君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

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ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

カテゴリー:「よもやま」の記事

守りのマスク

2020.02.19


このクルマ、ドアにクッションのようなものをぶら下げて駐車しています。隣のクルマのドアにぶつけられて、自分のクルマがキズつくのを防ごうということでしょう。その隣のクルマとはわが家のクルマのことです。仮想敵は私と連れ合いの二人です。これまでキズつけた覚えは一度もないにも関わらずです。当初は「新車だからなあ」と鷹揚に構えていましたが、だんだん不愉快になってきました。ロールスロイスじゃあるまいし・・・。
これが何かと似ていると気づいたのは昨今のことです。新型コロナウイルスの感染が拡大するにつれてマスクで外出する人が多くなりましたが、健康な人の感染を防ぐためにマスクは役立たないと専門家は言っています。すでに感染している人がマスクをするのは咳やクシャミによる飛沫を遠くに飛ばさないために有効であるということです。
クッションは元気な人のマスクです。クルマのドアの端に取り付けるプラスチック製の小さな緩衝材がありますが、あれをわが家のクルマにつければ、感染者のマスク同様、お隣さんのご心配を和らげることができるかもしれません。しかし、咳やクシャミが出るのは止められませんが、ドアを注意深く開けることはできますし実際にそのようにしています・・・などとあれこれ考えているうちに、なんだか犯罪者のような気分になってきました。
一昨日から37.7℃の発熱がありました。これが4日続けば相談窓口に電話してよろしいとのことでしたが、1日半で36℃台に下がりました。だからと言って新型コロナでないとは言えません。明日はマスクをして外出することにしましょうか。

独り酒の楽しみ

2020.01.29


外で独り酒を飲むことはまずありません。例外は旅先です。旅に出るときは一人が多いので、どうしても独り酒になります。ぶらぶらと繁華街の裏あたりを一周して、目星をつけた店に入ります。
カウンターに一人で坐るのはなかなかいい気分。これは人さまざまでしょうが。
その土地のうまい食材や料理をアテに酒杯を傾けるのが楽しみですが、酔いが回るほどに、他の客さんと話が盛り上がるのも独り酒の効用です。東北のある街で隣り合った40代初めの男性から聞いた身の上話は、関東出身の子連れの女性と結婚したが、間もなく女性は亡くなってしまい、残された子をやむなく施設に預けていまも毎月かかざず面会に行っているというものでした。いろいろな人生があるものだなあ、と胸にしみたのでした。
会話をするまでに至らなくても、隣の客同士の話が耳入ってくるのも独り酒ならではです。盗聴するつもりはありません。一人だと自然と耳に入ってくるのです。
少々事情があり、先日バスを途中下車して鮨屋の暖簾をくぐりました。カウンターの先客は、年配のご夫婦とその娘とおぼしき女性の3人。うまい地酒と高いネタを次々の注文していました。耳に入ってきたのは、女性は離婚を経験したこと、初めて鮨屋に両親を連れてきたことなどです。お父さんもお母さんもとても嬉しそうで、親孝行しているのだなあと、こちらの心も温かくなりました。
ちなみに、帰がけ勘定を払ったのはお父さんでした。

放っておいてよいものか?

2020.01.22


かつて大騒動になったWELQ問題以来、ネット上の医療情報に関しては非科学的な情報が少なくなったようです。Google検索では上位に比較的まともな情報が上がってきます。そのようなアルゴリズムに改善されたそうですが、それでも眉唾ものの情報がなくなったわけではありません。
世の中には科学的な事実よりも反科学主義的な考え方を好む人たちもいて、そのような人たちは吸い込まれるようにおかしな情報にリーチしてしまうようです。自分だけが信じるなら、それはご自由ですが、さらにSNSなどで拡散しようとするのを見ることも少なくありません。
そのときどうするのがよいのか、少々迷うことがあります。こちらは医師でも研究者でもありませんので、頭に蓄えている情報はすべて伝聞情報にすぎません。自分の知識が絶対正しいという自信はまったくありません。それでも、あまりにもおかしな情報を、それも知人が信じ込んで拡散しているのを見たりすると、これを放っておいてよいのかと迷ってしまいます。コメントに「これはフェイクですよ」などと書き込めば、人間関係には好ましい影響を与えません。が、SNSは半ば公共的なメディアですから、その投稿を読んで信じ込む人がほかにも出てくるかもしれません。
こんなことで、自らの倫理感を試されることになるとは・・・。

ある企業戦士の死

2020.01.14


昨秋、一人の男が死にました。心筋梗塞と聞きました。
成功したサラリーマンでした。若いときは理不尽な上司に虐められました。いまならパワハラとして告発する方法もあったでしょうが、当時は我慢するか会社を辞めるかしか地獄から抜け出す方法はありませんでした。彼は我慢を重ねてしのぎつつ、支店長として営業成績を上げ続けました。
その後、会社の体制が変わった流れに乗って、昇進の道を突き進みました。
睡眠時間は3時間と決めました。当然、昼間は眠い。それを隠しながら仕事をしました。1年に100冊の読書をすることを自らに課しました。新しいツールにはすぐに飛びつきました。シャープが全盛の頃に売り出した電子手帳Zaurusの新型が出るたびに次々に買い換えました。Suicaが出ると、現金なしでどこまで暮らせるかに挑戦したりしました。
社外でも顧客である某職能団体と深い関係を構築し信頼を勝ち取りました。著書が数冊あり、講演依頼が引きも切らずの状態となりました。
若手の役員として経営の中枢を担いました。しかし、社長にはなれませんでした。会社を離れてからは消息を聞くこともまれになりました。会社のOBたちが集まると、昔の仲間のウワサで盛り上がるのですが、彼の話はトンと聞きませんでした。誰も彼に関心がないようでした。そして突然の訃報に接しました。
彼について深くは知りません。親しくもありませんでした。しかし、いまは耳にすることが少なくなった「企業戦士」という言葉を聞くたびに彼を思い出します。ご冥福をお祈りします。

新年のご挨拶とさせていただきます

2020.01.06


あけましておめでとうございます。
今日から仕事始めということで、メールも電話も少ないので業界各紙の1月1日号をパラパラめくっております。
恒例の、というべきか、毎年変わり映えもせず、というべきか、役所の幹部やら業界団体のトップやらの年頭所感がいくつも掲載されています。はっきり申し上げて、ほとんど読む価値がありません。
思い起こせば筆者もかつて年頭所感のゴーストライターをつとめた経験が少なからずあります。執筆のコツは、その時々のトピックスを散りばめること、厳しさを強調しつつも期待感を表明すること、署名筆者の個性をほんの少し臭わせること、そして何はともあれ無難な内容にすることなのです。読み手の参考になったり、役に立ったりする内容を提供しようなどとは少しも考えません。故に、読む価値がないのです。
仕事柄、それらを承知の上で斜め読みしましたが、7割方の結びの言葉が、「・・・を持ちまして、新年のご挨拶といたします」とか「新春の挨拶に代えさせていただきます」という紋切り型で終わっていることに、いまさらながらうんざりさせられました。これから各所で開催される賀詞交歓会でも「業界のご発展を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます」が締めの言葉になります。まあ、目くじらを立てるほどのことでもありませんが、こんな言葉を読んだり聞いたりするたびに、年が明けても世の中変わらないなあ、と思うのであります。

年末年始の恒例です

2019.12.27


今年も暮れようとしています。オフィスに出てくるのも今日でおしまい。仕事納めではありますが、いわゆる「仕事」はしていません。セーターにチノパン姿です。で、何をやっているかと言えば、PCのCPUとマザーボードの交換です。私がオフィスで使っているPCは、自分で組み立てた自作マシンなのです。
実は昨年の年末年始も似たようなことをしていました。PCのハードディスクをSSD(メモリー)に置き換えてスピードアップしようとして見事に失敗。どろ~んとした気分のまま年を越し、新年の数日をOSのクリーンインストールとアプリの設定という非生産的な作業に費やしたのでした。
そのようなトラブルの可能性を考えて年末年始にPCをいじっているのですから、想定内と言えば想定内であったのですが・・・。
さて今年は、PCの動作が突然遅くなったり固まったりする不快な症状を解決するのが目的です。しかし、昨年の苦い経験があるからビクビクもの。少々緊張しました。
結果はあっさり「成功」です。動作が速くなったようです。いくつかのトラブルに見舞われ、来年へ持ち越す宿題も残していますが、昨年より気分はだいぶマシです。
さあ、もう作業はおしまいにしましょう。みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。

「いいね」はもういいね

2019.12.13

FacebookやTwitterなどへの投稿に対する「いいね」について、心理学やら社会学やら民俗学やら、ネットでいくつかの考察を読んでみましたが、どれが「いいね」なんだか「よくないね」なんだかよくわかりませんでした。「いいね」が多いとうれしいのは承認欲求が満たされるから、という説には納得できますが、若い人たちは「いいね」をつけるかどうかですべての事象を判断している、みたいな極論には「いいね」をつけかねます。それほどのものかどうか・・・。
Facebookなどに投稿すると、何でもかんでも「いいね」をつけてくる人がいます。知り合いの投稿には、中身を読まずとも「いいね」をつけるのが礼儀と心得ておられるようです。「読みました」というお印といった意味合いもあるでしょう。一方で、まったく「いいね」を送って来ない人もいます。何万というフォロワーを持つタレントさんや有名人なら理解できますが、そうでない人たちの場合はどういうことなのか? 威張っている、見下している、ばかにしている、まあそんなところでしょう。こちらは、ときどき「いいね」しているというのに・・・。どちらにしても「いいね」がうざったいことには変りありません。SNSにも少々飽きてきました。世の中でもいまがSNSのピークである、と大胆に予言しておきましょうか。

手のシワ

2019.12.02

ベッドで本を読んでいたら、自分の手のシワに気づきました。既視感がありました。思い出したのは祖父の手のシワです。小学3年生のときに亡くなった祖父からは、いつも本を読んでもらっていました。その時の手のシワを覚えているわけではありませんが、一瞬懐かしさが胸をかすめました。
エリザベス・テーラーもフランク・シナトラも、顔は施術によって若々しく見せていましたが、首と手のシワだけは隠せなかったとどこかで読んだ覚えがあります。祖父の年齢までにはまだしばらくありますが、現実を突きつけられたような気もします。ハンドクリームを塗っておけば、ここまでシワが目立たなかったかなあ。無駄な抵抗はやめよ・・・はい。

 

読了しました

2019.11.26

先日めでたくマルセル・プルースト著「失われた時を求めて」の日本語訳全14巻を読了しました。4年ほどかかりました。読むのが遅かったのではなく、新訳の発刊がなかなか進まなかったからです。写真のように光文社古典新訳文庫版で読み始めたのですが、なかなか続きが出ないので(現在も未完結)、第5巻から岩波文庫に乗り換え、新訳が出るたびに読み進んで今日に至りました。
個人的な経緯(いきさつ)もあって10代後半からいつかは読みたいと思いつつ半世紀を超えてしまったことになります。「個人的な経緯」というのは、私が「フランス文学専攻」という学科を卒業しているからです。それなのにフランス語が話せないと、これも半世紀にわたって揶揄され続けてきましたが、フランス「語」専攻ではありません。苦しい弁解ではありますが、実際その通りです。フランスの文学が好きだっただけです。そのような経緯の中にフランス文学の金字塔とも言われる「失われた時を求めて」が存在していました。
この小説を広くお勧めする気は全くありません。日本では専門家とマニア計100人くらいの人が読めば十分だなというのが率直な感想です。文芸評論家風に説明すれば、20世紀初頭のフランス社交界を舞台に貴族の没落とブルジョワの台頭、社交界人士の同性愛などをからめ、一方で時の流れに抗い、流され、老いて行く人間の姿を描いた小説でもあります。時の移ろいの描写はともかく、延々と続くサロンの描写に日本人は飽き飽きしてしまいます。自分自身につながる何物もそこに見い出せないからです。したがって面白くもなんともない。かくして日本人が読了することが極めて少ない小説の一つとなりました。
読み終えてやっと肩の荷を下ろした気分です。

靴は磨けよ、ってか?

2019.11.05

料亭の女将は客の靴を見て人物を評価するという伝説があります。
それを信じてか、以前の勤め先の社長は、社有車にピカピカに磨いた革靴を常時載せていて、料亭やパーティに行くときは車中で履き替えるという演出をしていました。それでなにかいいことがあったのかどうかは知りません。
オシャレなスーツを着ているのに、革靴にはクリームを施した形跡なくカカトもつぶれている人がいます。洋服や髪形に気を遣っている割に靴に神経が行き渡らないのはなぜなんでしょう。頭隠して尻隠さず。革の表面がすり切れた靴がカッコいい、という文化はたぶん存在しないと思うのですが。
奥さんがご主人の靴を磨くというのもサザエさん時代の話で、共働きが当たり前で男女差別にやかましいいまの時代では、自分の靴は自分で磨かなければなりません。ところが、靴磨きというのは思いの外面倒くさい。疲れる作業です。問題は立って磨けないということ。普通の椅子でも高すぎる。街の靴磨きさんのような低い椅子を使うか、しゃがむか、床に腰を下ろさなければ磨きにくいんです。これがしんどい。それを考えると、ついついおろそかになりがちです。
スニカー出勤が増えて来た昨今では、そんな価値観は滅びつつあるのかもしれませんが。

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