成功したサラリーマンでした。若いときは理不尽な上司に虐められました。いまならパワハラとして告発する方法もあったでしょうが、当時は我慢するか会社を辞めるかしか地獄から抜け出す方法はありませんでした。彼は我慢を重ねてしのぎつつ、支店長として営業成績を上げ続けました。
その後、会社の体制が変わった流れに乗って、昇進の道を突き進みました。
睡眠時間は3時間と決めました。当然、昼間は眠い。それを隠しながら仕事をしました。1年に100冊の読書をすることを自らに課しました。新しいツールにはすぐに飛びつきました。シャープが全盛の頃に売り出した電子手帳Zaurusの新型が出るたびに次々に買い換えました。Suicaが出ると、現金なしでどこまで暮らせるかに挑戦したりしました。
社外でも顧客である某職能団体と深い関係を構築し信頼を勝ち取りました。著書が数冊あり、講演依頼が引きも切らずの状態となりました。
若手の役員として経営の中枢を担いました。しかし、社長にはなれませんでした。会社を離れてからは消息を聞くこともまれになりました。会社のOBたちが集まると、昔の仲間のウワサで盛り上がるのですが、彼の話はトンと聞きませんでした。誰も彼に関心がないようでした。そして突然の訃報に接しました。
彼について深くは知りません。親しくもありませんでした。しかし、いまは耳にすることが少なくなった「企業戦士」という言葉を聞くたびに彼を思い出します。ご冥福をお祈りします。

新年のご挨拶とさせていただきます

2020.01.06


あけましておめでとうございます。
今日から仕事始めということで、メールも電話も少ないので業界各紙の1月1日号をパラパラめくっております。
恒例の、というべきか、毎年変わり映えもせず、というべきか、役所の幹部やら業界団体のトップやらの年頭所感がいくつも掲載されています。はっきり申し上げて、ほとんど読む価値がありません。
思い起こせば筆者もかつて年頭所感のゴーストライターをつとめた経験が少なからずあります。執筆のコツは、その時々のトピックスを散りばめること、厳しさを強調しつつも期待感を表明すること、署名筆者の個性をほんの少し臭わせること、そして何はともあれ無難な内容にすることなのです。読み手の参考になったり、役に立ったりする内容を提供しようなどとは少しも考えません。故に、読む価値がないのです。
仕事柄、それらを承知の上で斜め読みしましたが、7割方の結びの言葉が、「・・・を持ちまして、新年のご挨拶といたします」とか「新春の挨拶に代えさせていただきます」という紋切り型で終わっていることに、いまさらながらうんざりさせられました。これから各所で開催される賀詞交歓会でも「業界のご発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます」が締めの言葉になります。まあ、目くじらを立てるほどのことでもありませんが、こんな言葉を読んだり聞いたりするたびに、年が明けても世の中変わらないなあ、と思うのであります。

年末年始の恒例です

2019.12.27


今年も暮れようとしています。オフィスに出てくるのも今日でおしまい。仕事納めではありますが、いわゆる「仕事」はしていません。セーターにチノパン姿です。で、何をやっているかと言えば、PCのCPUとマザーボードの交換です。私がオフィスで使っているPCは、自分で組み立てた自作マシンなのです。
実は昨年の年末年始も似たようなことをしていました。PCのハードディスクをSSD(メモリー)に置き換えてスピードアップしようとして見事に失敗。どろ~んとした気分のまま年を越し、新年の数日をOSのクリーンインストールとアプリの設定という非生産的な作業に費やしたのでした。
そのようなトラブルの可能性を考えて年末年始にPCをいじっているのですから、想定内と言えば想定内であったのですが・・・。
さて今年は、PCの動作が突然遅くなったり固まったりする不快な症状を解決するのが目的です。しかし、昨年の苦い経験があるからビクビクもの。少々緊張しました。
結果はあっさり「成功」です。動作が速くなったようです。いくつかのトラブルに見舞われ、来年へ持ち越す宿題も残していますが、昨年より気分はだいぶマシです。
さあ、もう作業はおしまいにしましょう。みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。

「いいね」はもういいね

2019.12.13

FacebookやTwitterなどへの投稿に対する「いいね」について、心理学やら社会学やら民俗学やら、ネットでいくつかの考察を読んでみましたが、どれが「いいね」なんだか「よくないね」なんだかよくわかりませんでした。「いいね」が多いとうれしいのは承認欲求が満たされるから、という説には納得できますが、若い人たちは「いいね」をつけるかどうかですべての事象を判断している、みたいな極論には「いいね」をつけかねます。それほどのものかどうか・・・。
Facebookなどに投稿すると、何でもかんでも「いいね」をつけてくる人がいます。知り合いの投稿には、中身を読まずとも「いいね」をつけるのが礼儀と心得ておられるようです。「読みました」というお印といった意味合いもあるでしょう。一方で、まったく「いいね」を送って来ない人もいます。何万というフォロワーを持つタレントさんや有名人なら理解できますが、そうでない人たちの場合はどういうことなのか? 威張っている、見下している、ばかにしている、まあそんなところでしょう。こちらは、ときどき「いいね」しているというのに・・・。どちらにしても「いいね」がうざったいことには変りありません。SNSにも少々飽きてきました。世の中でもいまがSNSのピークである、と大胆に予言しておきましょうか。

手のシワ

2019.12.02

ベッドで本を読んでいたら、自分の手のシワに気づきました。既視感がありました。思い出したのは祖父の手のシワです。小学3年生のときに亡くなった祖父からは、いつも本を読んでもらっていました。その時の手のシワを覚えているわけではありませんが、一瞬懐かしさが胸をかすめました。
エリザベス・テーラーもフランク・シナトラも、顔は施術によって若々しく見せていましたが、首と手のシワだけは隠せなかったとどこかで読んだ覚えがあります。祖父の年齢までにはまだしばらくありますが、現実を突きつけられたような気もします。ハンドクリームを塗っておけば、ここまでシワが目立たなかったかなあ。無駄な抵抗はやめよ・・・はい。

 

読了しました

2019.11.26

先日めでたくマルセル・プルースト著「失われた時を求めて」の日本語訳全14巻を読了しました。4年ほどかかりました。読むのが遅かったのではなく、新訳の発刊がなかなか進まなかったからです。写真のように光文社古典新訳文庫版で読み始めたのですが、なかなか続きが出ないので(現在も未完結)、第5巻から岩波文庫に乗り換え、新訳が出るたびに読み進んで今日に至りました。
個人的な経緯(いきさつ)もあって10代後半からいつかは読みたいと思いつつ半世紀を超えてしまったことになります。「個人的な経緯」というのは、私が「フランス文学専攻」という学科を卒業しているからです。それなのにフランス語が話せないと、これも半世紀にわたって揶揄され続けてきましたが、フランス「語」専攻ではありません。苦しい弁解ではありますが、実際その通りです。フランスの文学が好きだっただけです。そのような経緯の中にフランス文学の金字塔とも言われる「失われた時を求めて」が存在していました。
この小説を広くお勧めする気は全くありません。日本では専門家とマニア計100人くらいの人が読めば十分だなというのが率直な感想です。文芸評論家風に説明すれば、20世紀初頭のフランス社交界を舞台に貴族の没落とブルジョワの台頭、社交界人士の同性愛などをからめ、一方で時の流れに抗い、流され、老いて行く人間の姿を描いた小説でもあります。時の移ろいの描写はともかく、延々と続くサロンの描写に日本人は飽き飽きしてしまいます。自分自身につながる何物もそこに見い出せないからです。したがって面白くもなんともない。かくして日本人が読了することが極めて少ない小説の一つとなりました。
読み終えてやっと肩の荷を下ろした気分です。

靴は磨けよ、ってか?

2019.11.05

料亭の女将は客の靴を見て人物を評価するという伝説があります。
それを信じてか、以前の勤め先の社長は、社有車にピカピカに磨いた革靴を常時載せていて、料亭やパーティに行くときは車中で履き替えるという演出をしていました。それでなにかいいことがあったのかどうかは知りません。
オシャレなスーツを着ているのに、革靴にはクリームを施した形跡なくカカトもつぶれている人がいます。洋服や髪形に気を遣っている割に靴に神経が行き渡らないのはなぜなんでしょう。頭隠して尻隠さず。革の表面がすり切れた靴がカッコいい、という文化はたぶん存在しないと思うのですが。
奥さんがご主人の靴を磨くというのもサザエさん時代の話で、共働きが当たり前で男女差別にやかましいいまの時代では、自分の靴は自分で磨かなければなりません。ところが、靴磨きというのは思いの外面倒くさい。疲れる作業です。問題は立って磨けないということ。普通の椅子でも高すぎる。街の靴磨きさんのような低い椅子を使うか、しゃがむか、床に腰を下ろさなければ磨きにくいんです。これがしんどい。それを考えると、ついついおろそかになりがちです。
スニカー出勤が増えて来た昨今では、そんな価値観は滅びつつあるのかもしれませんが。

軽トラにリスペクト

2019.10.24

台風被災地などの映像を見ると、どこでも軽トラックが忙しく走り回っています。「ポツンと一軒家」というTV番組を見ていると、多少は演出のようですが、撮影スタッフのレンタカーを置いてけぼりにして軽トラが細い山道をどんどん登って行くシーンが毎週出て来て、その性能の高さやタフさに驚かされます。非市街地における軽トラの存在感は、都会で暮らしている人間にとっては新鮮です。
先日、SNSに「中古の軽トラがあったら譲ってほしい」という書き込みを見ました。それに対するコメントには、
・軽トラを所有している方を数名知っていますが自家用車は手放しても軽トラは残したいと言う方ばかり。
・(私も)軽トラを手放せない一人です
・軽トラの必要性を年々感じるようになって来ました。自分も義父が乗らなくなったら、譲ってもらいたいと感じています。
等々。地方での軽トラの重要性はもっと広く認識されるべきですし、日本経済への貢献はとてつもなく大きいのではないかと思いました。そんなことをいまごろ言っているのは私だけかもしれませんが。ちなみに、軽トラの保有台数は476万台(2018年)だそうです。

アジア的な

2019.10.04

脱亜入欧。いまとなっては胡散臭いスローガンですが、明治の頃はみんな「そうだ、そうだ」と燃えていたのではないかしら。時代が下って、戦後の日本では「アジア的」という表現がネガティブなニュアンスで使われていました。日本は欧米型の民主国家であるという前提で、アジア諸国における非民主的な政治体制や、袖の下がなければ何事も進まない社会を上から目線で軽蔑するニュアンスの「アジア的」だったように思います。
ところがどうです。いまとなっては日本こそが典型的にアジア的な国家であることが、あちらこちらで露見しつつあります。「民主的」なのは外形だけで、極めてアジア的な政治運営がまかり通り、選挙結果は国民がそれらを是認しているかのようです。億という単位の袖の下をもらった電力会社の経営者が平然と記者会見に応じているのもまた、アジア的奇観と言えるでしょう。
一方で、日本が範をとってきた欧米諸国の方も少々怪しくなってきました。袖の下が堂々とまかり通るほどには堕落していないかもしれませんが、独裁国家への願望が膨らんだりしぼんだりしています。
おっと、こんな偉そうなことを書くつもりではありませんでした。関西電力の記者会見を見て、これをサポートしているだろう広報コンサルタント氏に同情しているということを書こうとしたのでした。
あるジャーナリストがSNSに「このケースは非があまりに明々白々で、会見の場で関電経営陣を辞めさせなければならなかった」と書いていました。私も同意見ですが、このような会見で会社側へのアドバイスを頼まれたらどうするか。広報コンサルタントは弁護士ではありませんから、限りなくブラックな事例をカバーする理由はありません。莫大な金額を提示されたらグラグラ来るでしょうが、それを受ければ一蓮托生となってしまいます。ま、広報コンサルにびっくりするほどの金額を提示する会社もないでしょうし、実際に頼まれてもいないのですから私が悩む必要はありませんが。

悩ましき日々

2019.10.02

夏から狙っているのに、いまだに果たせません。
二泊三日程度の撮影小旅行にクルマで出かけようと計画しています。目的地は山奥です。実は10代の頃に友人たちと行ったことがある場所です。半世紀後にどうなっているのかという興味もあるのですが、酷道と称されるクネクネの山道を走るのも楽しみです。悪路だけに雨風は勘弁してほしい。撮影には古い中判フィルムカメラを使うつもりなので、これも雨には弱い。となると好天気、少なくとも雨が降らない日であることが必須条件です。
最近の天気予報はかなり正確ではありますが、それでも5日前くらいにならないと予報が定まらないようです。なにやかやと仕事もあるので、仕事の隙間と現地の天気予報とを相互ににらめっこしているのですが、予定のない日は天気が悪い。天気がよい日は仕事が入る。これが夏からずっと続いているのです。
10月に入ったというのにまだ出かけられない。酷道は冬季に閉鎖されてしまうので気が気ではありません。なんとも悩ましい日々を過ごしております。

エレベーターストレス

2019.09.26

最近のエレベーターには感度のよいセンサーが仕込まれていて、乗降中はドアが閉まらないようになっている・・はずです。しかし、古いエレベーターにはそんなものはなく、一定時間が過ぎると何が何でもドアがしまるようになっている・・らしい。
そんな事情もあってか、ドア横のボタンの前に立った人は、ドアが開いたら「開」ボタンを押し続け、一番あとに降りるのが「暗黙のマナー」になっています。先に降りる人はお礼を述べるか会釈するかして行くのも「暗黙のマナー」です。さらにそこから、「お先にどうぞ」の意志表示として「開く」ボタンを押すというルールもほぼ確立されています。
さてそうなると、エレベーターに乗るときのポジション取りが重大問題となって浮上してきます。基本的にはボタン前に立って「開」を押す役割を担うか、奥に入って先に降りるかの二者択一ですが、そこに人間性の違いを見出そうとすると事態はより深刻化してしまいます。
私は原則としてボタン前には立ちません。軽く会釈して先に降りる人です。ところがガラ空きのエレベーターに乗ってしまうと、なかなか思うようには行きません。あるとき一人で乗っていたら、途中階で止まって男性が乗り込んできました。1階に着いたので「開」のボタンを押したのですが、男性は降りようとしません。「どうぞ」と言ったら、「どうぞお先に」と譲りません。さらに手で「どうぞ」のサインをしたら、「いや、私が途中で止めて乗ったのですから、お先にどうぞ」とおっしゃいます。そういう論理もあったか。この譲り合い合戦には負けました。
それやこれやでエレベーターに乗るたびにストレスを感じるのは、私だけなんでしょうか。

正義の実現は難しい

2019.09.12

集合は江戸川橋の交番前。アマチュア写真愛好家向けの撮影会です。
そこから目白通りを西へ向かい。坂を上って椿山荘前から丹下健三氏設計の聖マリア大聖堂の構内へ入って撮影。その後、休館したままの講談社野間記念館を通過して永青文庫、肥後細川庭園などを撮影しつつ神田川沿いの道に下りてきました。途中の児童公園に左右対称の大きな滑り台がありました。小学生くらいの姉妹が滑り台に駆け上がったり駆け下りたりして遊んでいます。格好の被写体です。メンバーの何人かがカメラを向けました。
そこを通り過ぎてぶらぶら歩いていたら、グループの横を追い越した中高年女性が先頭を歩いていたメンバーに話しかけました。女の子の下着を写した人がいる、という抗議だったそうです。そんなものを写すわけがないと、何人かが反論すると、足早に遠ざかりつつ背中越しにスマホを高く構えました。私たちを撮影しているのは明らかでした。
いやな気分でスタート地点の交番前へ戻ると、二人の警官がやってきました。先ほどの女性が駆け込んだのは、その交番でした。
デジタルカメラは便利です。その場で撮影した写真を警官に見てもらいました。メンバー構成は50代から80代、女性も一人含まれています。撮影会のコースを事前に印刷した案内パンフの用意もあります。心にやましい人間がよりによって交番前に集まるはずもありません。どこから見ても怪しいところはありません。
というわけですぐに嫌疑は晴れたのですが、収まらないのはこちらの方です。女性が撮った写真を、妙なコメントをつけてSNSなどに投稿されてはたまりません。スマホに残っている写真は削除させてほしい、と警官に要請しました。
験直しとお清めをしようと居酒屋に入ったところで、主催者のスマホに交番から電話がありました。スマホの写真はすべて削除させたとのこと。これで一件落着ではありますが・・・。
交番に駆け込んだ中高年女性の意図は何だったのでしょうか。義憤にかられたのでしょうか。結果としては、私たちばかりなく、その女性にもいや~な後味が残ったはずです。いつの世にも「正義の味方」はいてほしいのですが、正義というものはそれほどたやすく実現できるものでもなさそうです。

実用文も文学も

2019.08.19

8月17日付の朝日新聞「天声人語」を読んで、初めて高校の国語で「文学」が選択科目になることを知りました。代わりに実用文として行政のガイドラインや駐車場の契約書が出てくるのだとか。
行政のガイドラインが実用文の模範例かどうか大いに疑問ですが、これまで日本の国語教育において実用文が不当なくらい軽んじられてきたことを考えると、これは悪いことではありません。企業にいた頃、主任や課長への昇進試験の「小論文」をたくさん読まされましたが、9割ほどは日本文を書く基礎がまるでできていませんでした。しっかりした文章が書けるような教育はとても重要です。欧米ではすべての課目のベースとしてwritingやécritureが重んじられていると聞きます。問題はそれを教えられる先生がいるのかどうか、ですが。
蛇足ながら、実用文の一典型はプレスリリースではないかと考えています。ぜひプレスリリースを書く練習をしてほしい。間違いなく有益です。
一方で、文学を選択科目にするという暴挙には絶対反対です。先日、某放送局の敏腕ディレクター氏が米国へ取材旅行に行くに当たり持参する5~6冊の本をSNSで公開しているのを見ました。その中に小説は一冊もありませんでした。「勉強熱心」なのは結構ですが、この方の10年後を思うと、かなり残念な気がしたのであります。

日韓問題とネコ問題

2019.08.06

最近の嫌韓、韓国バッシングと反日、抗日は少々度を超しているようです。どちらが悪いのかウソを言っているのか、そんなことはわかりません。双方とも政治的プロパガンダが激しいので、報道を注意深く読み込んでも真実を把握することは不可能に近い。広報を仕事にしているからには、両国のプロパガンダを冷静に見極めたいところですが、昨今はそのような一歩引いた立場さえ批判の対象になりかねません。いまの政権に批判的な発言は激しい批判にさらされ、その対象が拡大しつつあるようにも感じられます。
さて近頃、ネコ好きの人が多くなったと思いませんか。SNSでも、私の場合だけかもしれませんが、愛猫やらノラ猫やらの写真を連日見せつけられます。法整備が進んだこともあり、動物愛護の精神が普遍化しつつあることも背景にあるのでしょう。私自身は子どもの頃から動物を飼った経験が少なく、ネコにもイヌにも小鳥にも馴染みが薄いのですが、動物愛護には大賛成です。
問題はここからです。私はネコが好きではありません。しかし、そのように言いにくい雰囲気が、いまの日本にまん延しているような気がします。ネコ好きから大顰蹙を買うばかりでなく、非猫民と厳しく批判されそうな恐怖さえ感じます。
日韓問題とネコ問題、どこか似ていると思っているのは、たぶん私だけでしょうね。

落ちてきた「反省文」

2019.08.02

乗換駅で網棚からバッグを引きずり下ろしたら、A4を丁寧に三つ折りした紙が一緒に落ちてきました。ちょっと開くと「反省文」という見出しが見えたので、そのままバッグに放り込んでしまいました。
ワープロ打ちされた「反省文」を読んでみると、これを書いた人は、どこかでケンカをしてしまったようです。発端は、本人が他人の迷惑になるような行為をしてしまい、相手から「パンチ」を食らったこと。その結果として逮捕、公訴されるに至った、それを反省しています。
反省文には、多様な人たちが住む都会では周囲の人間や環境が気になっても、常に自分のことに集中し、徹底的に非暴力を貫き、社会や人様に迷惑をかけることのないよう努めたいとあります。また、もっと幸福な精神状態で健康な身体でいたら、そのときの相手の心境にも思いを致すことができ、殴られるようなことにはならなかっただろうとも書いています。文章に破綻がありません。反省文を読む限り、至極真っ当な人のように思えます。一時の気の迷いから起こった事件なのでしょう。
さて、この「反省文」をどうしようか、と考えました。自署もありますが、それだけで書き手を特定することはできません。特定できたとしても、これをお返しすることはかえって恥をかかせるようにも思います。網棚から落ちてきたときに、またもとの場所に戻した方がよかったか。そうとも思いません。私以外の誰かが、同じように読むだけのことです。警察や駅に届けるのは、かえってこれを書いた人のプライバシーを拡散させることになるでしょう。
ここに経緯だけを記して、シュレッダーにかけることにします。

不機嫌な床屋

2019.07.31

床屋に行きました。10年来通っていたカット・シャンプー・顔剃り2000円也の床屋が再開発とかで突然消えてしまったので、同じような値段の店をようやく探し当てたのです。10席ほどの大きな店です。幸い待っている人がおらず、ほどなく席に案内されたのですが、何か雰囲気が気になります。実に静かです。その上理容師たちの人相が悪い・・・いや表情が暗い。担当になった女性理容師は無愛想な上に少々手荒です。たまたま虫の居所が悪かったのでしょうか。とにもかくにもご機嫌が悪い。こういうときは黙って、されるがままにされているより仕方がありません。何しろ向こうは刃物を所持しているのですから。
頭を下げながら観察していると、部屋の隅まで掃除が行き届いていないことに気づきました。髪の毛が洗面台の角という角に溜まっています。昨日今日という量ではありません。
タオルで顔を蒸されていると、頭の向こうで理容師同士コソコソ話をしています。どうやら新入り理容師の態度が悪いと言い合っているようです。二人ともかなりのご立腹です。それで機嫌が悪いのかもしれません。
やっかいな床屋に来てしまったものです。利便性がよくて安い床屋はそうそうありません。また探すのか、と思ったらすっかり憂鬱です。新たな店を探す面倒を考えたら、不機嫌でも掃除が行き届かなくても、またこの店に来るという選択肢もあり得ます。どうしたものかなあ。

乗り気になれません

2019.07.24

1964年、どうしてもオリンピックを見たい、見逃したら一生後悔すると思い詰めて、新宿三丁目の交差点にいまもあるJTB(当時は日本交通公社)にチケットを買いに行きました。すでに発売から日が経っていて、売れ残っていたのは人気薄の競技ばかり。その中からホッケーのチケットを1枚買いました。
ところが開会式間近となって、その試合に出るはずの国が棄権だったか来日しなかったか、どちらにしても試合は中止となりました。これでオリンピックを見るチャンスは失われてしまいました。
大会中は休校になったのかどうか記憶にありませんが、白黒テレビでマラソンを見ていたら、そのコースは甲州街道。自宅からそれほどの距離ではありません。いまから行けばアベベや円谷が見られるかもしれない。「オリンピックを見た」ことになると急に思い立ち、闇雲に走り出しました。しかし、半分ほどのところであきらめました。中学生が思っていたより甲州街道は遠かったのです。
さて、来年のオリンピック・パラリンピック。56年前の中学生と同じような気持になっている人もいるでしょう。経済的に潤う人たちが存在するのは間違いありません。しかし、多くの予算を費やし、多くの人たちを動員し、交通を渋滞させ、メディアを巻き込み、テロのリスクを増大させることが、どれほどこの国に住む人たちの将来の幸せに貢献するのか、さっぱり理解できません。広報を仕事としている以上は、お祭り騒ぎに乗じて多少のおこぼれにあずかろうとするのが当然かもしれませんが、あまり乗り気にはなれません。普段見慣れない競技を会場で見るのも悪くないなとは思うもののチケット購入にもいまのところ積極的に動いてはいません。
先日テレビを見ていたら、どこかの大学教授が、来年のオリンピックやパラリンピックは「第二の開国」になると言っていました。能天気もいい加減にしろ、と言いたくなりました。

 

うまいもんが食いたいなあ

2019.05.24


この3日ほど、東京ビッグサイトで仕事をしています。たまにはこういう異空間に身を置くのも悪くはありませんが、ちょっぴり悩ましいのは昼食です。構内にはいくつもレストランやカフェテリアがあります。コンビニもある。有名コーヒーチェーンもある。少し足を伸ばせば、周辺のオフィスビルに入っている飲食店も利用できます。にもかかわらず、昼時になると「さて、どこで何を食べようか」と悩むことになります。
理由は混むことと旨くないこと、この2点につきます。
このあたりの飲食店は、どこか「こんなもんでいいでしょ。それでも客は来るんだから」と考えているかのような、取り柄のない店ばかりです。新しく造成された土地柄だけに個人経営の店は見あたらず、ほとんどチェーン店ばかりであることがその一因でしょう。
しかたがないので、業績不振が取り沙汰されている家具店が入っているビルに出かけて、1日目は照り焼き丼、2日目はぶっかけうどんに鶏天、3日目はコクうま味噌らーめんということになりました。もちろんすべてチェーン店。もうあきました。

メディアの偏向

2019.05.15

市民間で意見が割れるような問題について、新聞やテレビなどのメディアがどちらに組みして報道しているか。なぜこちら側に同情的なのか。以前と異なる報道が出て来たり、新しい事実が次々に明らかになってもなかなか論調を変えないのはなぜなのか。と思うと、口を拭って沈黙しつづけることもある。それはなぜなのか。
政治に関してはむしろ単純です。近頃は大手メディアの旗幟が鮮明になっていますから、ある新聞は大きく報道しある新聞は黙殺していても、はは~んと推測できる。こんな報道姿勢をとるだろうなあと読む前に予想がつくほどになっています。考えてみればつまらない話です。新聞が読まれなくなった要因の一つでしょう。
そんなとき、よい本が出版されました。小島正美著「メディア・バイアスの正体を明かす」(エネルギーフォーラム新書)
小島さんは昨年まで毎日新聞で編集委員を務めておられた医療や食品問題を専門とするジャーナリストです。ここには右や左の政治のことは書いてありません。子宮頸がんワクチンや遺伝子組換え食品などを例に、なぜ新聞がこのように書くのか、このように書かないのかを極めてクリアカットに説明しています。新聞社を退職されたので自由に書けたという面もあるのでしょうが、すべての新聞記者OBがこのように書けるわけでもありません。報道の内側にいて、「これはおかしいじゃないか」という問題意識を常々持ち続けておられたからこそ書けたのだと推測します。広報を仕事をしている人にも、目を開かせてくれる好著です。

敬語と方言

2019.05.07

報道特集3
長い公定休日でした。その間、メディアを通じてこれでもかこれでもかと敬語を聞かされて少々辟易しました。国語学の定義は存じませんが、敬語というのは言葉の装飾の一種だろうと思います。装飾過多は何事によらずうんざりするものです。
そんな中で面白かったのは5月4日のTBS報道特集。大正天皇の女官、椿局であった人が語ったテープを発見したという報道でした。大正天皇がとても優秀だったという話は初めて聞きましたが、それよりもこのテープが、方言を研究していた学者が録音したものであるということに興味を引かれました。敬語だけで成り立っているような、しかも「何々であらっしゃる」といった特殊な敬語を用いる御所言葉を「方言」と捉える視点がとても新鮮に思えたのでした。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20190503-00000059-jnn-soci

一年前のその日

2019.04.26

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
まったくの偶然ですが、ノートルダム大聖堂を見学に行ったのは、火災発生のちょうど一年前に当たる2018年4月15日、日曜日の朝でした。聖堂の中に入るとオルガンの深い音色とテノールの美しい歌声が聞こえてきました。ミサというものを見たのは、実はこれが初めてでした。その一年後に火事になるなどとは思いもせず、その賛美歌にしばし聞き惚れていました。写真を撮ってはいけないのかな、とは思ったものの異教徒の図々しさで何枚か静かにシャッターを切りました。これがその一枚。写真のタイムスタンプでは午前9時30分。
多くのフランス人が感じたであろう喪失感にはほど遠いのでしょうが、一ツアー観光客としても残念な思いは共有できます。

じいさん宣言

2019.04.22

じいさん1
認めたくはないものの、一つの区切り(元号ではない)が来て、どこをどう見ても「じいさん」に間違いないという状況に立ち至りました。かくなる上はと開き直って、これから死ぬまでじいさんをやっていく覚悟です。
自分自身が若い頃から「長幼の序」など意に介さずにきたバチが当たって、いまさら若いモンに「じいさんを敬え」などとは言えません。その上、よそのじいさんたちを観察していると、じいさん特有の悪癖というか悪弊というか、若い人たちに嫌われる要素が多々あることに気づきます。自分のことを棚に上げて言うのもナンですが。
朝の連続テレビ小説で草刈正雄演じるじいさんが「一番悪いのは他人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は他人をアテにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるのだ」なんて名ゼリフを吐くのは、あれはドラマだからであって、実際にそんないいことを言うじいさんは近頃お目にかかったことがありません。
先日亡くなった橋本治さんが30代初めに書いた文章に「ジイサンというのは、ひょっとしたら時代とは関係なく生きていられる自由な存在なのかもしらん」*というのがあります。これもまたじいさんの一面かもしれません。上司だの部下だのお客さんだの先生だの、もうなんにも関係ない。ようやく手に入れた自由、勝手気ままができる反面、誰も助けてはくれません。それ故に抑制が利かなくなってしまい、若いやつらばかりでなく、社会全体から疎まれ、置いてけぼりを食うということになってしまうようです。
*「よくない文章ドク本」所収「『現代青春小説』のガイドブックの無削除版」

カメラ好きは写真がうまくない?

2019.04.16

らんぷ坂 1
写真の愛好家やカメラマンにはよく知られている事実ですが、世には機械としてのカメラ自体が好きな人と、写真を撮ることが好きな人と、どちらでもない人の3種類の人たちが存在します。圧倒的に多いのが3番目であるのは言うまでもありません。観光地へ行って記念撮影する人たちや子どもの成長を記録する人たちも、3番目に入れてよいでしょう。
最近はスマホでランチの写真を撮ったり自撮りしたりしてSNSに投稿する人が増えています。このような人たちは、写真を撮ることが好きな人たちと分類してよさそうです。
実は先日、あるグループの写真展で自作を3点ばかり展示してもらいました。参加を申し込んだときは意識していなかったのですが、このグループはカメラ好き、いやカメラ蒐集マニアの集まりでした。ある参加者に「何台くらいお持ちなんですか?」と尋ねたら、「500台くらいですかね」と素っ気なく答えてくれました。さらに「最近は写真を撮るのが面倒になっちゃって、ほとんど撮らないんです。撮るときはスマホです」と続きました。
一般論ですが・・・と断っておきますが、カメラ好きは写真がうまくありません。写真を撮るのが好きな人のすべてが写真がうまいとも言えません。写真がうまい人は写真を撮るのが好きな人です。また、写真がうまい人はカメラ好きでもあります。
長年の観察から得た結論ですが、さて論理的に整合性がとれているのかどうか…。

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