カテゴリー:「よもやま」の記事
マネジメントは人間関係をつくれるか?
2017.03.27昨日の千秋楽、稀勢の里の逆転優勝の相撲には久しぶりに感動してしまい、涙が出てしまいました。日本国中の心が一つになった、などと言ったら、もっと別のことで一つになってほしいと保守派の人たちは思うのでしょうか。相撲でよかった。
それはさておき、優勝が決まった瞬間に、弟弟子の高安も号泣したとか。いい話ですね。この部屋の力士たちの人間関係はとてもうまく行っているのだろうと想像できます。何年も同じ部屋で稽古を続ける中で形成された仲間意識が、こういう場面で発露したのでしょう。
終身雇用の時代の日本企業がこうだったなあ、と思います。終身雇用を賛美するつもりはありませんが、何年か一緒に働くことで仲間意識や信頼関係が醸成され、組織の求心力が高まるという面は否定できません。そこへ行くと、新興企業や外資系企業のような労働流動性の激しい組織では、社員同士が互いに信頼しきれていない状況が出現します。企業としての成功より、自分自身の評価が優先します。もし田子の浦部屋がそうなら、横綱が優勝しても、高安が号泣することはなかったでしょう。
経営学のさまざまなテクニックを駆使しても、本当に強い仲間意識をつくりあげるのは容易ではありません。マジメントの技術がどこまで人間くさい情の領域に介入できるのか、少々懐疑的であります。
経験の価値
2017.03.14NHK連続テレビ小説『べっぴんさん』の視聴率が20%を超えたのだとか。出勤時間と重なるので、出だしの2分間くらいしか見ていませんが、なんとなく辛気くさくて盛り上がりに欠ける印象です。さらに、俳優さんがみな若いことが気になります。一生懸命老け役に挑戦しているのはわかりますが、舞台ならともかく、リアリティが求められるテレビドラマでは、学芸会を見ているような違和感が拭いきれません。
企業にも同じことが言えるようです。若い人の抜擢、活用は大切なことですが、若い人たちだけの組織は、どこか脆弱に感じられます。「常識」はずれの判断をしてしまったり、不可思議な失態をしてしまうのをしばしば目にします。経験豊かな人材が社内にいないことがその遠因になっているのではないでしょうか。若い人たちだけで構成されている組織では、経験値、あるいは暗黙知が累積しにくい。社歴の浅い人たちばかりの組織では、お互いの信頼関係が醸成されておらず、阿吽の呼吸が望めません。腹の探り合いばかりして余分なエネルギーを消費するばかりです。MBAも結構ですが、経験の価値にも目を向ける必要があります。
DeNAの第三者委員会報告の報道を読みながら、ここにも一例があったと思いました。
やはりリアルワールドか
2017.03.06遠出をしたり出張したりするとき、ちょっとうまいものを食べないなあと思いますよね。以前(だいぶ前ですが)だったら、“食べログ”などで検索して探したのですが、近頃はどうもいい店が見つかりません。Googleで検索しても上位にはそれらの大手飲食サイトがずらりと並ぶばかり。ステマとまでは言いませんが、本当に「いい店」はネットでは探せなくなっています。
それらの飲食サイトの“口コミ”をみると、妙に上手ぶった文章がならんでします。「ヨメさんとどうしたこうしたので、どこそこへ行ったら満員だったのでこの店に行ってみた・・・」などと、こちらには関係ないどうでもいいことがズラズラ並べられていて、うまかったのかまずかったのか、なかなか結論に到達しません。“ガッテン”じゃないんだから、そんなにひっぱらなくてもよさそうなものです。食べる前にヘドが出そうになります。
一体あの“口コミ”はなんなのでしょう。どこにも自己表現する場のない人たちが、あそこで自己満足に浸っているのでしょうか。それとも消えた某健康サイトのような裏マニュアルが存在しているのでしょうか。
やはりリアルワールドで友人知人から教えてもらうのがたしかだということになるのでしょうね。
嘆く前にやることが・・・
2017.02.22製薬協が京大大学院でやっていた寄付講座「医薬産業政策学」のシンポジウムが先週、丸ビルで行われました。知人に誘われて初めて行ってみたのですが、今年度で寄付講座が終了するために、シンポジウムも今回が最後なのだとか。高額医薬品と財源が今年のテーマでした。
盛りだくさんのプログラム内容はさておき、主催者である教授が最後に発した言葉が誠に印象的でした。「毎年シンポジウムを開いてきたが、参加者は製薬会社の人ばかりで残念だった」。
当たり前です。一部のジャーナリストを除いて、製薬業界以外にシンポジウムの開催を知る人がほとんどいないのですから。
医学系ばかりではありませんが、とかくアカデミアや一部の行政の方々は、イベントを開催することだけにほぼすべてのエネルギーを費やして、参加者を集めるための告知の重要性に気づかないケースが少なくありません。また、告知にはそれなりのコストが必要であることの認識にも乏しい。いくら立派なイベントでも、誰も集まらないのでは効果は望めず、単なるマスターベーションに終わってしまいます。
今回のシンポジウムは、製薬業界の人たちばかりとは言え、ほぼ満席でした。それで十分とは言いませんが、嘆くくらいなら、その前に努力しなければならないことがあったのではないですかね。
カブル
2017.02.152月25~26日は国立大学の入学試験日なのだそうです。福岡では、ちょうどその日に人気グループの大きなコンサートが予定されていて、受験生の宿が不足しているのだとか。そこで西鉄が自社の寮などの宿泊施設を受験生に提供することにした、というニュースがありました。
コンサートの主催者側も、この季節ですから入試スケジュールとかち合わないように配慮してほしいものですが、諸々の事情でそうも行かなかったのでしょう。
地方都市へ出張しようとすると宿がとれないというケースにはしばしば遭遇します。調べてみると医学系の学会が予定されていたりします。その学会に関係していないこちらにとっては大いに迷惑なのですが、これもやむを得ないとあきらめるほかありません。
私たちの仕事では、メディアイベントが他社とカブルという事態にしばしば見舞われます。似たようなメディアイベントが重なると、出席してくださるジャーナリストが分散してしまい、お互いによいことはありません。しかし、日時の決定は主催する企業様のご都合によることが多いので選択の余地がほとんどありません。他社の動向も調べてはいるのですが、同じようなタイミングで案内が出るので避けようがないのが現実です。これを回避するよいアイデアがあればなあ、と考えるのですが、なかなか思いつかないのであります。
民主主義で選ばれた封建君主
2017.02.06種々の矛盾を抱えながらも自由主義、民主主義を建前としてきたアメリカ合衆国が、その制度のもとで選んだのが、大統領を中世封建君主と勘違いしている人物だったとは・・・もうマンガですね。
しかし、民主主義がこういう事態を引き起こす仕組みでもあることを、世界中が再認識させられたのではないでしょうか。これが、あらためて自由主義、民主主義、市民社会の原点を見直すきっかけになれば、それはそれで悪くないかな、などと楽天的にも考えてはいるのですが、それでも世界中の多くの人たち不愉快に感じているのと同じように、不愉快です。その不愉快な気分が社会をどう変化させて行くのか・・・不安ながらも興味津々です。
なにをいまさら
2017.01.19文部科学省が高級官僚の天下りを組織的にあっせんしたと報じられています。なにをいまさら、と思わないでもありません。
ある元ノンキャリ官僚さんは、もうそろそろかなと思ったので、所属する役所の人事課へ退職を申し出て、次の就職先を斡旋してもらったと自慢げに話してくれました。銀行が取引先に行員を送り込んだり、大会社が子会社や下請けに社員を送り込んだり、そういうことは日本では「当然」と受け止められてきました。電通や三菱電機で摘発された過重労働もしかりです。「私ら、若いときはあんなことは普通やったしなあ」と、ある医療機器企業のOBが言っていました。そういう昔からの悪しき慣習が、これらの問題化をきっかけに是正されるのでしょうか。信じられません。
それにしても、天下りを唯々諾々と受け入れた大学も大学ですね。卒業生の顔を見たいもんです。というわけで、いま鏡を見ております。自撮り写真は失礼させていただきます。
いや、お恥ずかしい
2017.01.11「特発性」がつく疾患名には、特発性血小板減少性紫斑病、特発性拡張型心筋症、特発性間質肺炎、特発性正常圧水頭症など数々ありますが、要するに原因がわからないということ。「突発性」がつく疾患名には、突発性難聴、突発性発疹などがあり、これは文字通り突然発症するという意味でしょう。その違いは一応存じておりました。
にもかかわらず、「特発性」と書くべきところを〈toppatsusei〉と打ち込んでしまい、気づかずにコピペしたものだから、何カ所も間違ったまま某社へ送ってしまいました。いや、お恥ずかしい。まさに特発性ミスタッチであります。
古い話ですが、米国でつくられた医学映画(ビデオではない!)に日本語のナレーションを吹き込む仕事がありました。その日本語台本に「増悪」という医学用語がありました。これを「ぞうお」とナレーターに読ませて日本語版を「完成」させてしまった人がいました。いや、私ではありません。
どうしても成長しなければならないのか?
2017.01.10正月になると、どうして新聞は大所高所からの論説をしたがるのか、よく考えるとよくわかりませんね。
朝日新聞が、3日付でしたか、経済の成長は本当に必要なのかと論じて各方面から批判されたようです。しかし、「産めよ殖やせよ」といくら叫んだって人口は増えませんよ。人々の考え方や社会状況が子どもを産むことをモチベートしていないのですから、いくら育児手当を増やしても効果は限定的でしょう。人口減よりGDPの減少の方が少なければ、それで十分ではないでしょうか。売上高より利益、とは経営難の陥った経営者がしばしば口にすることですが、ここしばらくはそのような考え方をした方がよいような気もします。冨の再配分のために増税をして、少しでも多くの人がまあまあの生活ができる社会を目指すべきではないかと、市井の素人経済評論家としては考えるのですが。