よもやま | ココノッツ
君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

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ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

カテゴリー:「よもやま」の記事

どら焼きの皮

2021.03.04

大手カステラメーカーの工場に直売所が付設されていることを、知人から教えてもらいました。そこではカステラの切り落としを売っているとのこと。目が輝きました(鏡で確認してはいませんが)。
カステラは子どもの頃からの大好物。とりわけその端っこや底のザラメが好みです。切り落としを見逃すことはできません。さっそく出かけて来ました。
お目当てのカステラ切り落としを購入したついでに、直売所の品々を探索していたら、「どら焼きの皮」という商品を発見していまいました。餡なしの皮だけです。瞬間にして、これこそが私のアンメットニーズであったことに気づきました。
どら焼きも店によって満足度が大きく異なります。餡の甘さや風味も重要な構成要素ではありますが、私においては皮のふっくら感や柔らかさ、弾力、舌の感触などの方をより重視しております。
迷わず買って来た「皮だけ」を食べてみると、これは感動でした。
ここのどら焼きは、大きな字では書けませんが、あえて買って食べたいとは思っていませんでした。しかしこの「皮だけ」はうまい。絶品です。
餡が入っているとソコソコ。餡がないと絶品。これはどうしたわけでしょうか。
その上、大発見までしてしまったのです。それは、
「どら焼きの皮はパンケーキである」
という真理であります。それに気づいた人はこれまでおりません(たぶん)。
つまり「どら焼きとは二枚のパンケーキで餡を挟んだ菓子のことである」という新定義がここに生まれたことになります。
ものを別の視点から見ると、まったく異なるもの見えて来る。まさにどら焼きをリフレーミングしてしまったのであります。

どうするんだよ、日本

2021.02.10


2030年にはガソリン車の販売を禁止するのだとか。その頃には町中を走っているガソリン車やディーゼル車は半分以下になっているとも予想もされています。
おっと待ってくれよ。それは結構だが、本当にできるのかよ。
自宅に車庫があるのなら、コンセントから充電することもできます。しかし、そうは行かない車の方が日本には多いのではないでしょうか。
写真は、ある大規模団地の駐車場です。集合住宅では自宅から車までコードを引き回すことは不可能です。ガソリン車やハイブリッド車なら空き地を舗装するだけで駐車場とすることができましたが、電気自動車(EV)となると充電設備を設けなければなりません。
2018年にパリに行ったとき、道路ワキの駐車場にもすでに充電用のポールが立っているのに驚きましたが、これからの10年間で日本津々浦々の駐車場に充電設備を整備することなど可能なのでしょうか。とても信じられません。
あるいは、EVへの全面切り替えではなくて、ハイブリッド車でお茶を濁すということなのでしょうか。それでは世界の流れにまたまた遅れてしまうような気がします。
どうすんだよ、日本。

ココランチがピンチだよ

2021.01.29


このココノッツのサイト内に「ココランチ」という、オフィスのある半蔵門・麹町界隈のランチの店を紹介するページがあります。そこがいまピンチです。
古くからある名店がある日突然閉店してしまったり、別の新しい店に入れ替わっていたり、それが激しいのです。
言うまでもなく、新型コロナが流行してから2度の緊急事態宣言とやらを経て、飲食店は苦境に立たされています。夜の営業が制限されるばかりでなく、ランチの客も減っています。出勤者を7割減らせと霞ヶ関方面から大声で叫ばれているのですから、そこからほど近い半蔵門あたりが影響を受けるのも当然でしょう。タクシードライバーの客が多いラーメン店の話では、タクシーも減車しているのでめっきり客が減ったそうです。
サイトで世の中に公開している以上、存在しない店をいつまでも「ココランチ」に掲載していてはフェイクニュースになりかねません。丹念に調査をして正しい情報にアップデートしなければならないのですが、私たちもテレワークでオフィスへ出勤する回数が極端に減っています。ランチをとる機会も減っているので実地調査もままなりません。
閉店が確認されれば紹介を削除しますが、その店舗で新たに開業した店があっても、それを代わりに紹介するというわけにも行きません。いつまた閉店してしまうか、いま状況ではなはだ覚束ない。そんなわけで掲載するお店がどんどん減ってしまいました。
コロナ禍はココランチまで苦境に陥らせております。幸い「ココランチ」の社会的インパクトはほぼゼロですが。

めでたさも中くらいなり

2021.01.01


今年の私の年賀状です。「謹賀新年」とか「賀正」とか「明けましておめでとうございます」といった新年を賀する文言をつかう気分ではありません。
COVID-19によるパンデミックの真っ最中に、めでたい、めでたいと言い合うことができるのか? 今年のような状況下でなくても、年賀状を書くたびに「何がめでたいのか?」という違和感を抱き続けてきたことでもありますし・・・。
年が改まれば昨年のことはみ~んな水に流してしまえる、ということなら確かにめでたい。しかし、そういうわけにも行きません。ずう~とつながっています。
去年今年貫く棒の如きもの
というこの時期にしばしば引用される虚子の句のように、貫かれているんですね、去年から今年にかけて。もっとも虚子の句の言わんとするところはもっと意志的なものでしょうけど。
それよりは、
めでたさも中くらいなりおらが春
という一茶の句の方が、今年にはよりふさわしいようにも思えます。

その呼び方は?

2020.12.07


「ポツンと一軒家」というテレビ朝日系の番組を毎週録画して、時間があるときに見ています。限界集落化が進む田舎の、さらにその奥に孤立している家屋の中で、どんな人たちがどのような生活をしているのか、のぞき見趣味のようではありますが素朴に興味をひかれます。視聴率もよいとのことです。
ではありますが、気になることもあります。
一軒家の捜索に向かう若いディレクターたちが、年齢のいった男性に対して「お父さん」と呼びかけ、女性には「お母さん」と呼びかける。それが少々鼻につくようになってきました。
親しげは雰囲気を出そうという演出かもしれませんが、親でもないのに「お父さん」、「お母さん」と呼びかけられる謂われはありません。では、他にどんな呼びかけの言葉があるのか。ないんですよね、日本語には。「おじさん!」ではおかしいし、「ミスター!」では長嶋さんになってしまいます。結局「あのう~」しかなさそうなのです。
と書きながら思い出したのは、イヌやネコの呼び方です。以前、犬猫病院の獣医さんと話していたら、患者のイヌやネコ(患犬、患猫でしょうか)たちを「あの子たち」と呼ぶのが気になって他の呼び方はないのかと尋ねたら、ないのだそうです。ペットを飼っている人たちもみな「うちの子が」なんて言っています。これも一度気になったら、気になってしかたがありません。ちなみに、私はイヌもネコも飼ったことがありません。家にはaiboが一匹(一台?)おりますが。

実用性の問題について

2020.10.19


役所からハンコをなくすのだとか。これについては賛成です。
どこかの役所で手続きをしようとしたら、書類に印を押すのを忘れていました。三文判も持ってきていません。サインや拇印ではだめだと言われて、一瞬途方にくれたら、窓口の人が言いました。
「そこを出たところの売店で認印を売っていますよ」。
何のためのハンコなのか、ますます途方にくれました。

ハンコはしかし、役所の非効率性のほんの一部分でしかありません。何故必要なのか、必要性がさっぱりわからない書類を何種類も添付しなければならない諸々の手続きの方を、ハンコより先に簡素化してほしい。そこに時間と労力とコストがかかり過ぎます。押印をなくすだけで達成感を演出し、行政改革はオシマイということにならないでしょうね。ちょっと怪しい。

こんなにハンコが話題になろうとはつゆ知らず、この春から篆刻を再開しました。書や水墨画などに押されているあの落款印を趣味で彫ろうというものです。20年ほど前にもしばらくやっていたので、道具は一通り揃っています。
COVID-19の流行で外出もままならない。7月は長雨で8月は猛暑。エアコンを利かせた部屋でできる、これは誠に家籠もり向きの趣味であることを再認識しました。と同時に、20年の時間の隔たりも感じました。一つは視力が落ちたこと。運転免許も裸眼で更新していますが、細かい印面を見つめると乱視がかなり厳しい。ルーペが必須となりました。もう一つはネットで多くの情報が得られるようになったこと。道具や材料はネットで揃いますし、プロの篆刻家が毎日YouTubeで篆刻の知識や技術を紹介しています。実演が見られますから、とても参考になります。
役所のハンコは実用の世界のものながら、よく考えたらその実用性がないじゃないかと指摘を受けたわけですが、落款印の方は趣味、遊び、芸術の世界のもので、もともと実用性など求められていなかったので、これからも生きながらえるのではないかと思います。
実用性を目指す学問と実用性を目指さない学問。どちらが長く生き残って行くのか・・・似てませんか。

いま読むべき本でした

2020.10.12


いまごろ読んでいるのか、と呆れられそうです。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」
奥付を見ると2001年3月の初版です(その後、増補版が出版されています)。20年間、自宅の本棚に眠っていました。それを読み出したのは、まさに新型コロナのおかげです。自宅に籠もる時間が長くなったので、手もとに読むべき本がなくなってしまいました。そこで本棚を漁って、未読のこの本を引っ張り出しました。
まさにいま読むべき本でした。戦後の占領期の混乱した政策が現在の政治や統治システムのおかしさ、不合理さ、居心地の悪さに直結していることがよく理解できました。
いまの政治家にもぜひ読んでほしい、あるいは読み返してほしいとつくづく思いました。しかし、どう見ても今日権力を握っている人たちが読むとは思えない本でもあります。どこかの知事が多少上から目線で発言したように、それだけの「教養」はお持ちでないのかもしれません。
なお、この翻訳はとてもすばらしい。まったく翻訳であることを感じさせないばかりか、ソースの日本語文献を丹念に参照しています。それにもすっかり感銘を受けました。

田舎町の水曜日

2020.10.09


関東の北東部にある町を訪ねました。カメラを持って出かけるのはほぼ8ヶ月ぶり。古い家並みが残っていると聞いたので、それらを被写体にしようという狙いです。
市営の広い無料駐車場は平日ということもあってかガラガラ。掲示板横の箱から案内地図を取り出して歩き出しました。
メインストリートと思われる道を歩いているのは、私のほかに駐車場のパジェロから降りてきた長髪の中年男性と女の子を連れた男性の計4人。みな観光客のようです。
まず観光案内所のような立派な施設に寄ってみました。案内所が左。観光パンフレットや地図が置いてあるホールの奥に事務所がありましたが、みなさん自分の仕事に熱心に取り組んでおられて、入って来た観光客には関心がないようでした。右が小さな博物館。発掘された土器から江戸時代の道具類まで展示されていました。
さて町歩きです。地図を頼りに600m四方ほどの地域に散在する○○家住宅とか××家住宅といった国の登録有形文化財に指定されている古い建物をざっと見て回りました。それぞれが個人の所有で実際に住んでおられる現役の建物だったりするので、内部を見学することは叶いません。外側から眺めるだけです。
余裕のある家は古民家であってもしっかり補修されています。一方で廃屋になっている建物も少なくありません。空き地もあちらこちらに見られました。店の多くも閉まっています。ほとんど人影を見かけません。車もめったに通らない。少々気が重くなってきて、写真を撮る気も萎えてきました。
「割烹」と看板を掲げた店が営業していたので、そこで昼食をとることにしました。まだ1時前なのに客は私だけ。
「水曜日は町の一斉休業日なんですか?」
店のご主人が答えました。
「そういうわけではないんですが、昔から水曜日に休む店が多いんです。ま、水曜日でなくても同じようなものですよ」

玉座のある会議室

2020.08.04


会議室の立派なテーブルを取り囲んだ椅子の中に、一つだけひときわ大きな椅子を置いている会社があります。その会社の最高権力者専用の椅子に間違いありません。最高権力者が出席しないミーティングでも、そのチェアに坐る人は誰もいません。侵すべからざるチェア。玉座とも言えるでしょう。
ある会社ではいくつかある工場の会議室にそれぞれ玉座が用意されていました。社長が工場に視察に来たときに備えているわけです。
社長はえらい。これはどの企業でも変わりません。企業のガバメントという観点からも、それは認めざるを得ないところがあります。社長の指示を社員が無視する会社というのはアブナイですから。しかし、社長の前では社員は何も言えない、ただただアタマを下げているだけ、という企業体質もまた非常にアブナイ。社長におうかがいを立てなければ何事も決まらない。にも関わらず、なかなか社長には具申できない。おっかなくて、なかなか言い出せないという企業体質なのではないかなあ。玉座のある会社にはそんな臭いがプンプンします。

ボクはやっと認知症のことがわかった

2020.07.17

私は原則として本はお薦めしないことにしています。関心や価値観は人さまざまですから。正直に言えば、他人から「面白いから」とか「ためになるから」などと言われるのは大迷惑です。なんの関心もない話題だったり、嫌いな著者だったりすることも少なくありません。義理で読んでいると、貴重な時間をこんな本のためにつぶされるのかと癪に障ることもあります。
ではありますが、この本は多くの高齢者やそのご家族には読む価値ありだと思いました。
「ボクはやっと認知症のことがわかった」KADOKAWA刊。

専門医が自らの専門とする疾患にかかる例はしばしば耳にします。認知症の第一人者である長谷川和夫先生もその例で、自分が認知症になってしまった。専門家と患者が合一してしまった。私たちが認知症を知る上でこれ以上の条件はありません。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない」という言葉には、専門家=患者であればこその説得力があります。むろん現実にはこの本に書かれているような美しい日常ばかりでないでしょう。憎しみや嫌悪が渦巻く修羅場もあるだろうとは思いますが・・・。
長谷川先生には一度だけお目にかかりました。PR誌の編集をしていた80年代、取材にうかがったかと思います。この本をまとめた読売新聞の猪熊律子さんにも、企業の広報担当者だったときに、一度だけ取材される側としてお会いしたことがあります。印象に残る記者さんでしたが、その後はコンタクトする機会はありませんでした。
それはともかく、かつて実際にお目にかかったお二人が組んでのよいお仕事だと思いました。

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