Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

開け植物園

2022.01.21

COVID-19の流行がオミクロンと呼ばれる変異型の登場でまたまたひどいことになってきました。この2年間にわたる知見の積み重ねで、少しは有効かつ合理的な対策が取れるのかと考えていましたが、そうでもないようです。
わが国政府もトップが変わって、前任者の轍を踏まないようにと苦労しているようですが感染者は増えるばかり。英国も米国も現時点では感染者数のピークアウトが見えていないようですから、どこの国も同じようなものなのでしょう。

まん延防止等なんとか、というのが多くの都道府県に出されました。それによって東京都の場合、都立庭園や神代植物公園などが休園となってしまいました。都立公園には入れるようですが、昨年の緊急事態のときはそれらも立入禁止となっていました。
これが疑問なんです。
素人考えではありますが、密閉した室内にも大人数の会食(バーベキューは禁止)にも当たらない開放的な場こそ、こういうときには開放した方がよいのではないでしょうか。庭園や植物園を休園する必要がどこにあるんだ、と思います。
1年に1回行くか行かないかの神代植物公園に、こうなると無性に行きたくなるのは、生来の根性曲りだからでしょうか。

なかなか

2021.12.20


日常的で何気ない言葉が、ある人には特別な感情や思いを喚起させるといったことがあるようです。過去の体験、エピソードなどによって一度色づけされてしまった言葉は、もう何気ない言葉などではなくなってしまいます。私にとっては、「なかなか」という言葉がその一つ。若き日、先輩社員の口癖でした。その人は、
「あの部長はなかなかだからねえ」
というふうに使っていました。
その時の口調をいまでも鮮明に思い出しますが、なんだかわかるようでわからない。想像するに、「なかなか手強い」とか「なかなか言うことを聞いてもらえない」といった含意のようで、そこに「ちょっと普通ではない」といったニュアンスが加わっているようにも感じられました。言っている本人もどう表現してよいのかわからずに「なかなか」を使っていたのかもしれません。あるいは明確に表現するのをはばかっていたのかもしれません。

辞書の「なかなか」の項には次のように書かれています。
1.なかほど。半途。中途。
2.不徹底・不十分な状態、もしくは過度の状態が、逆に不満をかき立てること。
3.逆の状況や意味をもたらすこと。かえって。
4.かなりの程度であるさま。ずいぶん。相当に。「―のものだ」
5.(否定の語を伴う)簡単には。すぐには。

狂言で太郎冠者が「なかなか」と返事をすると、打ち消す意味で「とてもそうはなりません」だったり、「いかにもその通り」といった意味になるそうです。どうにも中途半端な表現ですね。

 何ごともなかなかのまま年暮るる

よいお年を。

Facebookと天然うなぎ

2021.12.10


47都道府県のうち足を踏み入れていない県が2つ残っていました。高知県と大分県。海外へ行ける機会は今後あるかどうかわからないので、新型コロナがスキを見せている間に、こちらの方をつぶそうと思い立ち、高知県に行ってきました。
ここ何週間か、高知ばかりでなく四国4県で新型コロナの感染者ゼロが続いています。
新型コロナウイルスはヒト*に感染しなければ存在できない⇒高知では感染者がゼロ⇒高知には新型コロナウイルスは存在しない、という怪しげな三段論法で安全に旅行ができると信じることにしました。*ネコにも感染するそうです。
高知へ行ったら訪れてみたいと思っていたのは四万十川です。鮎の友釣りを趣味としていた若いとき、四万十川で鮎を釣るのが夢でしたが叶いませんでした。いまとなっては友釣りよりもうなぎです。四万十川でとれた(たぶん)天然うなぎの蒲焼きが食べられるという店へ直行しました。
帰京してから、この写真をFacebookのうなぎ好きのグループに投稿してみました。すると、あれよあれよという間に378もの「いいね」がつきました。これまでFacebookでいただいた「いいね」の最多数です。うなぎ好きの人たちにとって、四万十川の天然うなぎの蒲焼きは一つの憧れなのでしょう。
では、その味はいかがであったか。それはこれから四万十川に訪れる方々のお楽しみとしておきましょう。ちなみに、ことわざに「名物にうまいものなし」というのがありますが、写真とは関係ありません。

自分から見つけないと・・・

2021.11.26


写真のセンス、天性なのか努力の賜なのかわかりませんが、確かにセンスのよい人がいます。いい瞬間を撮るとか、いい構図で撮るとか、面白いものを見つけて撮るとか、そのようなことを全部ひっくるめてのセンスなんでしょう。
知り合いのアマチュアカメラマンは花火の写真にかけては名人です。独自の技巧を駆使した色鮮やかな花火の写真は、展覧会などでも多くの人たちを魅了します。新型コロナで各地の花火大会が中止になると、ダイヤモンド富士なるものに挑戦し始めました。富士山の真上に太陽が昇る、あるいは沈む瞬間を撮ろうというものです。さまざまな場所と方角からその一瞬を狙います。なかなかに美しい。ところがその人、街角の状景などを撮るとからきしダメでなんです。大量にシャッターを切りますが、ほとんどがゴミです。どうしてそうなるのか、と考えてようやく一つの結論に達しました。
花火もダイヤモンド富士もそれ自体が美しい。そこに技術は必要だとしても、美しさは向こうからやって来ます。
街角のスナップ写真はそうは行きません。それほど美しくも面白くもない風景の中から、興味をひく一瞬や面白い状景を、自分で見つけ出さなければなりません。
広報の仕事にも同じような問題がありそうです。世の中が沸き立つ要素をもともと持っている製品やテーマがある一方、これはまいった、と言いたくなるような地味で面白みの少ないテーマもあります。それをどのように広報活動に結びつけたらよいのか。「面白さ」はいつも向こうからやってくるわけではありません。地味なテーマや専門的な製品の中に面白さや素晴らしさや社会の利益になるポイントを自分たちで見つけ出す。これですよね、大切なのは。

ネクタイ異聞

2021.11.01


ある中堅メーカーが全社会議をオンラインで開催しました。そのとき社員が戸惑ったのはどういう服装で参加するかだったそうです。昨年来、自宅勤務が中心になっているその会社では、カジュアルな服装での自宅仕事がすっかり根づいていました。しかし会長、社長、役員が全員出席する全社会議となるとまた話は別です。
ある社員は悩んだ末、テレワークスーツでもパジャマスーツでもなく、いつものスーツにネクタイ姿でwebカメラに対しました。画面で他の社員を見ると全員同様なスタイルだったとか。下がジーンズだったかどうかまではわかりませんが。
オーナーである老会長は真夏を除いて常にネクタイにスーツまたは濃いめのジャケット姿を崩しません。頂上がそうなら九合目以下もそれに合わせるのが、日本企業というものです。
ここ10年来、外資系やベンチャー企業の社員はオフィスに出社するときもカジュアルな服装で、ネクタイ姿はほとんど見かけなくなりました。国内企業でも通年ノーネクタイという会社が増えてきているようです。もちろん営業の方はスーツが多いでしょうし、時と場合によっては内勤社員もスーツを着用するのだろうとは思いますが。
数年前、フランスに観光旅行に出かけました。知人へのお土産にネクタイを買おうとパリの百貨店を2軒ほど探し回ったのですが、ついにcravates売場を見つけることができませんでした。シャンゼリゼ通りを散歩したときも、スーツにネクタイ姿の紳士にはたった一人しか遭遇しませんでした。そのような流れが、COVID-19の流行を経て日本でもさらに強まっているのではないかと推測します。
帰国するとき、シャルル・ド・ゴール空港の免税ショップの中に大きなネクタイショップを発見しました。ネクタイはお土産としてのみ生き残っているのかもしれないなあ、と少々驚きました。
いや、買いませんでしたよ。ブランド品とはいえお土産品としてのネクタイは。

わかる人にはわかる

2021.10.19


写真は昨日の朝日新聞の記事です。いま放送中のNHK「連続テレビ小説」の今週のあらすじが書いてあるのですが、読んでもさっぱりわかりません。毎朝見ていて登場人物やら筋の展開を把握している視聴者にはたぶん理解できるのでしょう。
一部の人だけしかわからない記事を全国紙が掲載してよいのか、という議論はさて置き、このような「わかる人にはわかる。わからない人にはわからない」現象は、あちこちで見かけます。
産業系の新聞や業界紙などの記事にも多いですし、業界系のサイトなども門外漢にはさっぱりです。新聞系のメディアで育った人たちは、中学生でもわかる記事を書けとたたき込まれたそうです。いまもそのような教育がされているのだろうと思いますが、少しゆるんでいるところもあるのかな。「わかる人にわかればいいや」というのも、やむを得ないところがあります。全面否定する気はありません。
広報の仕事でプレスリリースを書くときも、似たような戸惑いを感じることがあります。BtoB企業のリリースで、業界関係のメディアだけに配布するというのであれば、読み手の基礎知識にすがって、その人たちだけが理解できる内容のリリースでも許されるのかなとも考えます。そのあたりが迷うところです。
企業にいたとき、IT系の専門誌からシステム更新について取材の申込みを受けました。対応するのはシステム部長です。その取材に立ち会ったら、二人の会話がまるで理解できません。外国語を聞いているようでした。掲載された記事も、読者のどのような興味と関心に応えようとする記事なのか、ほとんど理解できませんでした。
ある関西系の芸人さんのYouTubeを見ていたら、別の芸人さんと掛け合いトークをやっていました。二人は古くから昵懇の間柄のようで、内輪話が次から次へ出て来るのですが、その中でやり玉に挙げられている芸能人たちを知らないのでちっとも笑えませんでした。
「わからない」は「面白くない」に通じる。当たり前のことだろうと思いますが。

他山の石

2021.10.11


発車間際のバスに乗り込んだら座席はほぼ埋まっていました。やむを得ず運転席の真後ろの高い座席によじ登りました。
その目の前に掲げられていたのが写真の掲示です。内容を以下に書き写します。行番号をふってみました。
--
1)私たちは社会基盤としての役割を果たすため、バスの運行を続けています。
2)このバスを運転している乗務員にも家族がいます。
3)バスをご利用のお客様は、新型コロナウィルス感染症まん延防止のため、必ずマスクの着用をお願いいたします。
4)○○バス株式会社 ○○営業所
--
さて、どうでしょう。言いたいことはわかります。でもちょっと違和感を覚えませんか。
行ごとに読み解いて行くと、
1)は納得です。ご苦労様でございます。誠にありがたいことです。でもバス会社は営利企業であって慈善事業ではありません。乗車賃を払っています。いまの世の中、乗車賃収入だけでは運行を維持できず、公的な補助金やら支援金やらで補填されているのかもしれません。その金は税金で支払われているはずです。
2)もごもっとも。しかし、乗務員ばかりでなく乗客にも家族を持つ人はいますよ。その点に関しては、乗務員も乗客も条件はまったく変わりません。
3)のご注意は当然です。
さらに1)と2)と3)の間に論理的なつながりがありません。社会基盤としての役割のためにバスを運行していることと、運転手さんに家族がいることの間には何の因果関係もありません。乗務員に家族がいることとマスク着用のお願いとの間にも論理の飛躍があります。
繰り返しますが、バス会社の言いたいことはよくわかります。こんなつたないお願い文で訴えるのは、それだけ切実に感じておられるのかもしれません。
広報の仕事でもいろいろなお願いやら謝罪やらの文章を作成する機会があります。そんなとき、他山の石としてこのバス会社の「お願い」を思い出すことにいたしましょう。

広報ってブルシット・ジョブなの?

2021.09.13


Bullshit Jobsという用語を知ったのは最近のことです。訳書の題名によれば、「クソどうでもいい仕事」といういささか品のない訳語になっています。
お高い書籍なので読んではいませんが、Wikiから又引きすると「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」と何やら難しいことが書いてあります。
「こんな仕事、なんのためにやってるの? 意味ないじゃん」
と思いながら作業を続けたことは、会社員時代に何度も経験しました。どうもそういうことを指しているらしい。
そのような仕事ばかりする職業として、ホワイトカラーの仕事の多くをはじめ、弁護士、コンサルタント、広告代理店なども意味のない仕事なのだそうです。
就職を控えた学生のとき、ある大手広告代理店への大学推薦がもらえることになりましたが、すぐに辞退してしまいました。「それはもったいない」とその時もその後も多くの人たちから言われました。しかし、いずれ日本に革命が起きたら広告代理店などなくなってしまうのではないか、と真剣に考えていましたからちっとも惜しいとは思いませんでした。笑ってください。その程度の社会認識しか持ち合わせていなかったのですから。
それはさて置き、広報コンサルタントとしては、自分の仕事がブルシット・ジョブだと名指しされているわけで心穏やかではありません。しかも、
「それが無意味だってうすうす自覚しているでしょう? でもそれを取り繕っていますよね。それこそがブルシット・ジョブなんですよ」
と著者はこちらが考えるようなことを先回りして指摘しているらしい。
白状すればご指摘の通り〈無駄なことだよなあ〉と思うこともやっています。世の中の役に立っているのかなあと疑問を持つこともあります。
一方で、こんなよいこと(もの)は広く世の中に知ってもらう方がいいよなあ、と思いながら仕事をしていることも少なくありません。
そんなことを言うと、「ほら取り繕っている」と言われてしまいそうですが・・・。

人事評価のショーウインドウ

2021.09.02


企業は社員を評価するもの・・・なのかどうか知りませんが、まあどこでもやっています。会社員だったときは、自分の評価がずいぶん気になったものです。当然ですね。それが給料に反映するわけですから。
いろいろな社員評価の方法やツールがつくられ、MBAでも人事の専門家が養成されていますが、真に誰もが納得できる人事評価法が開発されたという話は聞いたことがありません。
それでも何となく社内での評価はコンセンサスができて行くもので、あの人はそろそろ昇進してもいいよねという雰囲気が醸成されてくる。反対に「なんでェ?」という人事もしばしば起こります。世界中どこでも人事は人間くさい要素で決められて行くものらしい。
社内にいれば、その人間くさい部分がある程度見えることがありますが、社外からそれをうかがい知ることはできません。あの人がエラくなった、あの人が異動になった、ということはわかりますが、どのような経緯なのか、異動先でどんな仕事を任せられているのかなどは、外からはわからないのがふつうです。
ところがですよ、それがなんとなくわかっちゃう組織があることに気がづきました。NHKです。あそこのアナウンサーのみなさんが、どんな番組でどんな役割を担当させられているのかに注意していると、それぞれの社内評価がわかるような気がしませんか。
なるほどこの人は上手だなあとか、華があるなあとか感じることがあるます。また地方へ行くと、こんなアナウンサーさんがNHKにいたんだなあ、と思うこともあります。具体的な例は出しません。しかして、これは職員としてはかなり厳しい環境ではないでしょうか。そう考えると、テレビを見ているこちらも少々つらくなってしまいますが。

耳でも楽しめるスポーツ

2021.08.02


視覚障碍のある友人からメールをいただきました。
「なんだかんだ言っても、オリンピックがテレビを占拠しています。チラッとその気にさせられる種目がないではありませんが(女子体操とか)、見れども見えずなので見ません。ただ、ワイドショーかなにかで、兄妹が同時に柔道の金メダルを取ったとか、優勝したソフトボールのエースが上野投手なんて聞くとビックリ仰天しました」

おや、ラジオではオリンピック中継をしていないのかと、新聞のラジオ欄を確認したら、この日は競泳、体操、卓球、陸上競技などの実況中継が予定されていました。
そこで思い出したのはプロ野球中継です。
1960年代からつい10年ほど前まで、ほとんどの民放AMラジオは毎晩巨人戦を実況放送していました。タクシーに乗ると、必ずと言っていいほど運転手さんがそれを聞いていました。プロ野球は、耳で聞いても楽しめるスポーツなんです。
オリンピック競技の中にも、ラジオの実況を聞くだけで楽しめるものがあります。日本中が沸いたという「前畑がんばれ」はラジオの実況でした。
一方で、実況を聞いても何がなんだかわからない競技もありそうです。スケートボードやサーフィンなどの新しい競技がその典型でしょう。
その違いは何かと考えてみたのですが、2つの条件を思いつきました。
一つは、視聴者がその競技をよく知っていて、実況アナウンスを聞くだけで一つひとつのプレーやシーンを思い浮かべることができること。
「ピッチャー大谷、セットポジションから、投げました。ストライク。156キロの直球が内角低めに決まりました」なんてね。
もう一つは、実況のアナウンス技術が歴史の積み重ねの中で磨き上げられていること。競馬中継もその一つでしょう。杉本清アナウンサーはよかったなあ。80歳を超えて地方競馬の実況をしていた方もおられるとか。
そこへゆくと、スケートボードなどはテレビで見ていても何がなんだかわからない。そもそもルールがわからない上に、アナウンサーが話す用語や表現が耳慣れない。これをラジオで聞いてもわからないでしょう。
そう言えば、パラリンピックで行われるブラインドサッカーやゴールボールなどは、ラジオで中継されるのでしょうか。これら視覚障碍者のための競技は、ぜひラジオ中継すべきだと思いますが、その放送を聞いてもわかるかなあ。これは難しい問題ですね。

ぎりぎりセーフ

2021.07.01


友人が主宰する前衛劇団の公演を観るために久しぶりに横浜まででかけました。
開演前に腹ごしらえをと中華街でチャーシューメンを食べながらスマホを見ていたら、知人の視覚障がいのある方からメールが入ってきました。
詳しいことは知りませんが、音声に変換してメールを読んだり書いたりしておられるようで、少々の漢字誤変換はあるものの、ほぼ普通のやりとりができます。すごいなあ、といつも感心してしまいます。
さて、チャーシューメンを食べ終わって向かった県立芸術劇場の入口には、大きく「盲人達」と書いたポスターが貼られていました。これから観ようとする前衛演劇の題名です。童話劇「青い鳥」で知られるフランスの作家メーテルリンクの書いた戯曲で、それを友人の演出家が大胆に再構成して上演するというものです。
「盲人」という言葉もあまり耳にしなくなりました。ほとんど「視覚障がい者」とか「目の不自由な人」とかに言いかえられています。
「盲人」は差別用語とされているのではないか、それはまずいのでないかと心配になってネットで調べたら、いまのところ差別用語とまではされていないが、限りなくクロに近いグレーという位置づけのようです。ぎりぎりセーフといったところでしょうか。そうでなくては県立の施設での上演は難しかったのではなないかと勝手に推測しました。「めくらたち」だったら完全にアウトとなったでしょうが、この戯曲の過去の日本語訳でそのように訳したものはなかったようです。
いま上に「障がい者」と書きました。「障害者」の害の字は適当でないから「障碍者」と表記すべきだという意見もあり、無難な「障がい者」にしておこうとか、行政や報道機関が調査をしたり議論したりしていますが、これも結論は出ていないようです。
何が差別用語になるのかという議論は極めてセンシティブです。人によって受け止め方に大きな違いもあるようです。それぞれの用語の是非はともかく、広報活動を進める上では、「差別用語」と疑われる言い回しには十二分に注意すべきであるのは間違いありません。

語感の問題

2021.05.14


日常、料理はいたしません。例外はカミさんが入院したとき等々で、そのようなときは、「参ったなあ」などとはツユ思わず、あれをつくってみようか、こうやったらうまいのではないかと、やる気がもりもりと盛り上がります。
料理の基礎知識は皆無と言えます。
子どもの頃、母親が不在のときに味噌汁を作ろうと試みたことがあります。そのとき、出汁というものの存在を知りませんでした。水に味噌と具を入れて煮立たせれば味噌汁ができ上がるものと思っていました。味見をしたら、塩辛いばかりでうまくない。即席だしの素などという便利なものが普及していなかった時代です。戸棚を探したら固形のコンソメスープが見つかりました。
仕事から帰った父親がその味噌汁を飲んで、なんとも妙な顔をしましたが、決して不味くはなかったといまも思っています。
先日、テレビの料理番組を何気なく見ていたら、その講師は、醤油やら油やら薬味やら数種類の香辛料やらを順番に加えるのではなく、あらかじめ小さいステンレスボウルにそれら一式を混ぜ合わせておき、頃合いを見て一気に加えるというやり方をしていました。それはよいとして、その混ぜ合わせておいたボウルの中身を「調味液」と呼んでいたのが気になりました。「調味液」、「調味液」と何度も耳にするうちに、その「調味液」なるものが、なにやら人工的な身体によろしくない薬品のような気がしてきたのです。「調味料」はよくて、なぜ「調味液」はいけないのか、と反論されると答えようがありませんが、これは語感の問題です。
語感と言えば、近頃都で流行る「人流」なる言葉。なんとも語感が悪すぎる。人の流れを科学的に分析する科学的スタンスは結構ですが、流れる人間どもの中の一人としてはなんとも居心地が悪い。「物流」はよくて、なぜ「人流」はいけないのか。語感の問題であるとともに、人を人とも思わぬ人たちの存在に危険な臭いがするからです。

リーダーのコミュケーション力

2021.05.07

このところ、ブログを書く気がさっぱり起こらず、ずいぶんと間が空いてしまいました。
言いたいことは数々あるものの、それらのほとんどが何かしらパンデミックに対する政策から導かれたものなので、どれもこれもメディアやネットで誰かが指摘していること。それをあえてブログに書くことはないなあ、と書く気が萎えてしまうのです。
その一つに、リーダーのコミュニケーション力についての議論があって、広報のプロたちの間でもささやかな炎上が起こっていることを発見しました。
言うまでもなく現在の国や地方政府のリーダーたちのコミュニケーション力への懸念なのですが、上手いとか下手とかいう以前に、どうしてコミュニケーション能力の低い人物がトップにまで上り詰められたのか、ということの方に大いに興味をそそられます。
20年ほど前、日本企業のリーダーたちのコミュニケーション能力の低さが大きな話題になっていました。アップル社のジョブス氏などのプレゼンテーション力に比べて、わが国の企業トップのプレゼンは・・・といった文脈が多かったようです。
ところが現在、そのような指摘はほとんど見られません。な~んでだろ?
日本企業のリーダーのコミュニケーション力は、顕著とは言えないまでも、20年前に比べれば進歩したことは間違いないようです。少なくとも投資家たちと渡り合えるだけのコミュニケーション能力を持っていなくてはベンチャーを含め企業のリーダーにはなり得ない、という環境が日本でも定着したのではないかと推測します。
翻って政治の世界はどうか。企業のリーダーがさらされるような厳しい環境とは異なる旧態依然のぬくぬくした環境の中で、ヒソヒソ話だけでリーダーになれる仕組みがいままで温存されてきたのではないか。それでいいのか、とCOVID-19のパンデミックの中で疑問が浮かび上がってきたのでした。

どら焼きの皮

2021.03.04

大手カステラメーカーの工場に直売所が付設されていることを、知人から教えてもらいました。そこではカステラの切り落としを売っているとのこと。目が輝きました(鏡で確認してはいませんが)。
カステラは子どもの頃からの大好物。とりわけその端っこや底のザラメが好みです。切り落としを見逃すことはできません。さっそく出かけて来ました。
お目当てのカステラ切り落としを購入したついでに、直売所の品々を探索していたら、「どら焼きの皮」という商品を発見していまいました。餡なしの皮だけです。瞬間にして、これこそが私のアンメットニーズであったことに気づきました。
どら焼きも店によって満足度が大きく異なります。餡の甘さや風味も重要な構成要素ではありますが、私においては皮のふっくら感や柔らかさ、弾力、舌の感触などの方をより重視しております。
迷わず買って来た「皮だけ」を食べてみると、これは感動でした。
ここのどら焼きは、大きな字では書けませんが、あえて買って食べたいとは思っていませんでした。しかしこの「皮だけ」はうまい。絶品です。
餡が入っているとソコソコ。餡がないと絶品。これはどうしたわけでしょうか。
その上、大発見までしてしまったのです。それは、
「どら焼きの皮はパンケーキである」
という真理であります。それに気づいた人はこれまでおりません(たぶん)。
つまり「どら焼きとは二枚のパンケーキで餡を挟んだ菓子のことである」という新定義がここに生まれたことになります。
ものを別の視点から見ると、まったく異なるもの見えて来る。まさにどら焼きをリフレーミングしてしまったのであります。

どうするんだよ、日本

2021.02.10


2030年にはガソリン車の販売を禁止するのだとか。その頃には町中を走っているガソリン車やディーゼル車は半分以下になっているとも予想もされています。
おっと待ってくれよ。それは結構だが、本当にできるのかよ。
自宅に車庫があるのなら、コンセントから充電することもできます。しかし、そうは行かない車の方が日本には多いのではないでしょうか。
写真は、ある大規模団地の駐車場です。集合住宅では自宅から車までコードを引き回すことは不可能です。ガソリン車やハイブリッド車なら空き地を舗装するだけで駐車場とすることができましたが、電気自動車(EV)となると充電設備を設けなければなりません。
2018年にパリに行ったとき、道路ワキの駐車場にもすでに充電用のポールが立っているのに驚きましたが、これからの10年間で日本津々浦々の駐車場に充電設備を整備することなど可能なのでしょうか。とても信じられません。
あるいは、EVへの全面切り替えではなくて、ハイブリッド車でお茶を濁すということなのでしょうか。それでは世界の流れにまたまた遅れてしまうような気がします。
どうすんだよ、日本。

ココランチがピンチだよ

2021.01.29


このココノッツのサイト内に「ココランチ」という、オフィスのある半蔵門・麹町界隈のランチの店を紹介するページがあります。そこがいまピンチです。
古くからある名店がある日突然閉店してしまったり、別の新しい店に入れ替わっていたり、それが激しいのです。
言うまでもなく、新型コロナが流行してから2度の緊急事態宣言とやらを経て、飲食店は苦境に立たされています。夜の営業が制限されるばかりでなく、ランチの客も減っています。出勤者を7割減らせと霞ヶ関方面から大声で叫ばれているのですから、そこからほど近い半蔵門あたりが影響を受けるのも当然でしょう。タクシードライバーの客が多いラーメン店の話では、タクシーも減車しているのでめっきり客が減ったそうです。
サイトで世の中に公開している以上、存在しない店をいつまでも「ココランチ」に掲載していてはフェイクニュースになりかねません。丹念に調査をして正しい情報にアップデートしなければならないのですが、私たちもテレワークでオフィスへ出勤する回数が極端に減っています。ランチをとる機会も減っているので実地調査もままなりません。
閉店が確認されれば紹介を削除しますが、その店舗で新たに開業した店があっても、それを代わりに紹介するというわけにも行きません。いつまた閉店してしまうか、いま状況ではなはだ覚束ない。そんなわけで掲載するお店がどんどん減ってしまいました。
コロナ禍はココランチまで苦境に陥らせております。幸い「ココランチ」の社会的インパクトはほぼゼロですが。

投書欄の落日

2021.01.12


学生時代の友人から「謹んでお知らせします」というメールをもらいました。「本日の新聞に下記の投稿が載りました」として、投書の内容がそのまま書かれていました。
いまの新聞の投書欄には高齢者と中学生や高校生からの投書が目立ちます。20代から50代の投書は少ない。読者層の高齢化を反映しているとも言えますが、働き盛りの人たちが自分の意見を発信したければ、TwitterをはじめInstagram、Facebook、YouTube、noteといったweb上のツールがたくさんあります。「発信弱者」とも言える人たちだけが、新聞の投書欄を利用しているとも考えられます。
かつて広報の担当者は、毎朝新聞記事をチェックするついでに、投書欄にもざっと目を通していました。一般の人たちの志向傾向をつかむのに有用と考えられていました。しかし、いま投書欄に目を通す広報担当者はどれほどいるでしょうか。それよりもネット検索をかける方がよほど有用です。
新聞が掲載する投稿も、以前よりは尖った投書が少なくなり、無難な意見や身辺雑記が採用される傾向が強いように感じます。友人の投稿もまた、まあ誰でも考えているような無難な内容でありました。

めでたさも中くらいなり

2021.01.01


今年の私の年賀状です。「謹賀新年」とか「賀正」とか「明けましておめでとうございます」といった新年を賀する文言をつかう気分ではありません。
COVID-19によるパンデミックの真っ最中に、めでたい、めでたいと言い合うことができるのか? 今年のような状況下でなくても、年賀状を書くたびに「何がめでたいのか?」という違和感を抱き続けてきたことでもありますし・・・。
年が改まれば昨年のことはみ~んな水に流してしまえる、ということなら確かにめでたい。しかし、そういうわけにも行きません。ずう~とつながっています。
去年今年貫く棒の如きもの
というこの時期にしばしば引用される虚子の句のように、貫かれているんですね、去年から今年にかけて。もっとも虚子の句の言わんとするところはもっと意志的なものでしょうけど。
それよりは、
めでたさも中くらいなりおらが春
という一茶の句の方が、今年にはよりふさわしいようにも思えます。

その呼び方は?

2020.12.07


「ポツンと一軒家」というテレビ朝日系の番組を毎週録画して、時間があるときに見ています。限界集落化が進む田舎の、さらにその奥に孤立している家屋の中で、どんな人たちがどのような生活をしているのか、のぞき見趣味のようではありますが素朴に興味をひかれます。視聴率もよいとのことです。
ではありますが、気になることもあります。
一軒家の捜索に向かう若いディレクターたちが、年齢のいった男性に対して「お父さん」と呼びかけ、女性には「お母さん」と呼びかける。それが少々鼻につくようになってきました。
親しげは雰囲気を出そうという演出かもしれませんが、親でもないのに「お父さん」、「お母さん」と呼びかけられる謂われはありません。では、他にどんな呼びかけの言葉があるのか。ないんですよね、日本語には。「おじさん!」ではおかしいし、「ミスター!」では長嶋さんになってしまいます。結局「あのう~」しかなさそうなのです。
と書きながら思い出したのは、イヌやネコの呼び方です。以前、犬猫病院の獣医さんと話していたら、患者のイヌやネコ(患犬、患猫でしょうか)たちを「あの子たち」と呼ぶのが気になって他の呼び方はないのかと尋ねたら、ないのだそうです。ペットを飼っている人たちもみな「うちの子が」なんて言っています。これも一度気になったら、気になってしかたがありません。ちなみに、私はイヌもネコも飼ったことがありません。家にはaiboが一匹(一台?)おりますが。

実用性の問題について

2020.10.19


役所からハンコをなくすのだとか。これについては賛成です。
どこかの役所で手続きをしようとしたら、書類に印を押すのを忘れていました。三文判も持ってきていません。サインや拇印ではだめだと言われて、一瞬途方にくれたら、窓口の人が言いました。
「そこを出たところの売店で認印を売っていますよ」。
何のためのハンコなのか、ますます途方にくれました。

ハンコはしかし、役所の非効率性のほんの一部分でしかありません。何故必要なのか、必要性がさっぱりわからない書類を何種類も添付しなければならない諸々の手続きの方を、ハンコより先に簡素化してほしい。そこに時間と労力とコストがかかり過ぎます。押印をなくすだけで達成感を演出し、行政改革はオシマイということにならないでしょうね。ちょっと怪しい。

こんなにハンコが話題になろうとはつゆ知らず、この春から篆刻を再開しました。書や水墨画などに押されているあの落款印を趣味で彫ろうというものです。20年ほど前にもしばらくやっていたので、道具は一通り揃っています。
COVID-19の流行で外出もままならない。7月は長雨で8月は猛暑。エアコンを利かせた部屋でできる、これは誠に家籠もり向きの趣味であることを再認識しました。と同時に、20年の時間の隔たりも感じました。一つは視力が落ちたこと。運転免許も裸眼で更新していますが、細かい印面を見つめると乱視がかなり厳しい。ルーペが必須となりました。もう一つはネットで多くの情報が得られるようになったこと。道具や材料はネットで揃いますし、プロの篆刻家が毎日YouTubeで篆刻の知識や技術を紹介しています。実演が見られますから、とても参考になります。
役所のハンコは実用の世界のものながら、よく考えたらその実用性がないじゃないかと指摘を受けたわけですが、落款印の方は趣味、遊び、芸術の世界のもので、もともと実用性など求められていなかったので、これからも生きながらえるのではないかと思います。
実用性を目指す学問と実用性を目指さない学問。どちらが長く生き残って行くのか・・・似てませんか。

いま読むべき本でした

2020.10.12


いまごろ読んでいるのか、と呆れられそうです。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」
奥付を見ると2001年3月の初版です(その後、増補版が出版されています)。20年間、自宅の本棚に眠っていました。それを読み出したのは、まさに新型コロナのおかげです。自宅に籠もる時間が長くなったので、手もとに読むべき本がなくなってしまいました。そこで本棚を漁って、未読のこの本を引っ張り出しました。
まさにいま読むべき本でした。戦後の占領期の混乱した政策が現在の政治や統治システムのおかしさ、不合理さ、居心地の悪さに直結していることがよく理解できました。
いまの政治家にもぜひ読んでほしい、あるいは読み返してほしいとつくづく思いました。しかし、どう見ても今日権力を握っている人たちが読むとは思えない本でもあります。どこかの知事が多少上から目線で発言したように、それだけの「教養」はお持ちでないのかもしれません。
なお、この翻訳はとてもすばらしい。まったく翻訳であることを感じさせないばかりか、ソースの日本語文献を丹念に参照しています。それにもすっかり感銘を受けました。

田舎町の水曜日

2020.10.09


関東の北東部にある町を訪ねました。カメラを持って出かけるのはほぼ8ヶ月ぶり。古い家並みが残っていると聞いたので、それらを被写体にしようという狙いです。
市営の広い無料駐車場は平日ということもあってかガラガラ。掲示板横の箱から案内地図を取り出して歩き出しました。
メインストリートと思われる道を歩いているのは、私のほかに駐車場のパジェロから降りてきた長髪の中年男性と女の子を連れた男性の計4人。みな観光客のようです。
まず観光案内所のような立派な施設に寄ってみました。案内所が左。観光パンフレットや地図が置いてあるホールの奥に事務所がありましたが、みなさん自分の仕事に熱心に取り組んでおられて、入って来た観光客には関心がないようでした。右が小さな博物館。発掘された土器から江戸時代の道具類まで展示されていました。
さて町歩きです。地図を頼りに600m四方ほどの地域に散在する○○家住宅とか××家住宅といった国の登録有形文化財に指定されている古い建物をざっと見て回りました。それぞれが個人の所有で実際に住んでおられる現役の建物だったりするので、内部を見学することは叶いません。外側から眺めるだけです。
余裕のある家は古民家であってもしっかり補修されています。一方で廃屋になっている建物も少なくありません。空き地もあちらこちらに見られました。店の多くも閉まっています。ほとんど人影を見かけません。車もめったに通らない。少々気が重くなってきて、写真を撮る気も萎えてきました。
「割烹」と看板を掲げた店が営業していたので、そこで昼食をとることにしました。まだ1時前なのに客は私だけ。
「水曜日は町の一斉休業日なんですか?」
店のご主人が答えました。
「そういうわけではないんですが、昔から水曜日に休む店が多いんです。ま、水曜日でなくても同じようなものですよ」

玉座のある会議室

2020.08.04


会議室の立派なテーブルを取り囲んだ椅子の中に、一つだけひときわ大きな椅子を置いている会社があります。その会社の最高権力者専用の椅子に間違いありません。最高権力者が出席しないミーティングでも、そのチェアに坐る人は誰もいません。侵すべからざるチェア。玉座とも言えるでしょう。
ある会社ではいくつかある工場の会議室にそれぞれ玉座が用意されていました。社長が工場に視察に来たときに備えているわけです。
社長はえらい。これはどの企業でも変わりません。企業のガバメントという観点からも、それは認めざるを得ないところがあります。社長の指示を社員が無視する会社というのはアブナイですから。しかし、社長の前では社員は何も言えない、ただただアタマを下げているだけ、という企業体質もまた非常にアブナイ。社長におうかがいを立てなければ何事も決まらない。にも関わらず、なかなか社長には具申できない。おっかなくて、なかなか言い出せないという企業体質なのではないかなあ。玉座のある会社にはそんな臭いがプンプンします。

ボクはやっと認知症のことがわかった

2020.07.17

私は原則として本はお薦めしないことにしています。関心や価値観は人さまざまですから。正直に言えば、他人から「面白いから」とか「ためになるから」などと言われるのは大迷惑です。なんの関心もない話題だったり、嫌いな著者だったりすることも少なくありません。義理で読んでいると、貴重な時間をこんな本のためにつぶされるのかと癪に障ることもあります。
ではありますが、この本は多くの高齢者やそのご家族には読む価値ありだと思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」KADOKAWA刊。

専門医が自らの専門とする疾患にかかる例はしばしば耳にします。認知症の第一人者である長谷川和夫先生もその例で、自分が認知症になってしまった。専門家と患者が合一してしまった。私たちが認知症を知る上でこれ以上の条件はありません。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない」という言葉には、専門家=患者であればこその説得力があります。むろん現実にはこの本に書かれているような美しい日常ばかりでないでしょう。憎しみや嫌悪が渦巻く修羅場もあるだろうとは思いますが・・・。
長谷川先生には一度だけお目にかかりました。PR誌の編集をしていた80年代、取材にうかがったかと思います。この本をまとめた読売新聞の猪熊律子さんにも、企業の広報担当者だったときに、一度だけ取材される側としてお会いしたことがあります。印象に残る記者さんでしたが、その後はコンタクトする機会はありませんでした。
それはともかく、かつて実際にお目にかかったお二人が組んでのよいお仕事だと思いました。

出たい人より出したい人

2020.06.16


最近はあまり目にしませんが、「出たい人より出したい人」という選挙の標語がありました。
報道関係の人たちがつくったある会で最近会長が交代しました。それまでの10年近くある男がその座に居座り続けました。ただの名誉職に過ぎませんが、それが彼の現在の職業を維持するために必要な肩書きだったのではないかと噂されていました。自分の所属する組織に有利となるような催しを強引に開いたりして会員の顰蹙を買っていましたが、そのような人物がなぜ長期間居座ることができたのかと言えば、会則で会長は立候補と決められていたからです。推薦人も必要ありません。理事会でナアナアで決めることになっています。名称だけは立派でも会員の老齢化が進み活気が失われつつある小さな会の会長など、よほど志のある人か、そこに利用価値を見出した人でなければなりたがりません。彼は後者だったようです。出たい人しか会長にならないという仕組みは、どうもいただけません。
現在の政治家さんにも志のある人はいるのでしょう(そう信じたい)けれども、日頃の言動や、やっていることなどを報道から知る限り、政治家になること、大臣や知事になること、あわよくば総理大臣になること、そしてそこからより多くの利益や名誉を得たいと思っている人たちの方がはるかに多いような気がします。
誰でも公職に立候補できるのは民主主義の基本ではありますが、同時に立候補という仕組み自体に、真の民主主義と矛盾する要素が含まれているのではないかとも思えてしまいます。だれか、そういうことを論じている人はいないかな。

新しい生活様式

2020.05.22


いま、私たちは生活習慣の、あるいは文化の歴史的な転換点に立っているのかもしれません。
人との間隔はできるだけ空けろだの、家に帰ったらシャワーを浴びろだのというお上のお達しのことではありません。
電話が黒電話から携帯、スマホと変わっても、私たちの第一声はいまも「モシモシ」です。ネット上の情報によれば1890年に日本で電話が開通したとき、「申し上げます」の「申し」が略されたことによるとのこと。英語のHello!に代わるものとして定着したらしい。
この2~3ヶ月、ネット会議だとかWEB会議がにわかに盛んになりました。少々ややこしい手順の末、モニターの画面に相手の顔が表示されたとき、さすがに「モシモシ」という人はいません。電話に似たようなものですが、相手の顔が確認できて表情がうかがえるとき、日本人は「モシモシ」を言わないのかもしれません。英語圏の人たちはWEB会議でも当たり前に「Hello!」と発しているでしょうから、これは日本独得の現象なのに違いありません。新発見ではないでしょうか。
その代り手を振る人が多い。「私はちゃんとここにいますよ」。会議ソフトの設定をちょっと誤ったりすると音声が届かなかったりしますから、これは有効なジェスチャーと言えます。
さらに、終わって会議から退出ときに手を振る人はずっと多い。「さようなら」、「バ~イ!」。
これって、新しい生活様式ではないでしょうか。それが生まれ、定着しつつある瞬間にいま私たちが立ち会っている。しかも世界共通のようなのです。これを歴史的な転換点と言わずして何としよう?

広報という人文知を軽んじるな

2020.04.27


4月26日付朝日新聞に掲載された京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授による寄稿「人文知を軽んじた失政」を読んで、ハタと膝を打ちました。
一部を抜粋します。
「これまで私たちは政治家や経済人から『人文学の貢献は何か見えにくい』と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。」
まさにその通り。
しかし、私が膝を打ったのは、もう少し下世話なレベルで思い当たるところがあったからです。
長く広報の仕事をしてきた中で、何度も何度も「この広報企画が業績にどのように貢献するのかわからない」と言われてきました。説教も受けました。
いまこそ言い返したい。
あなたたちは長い時間でものを考えていない。かすかな兆候から重要なエビデンスを見出すことができず、いつ直面するかわからぬクライシスに対する緊張感に欠け、教条主義、官僚主義的にしか人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てませんよ。
言いたかったなあ、あのとき、このとき、そのように。

記事はこちら>https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456624.html?iref=pc_ss_date

自分の表情という会議ストレス

2020.04.14


自宅勤務を専らとしてから2週間あまり。自宅のソファーにひっくり返ってスマホばかり見ていたら、目の焦点が合わなくなってしまいました。先月の自動車免許更新では、朝から目薬をさした効果か裸眼で合格しましたが、加齢とともに視力調節機能の回復は明らかに遅くなっているようです。
そのぼんやりした眼を見開いてPCの画面を見ております。テレビ会議です。
慣れてしまえば、テレビ会議は寄り集まっての会議に十分代替可能であると確信しました。これからはテレビ会議の方が主流となり、よほどの事情がない限り会議室に集まる必要はなくなるだろうと予測します。
となると大会社のズラリと並んだ会議室の半分は使われなくなります。テレワークが定着すればデスクを並べたフロアの面積も縮小する。すると不動産需要が縮小する。REITも暴落する・・・と風が吹けば桶屋が儲かるようなことを夢想していますが、それもヒマ、いや時間の余裕のなせるワザです。
そのテレビ会議、ITが苦手な人がまごつくのはやむを得ないとして、決定的な問題は自己嫌悪にありと発見してしまいました。。
ふつうの会議では、他の出席者の顔色をうかがいながら発言することはできますが、そのときの自分がどんな表情をしているかを自覚することはできません。ところがテレビ会議では、自分の顔をいやでも見ながら会議をしなければなりません。苦笑したり皮肉に口をゆがめたり、その表情が逐一目の前のモニターに映し出されます。これはまずい。心の動きがこんなに表れていようとは。他の出席者たちも無意識のうちにそれに感づいて、それぞれ自己規制をしているかもしれません。
会議の駆け引きに、自分自身の表情というもう一つの要素が加わります。思わぬストレスです。それが会議の流れにどのような影響を与えるか。経営学や社会心理学の新しい研究テーマになるかもしれません。

早生まれですが、なにか?

2020.03.30


この季節になると、早生まれの子には体力や学力のハンディキャップがあるか、というテーマの報道を目にするようになります。3月下旬生まれの身としては少々興味を惹かれるのですが、たいていは差があるんだかないんだかわからない結論でお茶を濁されてしまいます。
では自分自身ではどうだったのか、とはるか昔を思い起こしてみると、どういうわけか子どもの頃にハンディキャップを意識したという記憶がありません。そんなこと考えたこともありませんでした。
もっとも小学校1年生のときの算数の足算引き算競争では、いつもビリから2番目でした。常にビリだった田島君が早生まれであったかどうかは知りません。駆けっこも遅い方でした。運動会の徒競走では6年生にして初めて3着になりました。
それは確かにその後に影響を与えたようです。たとえば宴会のワリカンの計算。電卓もスマホも使える世の中ですから、やるハメになればやりますが、できれば他の人にお譲りしたい。苦手意識がそうさせます。スポーツは何をやっても上達しません。ゴルフを始めたときはなかなか100を切れませんでした。これも苦手意識が足をを引っ張っていたように感じます。
このようないくつかの事象はあるものの、社会に出てからはそんなことを意識したことはまったくありません。多くの報道と同様あいまいな結論になってしまいますが、それは大学受験で一年間のハンディキャップを精算してしまったからでもあります。

マスクがマスク

2020.03.18


マスク、ないですねえ。マスクが世の中からマスクされている、なんてシャレている場合ではないのですが・・・。
昨日、東京郊外の大病院の構内に出店しているセブンイレブンに寄ったら「マスクはレジで販売します」と空の棚に掲示が。レジで「マスクありますか?」と言ったら、「ありますよ~」と明るい声が返ってきました。確かにありました。1枚100円。
今朝の電車の中でノドがイガイガしました。ヴィックスを舐めても収まらず、数回咳をしてしまいました。これはまずい。周囲を見回すのも怖ろしく、あわててバッグからマスクを取り出しました。
いま10枚ほどマスクの手持ちがあります。コロナ騒ぎが始まる前に購入していたものです。持ってはいますが、感染していない人がマスクをしても無意味だという「専門家」のご意見に従って、街中でも電車の中でもマスクはしていません。それでいいのかどうか、確証はありません。人間は自分の意見を補強する情報ほど取り入れやすいと言うのが社会心理学の定説です。もともとマスクが大嫌いなので、その情報を取り入れているという、ただそれだけのことです。手持ちのマスクを使ってしまうのが惜しい、というケチな了見もそれなりにありますが。

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