Cocoknots

株式会社ココノッツ

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が
広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

君島邦夫のココノッツブログ

ココノッツ創立者であり現在は取締役会長の君島邦雄が広報や医療に関する話題を中心に日常感じたことを勝手に書いています。

「脱腸外科医のドキュメント」

2013.08.14

小児外科の認定医は昨年の統計で596名。小児の手術は、外科の中でも特殊な領域で、トレーニングを受けた医師でなければ難しい領域と言われています。それだけに、深刻な医師不足の状態が続いているのだそうです。
その小児外科の分野を石川県で初めて開拓したのが、元石川県立病院診療部長の浅野周二さん。それだけでも大した業績なのですが、そのほかにも県のサッカー協会の副会長とかEU協会会長といった公職を務められる県の名士でもあります。またこの方、並々ならぬ健筆家で、すでに数え切れないほどの本を出版されています。どうしてそんなに書けるのか・・・このところすっかりこのブログを怠けている私には、驚異としか言いようがありません。ま、穿った見方をするならば、泣く子と地頭とアマチュア文筆家には勝てないといったところでしょうか。
その浅野さんから近著をお送りいただきましたので、ご紹介させていただきます。この10年ほどの間に、讀賣新聞石川県版や北陸中日新聞などに連載されたエッセイなどをまとめられたもたものです。
脱腸外科医のドキュメント
「脱腸外科医のドキュメント」 叢文社刊 1500円

本の帯にいわく「まじめ調やらふざけ節! これ学者向け? 庶民向け? 有益無益ごっちゃまぜ」。これに加える感想はありません。〈kimi〉

易連絡社会

2013.07.09

メールを出して、その日のうちに返信がないと少々イライラする、という人も少なくないはず。私もその一人です。
今日は出張なんだろう、お休みかな、などと推測しながら返信を待っていたのはもう過去のこと。近頃はタブレットやスマホがあれば、どこででもメールが読めるし返信もできます。
それなのに返信が来ないとなれば、気にさわるようなことを書いてしまったかな、返信を遅らせてこちらの出方をみているのかな等々、少々ひねくれた方向に気を回してしまうことさえあります。と思ったら、「ごめんごめん。昨日はスマホを忘れて外出しちゃってさ」と回線電話で詫びが入ったり・・・。
いまだって、何度電話しても不在だったり、つながらなかったりすることはあります。FAXを送っても目的の人の手もとに届かないことはあります。ハガキが明日配達されるという保証もありません。そんなことは15年ほど前なら「常識」として許容していたはずなのに、いまは“とてもがまんがならない”ということになってしまいました。
15年前と同程度の連絡の取りやすさで仕事をしているにもかかわらず、いまの「常識」ではすっかり連絡がとりにくい人になってしまった、という人たちがおられます。その多くは、年を重ねても現役で働いておられる方々です。連絡がとりにくいとなると、仕事を頼む方も不便を感じるわけで、彼らはいまや大きなハンデキャップを負っていることになります。これは社会的に、もう少し問題にされてもよさそうな気がします。〈kimi〉

名山三題噺

2013.06.18

高尾にうまそうな蕎麦屋があると知ってわざわざ出掛けたら、ご主人が急病とかでお休み。急病では仕方がありません。駅に向かってとぼとぼ歩いていると、高尾山裏登山道というのに出くわしました。頂上まで行くつもりは端からないものの、景色のよさそうなところまで行ってみようかという気になって歩き出しました。20mも登ったでしょうか。そこまでで引き返しました。坂道って、こんなにキツかったっけ・・・?
NHKのBSで毎週放送している「にっぽん百名山」という番組が気に入っています。テレビの前で寝転びながら、登山ガイドさんと一緒に山を登っているような気分にさせてくれます。360度のパノラマ、高山植物のお花畑、どこまでも続く稜線。一度この目で見てみたいとは思うものの、これから先、その場に立つことは金輪際あり得ないことはわかっています。とくに残念だとも思いません。
世界遺産に登録されるという富士山にもとうとう一度も挑戦しませんでした。一度だけ思い立ったことはあるのですが、その前年に登った人の話を聞いて気持が萎えました。その人は言いました。
「ずうっと前の人のお尻ばかりを見ながら登って行くのよ。それで八合目あたりから、すごく臭いんだ。気圧が低くなるからガスが出るんだよ」
ウソかマコトか存じません。
自分の足で富士山に登るのはしんどいからと、物資補給のブルトーザーに便乗して登頂した人がいるという、これまたウソかマコトかわからぬ噂も耳にしたことがありますが、そんなことまでして登る気などはさらさらありません。
三浦雄一郎さんは80歳でエベレストに登ったではないか、などと言われても勘弁していただきます。これから先も、「にっぽん百名山」で登山気分だけを味合わせていただきます。
以上、ミシュラン三つ星の高尾山、世界遺産の富士山、80歳登頂のエベレストの三大名山、三題噺でありました。〈kimi〉

広報では常識ですが

2013.05.31

橋下大阪市長の発言の「歴史認識」についてはコメントできるほどの知識を持ち合わせていませんが、危機(彼にとっての)への対応には首をかしげざるを得ません。
問題点はいくつかあると思うのですが、「誤報だ」とメディアに責任を押しつけたのはいただけません。囲み会見での発言はすべて各新聞社がICレコーダーで録音しているし、TV局はビデオで撮影しています。発言の全文を掲載した新聞もいくつかあります。これでは誤報もなにも起こりようがないことは誰の目にも明らかです。そこをいくら責任転嫁しても事態を悪化させるばかりです。
見出しに文句をつけるのは苦し紛れでしょう。新聞の編集権は言論の自由に関わる問題です。そう堂々と反論すればいいのに、「間違ったことは決して書いておりません」といった主旨の言い訳をしている新聞があったのには驚きました。企業が記事にクレームをつけたときの対応とはずいぶん違いますね。
危機広報では、饒舌に弁解すればするほど泥沼に陥るリスクが高まるのは、広報を経験した人ならみな知っていることです。企業でも、内向きの論理で強気に出たがる経営者が少なくありません。それでは社会の納得が得られません。
彼が弁護士であることも象徴的です。企業が危機に直面したとき、広報の専門家のアドバイスを軽んじて弁護士の意見にだけ従うのは大きなリスクです。相手を証拠と論理で論破しても、得られる利益はそれほど大きなものではなく、反対に失うものの方がはるかに大きい。しかも、回復が困難なダメージを受けてしまう可能性が高いということは、広報の常識となっているのですが。 〈kimi〉

「騒ぎが収まる」ことと評判リスクを解消することとは別であると認識する必要がある。危機収束を速さよりはるかに重要なのは、顧客が他のステークホルダーなどが会社および経営陣を好ましいものとして心に留めるか、好ましくないものとして心に留めるかである。

-- ダニエル・ディアマイアー著 斉藤裕一訳「『評判』はマネジメントせよ」(阪急コミュニケーションズ刊)より

気になる専門誌

2013.04.18

産経を除く全国紙朝刊1面の下は書籍広告と決まっています。新聞の「品格」を保つためだとはるか昔に教わった覚えがありますが、朝日新聞広告局のサイトに詳しく解説されていました。もっと詳しいというか、愚痴やら苦労話が読めるのは白水社のサイトです。
それはともかく、見る気はなくても目に入ってしまうのがあの書籍広告です。自分の仕事や興味とはまるで関係のない分野の本や雑誌の広告が妙に気になったりします。
たとえば柴田書店の広告。シェフや板前さん、飲食店経営者など玄人向けの専門誌をいくつも出している出版社です。その書籍広告によれば、いま販売中のMOOK「居酒屋」の特集は「つよい看板商品をつくろう」だそうです。そう言われれば、麹町の居酒屋でも金目鯛のしゃぶしゃぶとかきんきの一夜干しとか、看板商品を持っているお店にはまた行きたいなあと思わせる魅力があります。同じ出版社の「専門料理」や「月刊食堂」も、一般向けのグルメ雑誌よりは内容が濃いのではないか、と期待を持たせます。
前々から気になっている雑誌に「寺門興隆」があります。以前は「月刊住職」という誌名だったそうです。お坊さん向けの専門誌ですね。寺門外漢には理解不能と思われる難解な特集が並んでいますが、「葬送儀礼の秩序が急激に崩壊しはじめているその本当の理由」とか「節分の豆まきは危険だという声にお寺はどうすればいいのか?」なんて・・・ちょっと興味をそそられませんか。
同じく仏教系の雑誌に「大法輪」というのもあって、先月号の特集は「神社と神さま」。仏教雑誌がなぜ神様を特集するんだろうと、興味を惹かれてとうとう買ってしまいました。日本の神道の初歩知識がコンパクトにまとめてあって、とても勉強になりました。〈kimi〉

残念なこと

2013.04.15

この春先から、就職ポータルサイトを使って人材募集を行いました。弊社としては初めてのことです。ありがたいことに何十名というご応募をいただきましたが、勉強になりましたね、これは。現代社会のありようが応募してくださった皆さまから透けて見えるような気がしました。
その一つは、正社員になった経験がない方々の応募が多かったこと。社会に出て以来契約社員やアルバイトで生計を立てておられる若い方がなんと多いことか、ずしりと実感いたしました。
もう一つは、50代半ばの方のご応募が少なくなかったこと。就業規則で定められた定年より前に、「もうそろそろ」という雰囲気になるのか、させられるのか、どちらにしても第二の人生を探さなくてはならなくなるのでしょう。
採用側としては、全員の方にお目にかかることは物理的に不可能なので、経歴などの書類を見てふるい落とさなければなりません。これが大変なストレスです。確実に言えることは、お断りした方の中に採用すべき方がいたに違いないということです。書類じゃわからないのに書類で判断しなくてはならないという矛盾がストレスの原因です。
何名かの方とは面接をさせていただいたのですが、結局ポータルサイトからは一人も採用せず、別のルートでベテランを1名採用しました。
この人材募集でちょっと残念な出来事がありました。ある応募者と面接をして、もう一度お会いしたいと日時の調整をしました。ところが当日、いくら待っても姿を現しません。携帯電話も留守電になっています。30分待ってあきらめました。こういうことは社会経験の少ない新卒の採用ではままあることのようです。しかし、一流企業で長い広報経験を持つ人においてまさか…。同じ広報に携わる人間としてまことに残念なことでした。〈kimi〉

お世話していません

2013.03.13

小さいながらも事務所を構えていると、テレマーケティングの電話が日に二度や三度はかかってきます。保険会社、証券会社、人材紹介、インターネット電話、不動産投資、リゾートマンション・・・実にさまざまですが、これらの電話の冒頭に発せられる共通の常套句があります。
「いつも大変お世話になっております」
がそれです。
セールスプロモーションですからすべて初対面、いや初電話の人たちです。そんな相手から「いつもお世話になっております」なんて言われるの、気色悪くないですか。
なので、ときどき「あなたをお世話した覚えはありませんが」と切り返します。嫌なヤツ!と思われるに違いありませんが、実際にお世話をしたことがないのだから仕方がありません。
ワープロソフトを使っていると、「拝啓」と打った瞬間、
早春の候、貴社ますますご盛栄のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
などの常套句が出てくることがあります。あえて本音を言えば、オタクの会社が儲かろうと損を出そうとこちらにはとくに関係はないし、また大してご高配をいただいた覚えもない。それなのにこんな白々しいことを書くのは、こちらも気色が悪いし、相手も気色が悪かろうと思うのです。
そこで、そのような自動機能が働かないように設定しているのですが、さて、それに代わる気の利いた、かつ心のままの挨拶が書けるかと言えば、容易に思いつくものではありません。無精を決め込みつつ、相手に「常識のないヤツだ」と思われないようにするために、これはなかなか便利な機能である、と認めないわけには行かないところが、これまたなんとも気色が悪いのであります。〈kimi〉

急がない人たちは割を食う

2013.03.11

できる子ができない子と同じ教育を受けなければならないのは悪平等だという意見があります。できる子の意欲と能力を失わせないように、飛び級でも早期卒業でもさせてどんどん先へ行かせろ、というわけです。
戦後民主主義的な均一的教育を受けながら、ちっとも不満を感じなかったのは、もちろん私ができる子ではなかったからですが、どんどん先に行く人に道を空けながら勉強するのってドーヨ、とも考えるのです。
こんなことを考えていたのは、地下鉄の有楽町駅のホーム上でした。東京国際フォーラムとビックカメラの地下入口前に出られるエスカレーターに乗ろうとする人たちでホームは大混雑。にもかかわらず、そのエスカレーターには上から下まで各段とも片側に一人ずつしか乗っていなかったのです。
ご存じのように近頃の東京では、左側はエスカレーターの動力にのみすがって階上に上ろうとする人。右側は動力に体力を付加することでより早く階上に上ろうとする人が使用するという暗黙の了解ができています。土曜の午後の有楽町には体力自慢も、一刻を争うビジネスマンもいないので、こんな現象が生じたのでしょう。
このようなときには片側を空けずに一段二人ずつ乗る方が、全員が早く階上に上がれるのではないかと疑問が生じました。流体力学上はどのような結論になるのか存じませんが、急ぐ人を優先し過ぎると急がない人たちが割を食う、ということはあり得るなあと混雑に揉まれながら考えたのでした。〈kimi〉

2月と3月

2013.02.19

28は7で割り切れます。ということで、うるう年でない年の2月はちょうど4週間で終わります。すると2月と3月は日にちと曜日が一致するという現象が起こります。
それが次ぎのような現象を引き起こすのです。
AさんとBさんが一杯やろうと約束したとします。
「それでは18日の月曜日の7時ね」
「わかりました。18日の月曜日の午後7時、手帳にちゃんと書いておきます」
Aさんは2月18日の月曜日のつもりですが、Bさんは手帳の3月18日の欄に予定を書き付けてしまう。その日も月曜日だから疑うこともありません。
このようなミスコミュニケーションを語用学では推意がすれ違がった、などと言うらしいのですが、昨日、それを実体験してしまいました。くれぐれもご注意くださいませ。〈kimi〉

自分じゃなくて私でしょ

2013.02.15

「体育会系」と称する高校や大学の部活動で体罰が日常化していることは、遺憾ながら容易に想像できることでしたが、一流選手が揃っているナショナルチームでもそれが横行していたというのには驚きました。
教師が生徒に、コーチが選手に、先輩が後輩に、上司が部下に暴力をふるう。下に位置する者はそれを唯々諾々(いいだくだく)と受け入れなくてはならない。こんな慣習が日本の伝統文化のどこのあたりに根ざすのか。残念ながら知識がありませんが、近くに源をたどれば旧日本軍に行き着くのではないでしょうか。
これと同根と推察できる事象がもう一つあります。
日本語の一人称単数には、複数の言葉が使われます。わたし、わたくし、ぼく、オレ、あたい、わて、おいら、おい、うち、ぼくちゃん・・・。ところが、自衛隊、警察、消防、海上保安庁のようなタテ型組織に属する人たちや体育会系クラブ出身者の多くが自分のことを「自分」と呼びます。なぜなんでしょう。
わたし、わたくし、ぼく、オレ、あたい、わて、おいら、おい、うち、ぼくちゃんなどの一人称は、それを言う人の個性が自ずと表現されてしまいます。「わて」というのは大阪のオッチャンのようだし、「わたくし」と言えば和服の婦人のようだし・・・。そんな個性を出してはイカン!、オマエは組織の一員に過ぎない!というコミュニティで「自分」という一人称単数の使用が強制されているのではないか、というのが私の想像です。
それぞれのコミュニティで、どんな慣習を用いようと(暴力などはもってのほかとして)ご自由ではあるのですが、一般の社会でも「自分は○○であります」みたいな言い方をするのはいかがなものでしょうか。そう考える理由は、自立した個には個性がなければならない、ということに尽きます。民主主義社会の基礎はそこにあるのですから。〈kimi〉

語る靴

2013.01.31

先日、ある方の社葬に赴きました。葬儀所に着いたときはすでに参列者の入場が始まっていましたが、たまたま前の方の列の中央の席に案内されました。これが芝居やコンサートならラッキー!と喜ぶところでしょうが、告別式では何と言ってよいのやら。
やがてご焼香となり、参列者の列ができ始めたとき、あることに気がつきました。男性はほとんど立派な礼服を着用されているのですが、靴がひどい。国会議員や有名会社のエライ方がたが底が減ったり、何日も磨いたことがないような靴を履いていらっしゃる。礼服が立派なだけに、そのコントラストにいささか驚きました。
顧みてこちらのウレタン底の靴もお世辞にもほめられた代物ではありません。その上、黒系のスーツながらちゃんとした礼服を着て行かなかったのですから、偉そうなことを言う資格がないことは重々承知しておりますが・・・。
料亭の女将やクラブのママなどは、足下で客を判断しているという有名な話があります。靴がその人物を語るというのです。以前仕えたある経営者は社用車の中に新しい革靴を一足用意していて、そのような店に入るときには必ず車中で履き替えていました。つまらないことをしているなあと、その当時は考えていたのですが、それなりに意味のあることだったのかもしれない、と告別式で思い当たったのでした。これも故人のお導きでしょうか。ラッキー! 合掌。〈kimi〉

『部分』

2013.01.29

部分=(1)着目する全体の中を分けて考えた一つ。全体の中の一カ所。「この―を直せばよくなる」(2)〔数〕全体の中に含まれているもの。全体それ自身も部分の一つと見る。特に全体それ自身を含まない場合には真部分という。(広辞苑第6版より)
難しい説明ですね。読んでもすんなり頭に入ってきません。数学的と言うべきか論理学的というべきか・・・。しかし「部分」というのは、日常的に極めて頻繁に使う単語です。よく使うどころか、「部分」という単語を使わないと、話ができない人たちさえ存在します。
「それは私どもといたしましては、お話できない部分と申しますか、やっぱりその、申し上げては差し障りがある部分もあるだろうと言うような部分がございまして、経営の方からも控えるようにという指示を受けている部分というのがあるわけなんです」
なんて、わけのわからない言い訳を記者にしている広報部長さんが、ほら、いるでしょう。
一番目の「部分」は、「ところ」と言い換えることができますが、ピントがぼけていることに変りはありません。ずばり「情報」と言ってしまえば明確になるはずなんですが、それではあまりにもストレート過ぎるということで「部分」を使ったのでしょう。
二番目の「部分」は文脈から考えると「可能性」という単語が浮かびます。「差し障りがある」と言いきってしまう勇気はない。「差し障りがある可能性がある」でも「どのような可能性ですか」と突っ込まれそうだ。「部分」を使って、その上にさらに「あるだろう」と二重のソフトフォーカスをかけたというわけです。
三番目は「すべてが差し障りがあるというわけではないんですけど、一部分でも差し障りがあるとまずいので」ということを示唆しているようです。
四番目はとても変な表現です。どんな指示を受けたのかよくわかりません。わからないように「部分」という言葉を意図的に使っている。もしかするすると、上からの指示なんてなかったのかもしれません。
「部分」という表現が実に使い勝手がよく、実にあいまいで、実にうさんくさいことがこれでご理解いただけたでしょうか。少なくとも広報担当者が頻用すべき言葉ではありません。〈kimi〉

甘やかしてはいけません

2013.01.17

品質問題は危機管理広報で出番の多いマターの一つです。賞味期限を過ぎた製品を出荷してしまった、異物が混入してしまった、使用中に事故が起こった、医薬品で副作用が発生した、やせるはずなの効果がなかった・・・このような事態が発生したら、直ちに記者発表して謝罪するとともに対応策や再発防止策を表明する必要があります。とくに健康被害の可能性があるときには、社会に対するリスクを最小化するために絶対に講じなければならない措置ですが、健康被害が予想されないケースでも、顧客が求める、あるいは期待する価値が提供できないときは、同様の措置が求められます。それが現代社会における常識というものです。
ところが、お客様の期待する価値が提供できなくても、あるいはあらかじめ表示している品質を提供できなくなっても、社長が謝罪することもなく、具体的な再発防止策を示すでもなく、社員の簡単なお詫びだけですませている業種があります。それは鉄道です。
近頃しばしば遭遇する飛び込みなどによるダイヤの乱れは鉄道会社だけに責任を問うことはできないとしても、雪が降った、雨が降った、混雑した、故障した、すべった転んだと言い訳をしながら、毎日のように遅れを出しているのは一体どういうわけなんでしょう。毎日遅れるなら、そのようなダイヤに問題があるはずです。日本は雨が多く、冬になれば太平洋側でも雪が降ることがある。当たり前のことです。それらを理由に、品質低下(ダイヤ通りに運行できない)を容認する企業など、こと日本においては鉄道会社以外には存在しないのではないでしょうか。
ドアが故障した、信号が故障した、ポイントが切り替わらない・・・品質管理に問題があるんでしょう。どんな改善策をとったのかを鉄道会社が発表することはめったにありません。車内放送で車掌さんが謝罪メッセージを読み上げるだけですましています。
乗客の方も、電車が遅れるのはしかたがない、当たり前と考えているフシがある。甘やかしてはいけません。ここは一つ厳しくやってもらいたい、と昨日のダイヤ乱れで冷や汗をかいた私はそう思うのですが。〈kimi〉

IRとPRの距離

2012.12.25

自民党が総選挙に勝ったことで株価が上がっています。これまでにない金融緩和が行われるだろうという期待感からだそうですが、簡単に言ってしまえば、お金が金融市場にあふれることを期待しているわけで、そのことと生活者が豊かに、幸福になることとは直接リンクしてはいません。
インベスター・リレーションズ(IR)はコーポレート・コミュニケーションズ(広報)の一部分というのが長年の持論です。ですが、金融市場と一般社会が同じ原理で動いているなどと考えているわけではありません。むしろ乖離がより激しくなっていることが気がかりです。
IRは金融市場をその対話の相手とし、パブリック・リレーションズ(PR)は生活者をもって構成される実社会を対話の相手とします。両者が連動して変化するなら、そもそもIRもPRも区別する必要はないわけですが、どんどん距離が離れて行くとなると、この二つは一体どのようになってしまうのか・・・来年の課題としたいと思います。
よいお年をお迎えください。   〈kimi〉

上から目線では・・・

2012.12.13

どこの政党を支持するかを決めていない、いわゆる無党派層というのに自分もカウントされているんだなあ、と思いながら新聞や週刊誌の当落予想を眺めております。
真に政党と呼べるのかどうか、いささか怪しい党派が乱立していて、個々の政策を項目ごとにチェックしたところで、自分の意見にぴったり適合するところはなさそうです。もっと大きな立場や考え方(あえて思想とは申しません)の違いがあってこその政党ではないか、という思いを強くしておりますが、それはともかくとして、国民・市民・有権者を見下したような言辞を吐き続ける党首だか代表だかには眉をひそめたくなります。
広報セミナーなどで強調しているのは、企業は強者であることを常に意識すべきであるということです。ついつい無自覚に強者の言葉でコミュニケーションしてはいないかと自戒すべきです。自らを強者の位置に置くことは、相手を弱者の位置に置いていることであり、見下していることにほかなりません。
このようなコミュニケーションに強く反応するのがネットの世界です。「上から目線」とか「ドヤ顔」とか、そんな表現もたぶんネットから生まれたのでしょう。
相手と対等の立場に立たなくては、本当のコミュニケーションなど成立するはずがないのです・・・と、こんな書き方も少々「上から目線」的ではありますが。〈kimi〉

官僚批判

2012.10.29

その世界の名人に修理調整を依頼していた万年筆が昨日戻ってきました。舶来高級品ではありません。プラチナ#3776ギャザードの極太。ワープロが普及する以前に原稿書きに使っていたものです。文章のほとんどをパソコンで書くようになって出番がなくなってから、インクがかすれるようになってしまいました。どうやらパソコンへの嫉妬が嵩じてヘソを曲げてしまったようです。
それでもずっと気にはなっていて、10年ほど前にも修理に出したことがあります。完璧とまでは言えないまでも、なんとか書けるようになって、再びメモ書きなどに使い始めました。それから間もなくのことです。某省のOBの前で、「この万年筆のインクがかすれましてねえ・・・」と口走ったのがまずかった。最後まで聞かないうちに私の手から万年筆を取り上げ、彼は部屋を飛び出して行きました。しばらくして、満面の笑みをたたえながら戻ってきて言いました。
「もう大丈夫。ちゃんと直したから」
以来、インクのかすれはさらにひどくなり、とうとうお蔵入りとなっていたのでした。中央省庁の官僚批判を耳にすると、いつもこの一件を思い出します。〈kimi〉

駅と線路が見つからない

2012.10.17

アップルのiPhone5が発売されたものの、それに使われている新しい地図(正確にはiOS6の地図)が不正確だと批判され、CEOが謝罪する騒ぎになっています。弊社のオフィスの周辺も極めて大雑把にしか表示されず、そこにどういう基準で選ばれたのか不明な立ち食いそば屋などの飲食店がプロットされているなど、「こりゃあ使えないわ」としか言いようがない代物です。
アップルともあろうものがどうしてこんな地図をノーチェックで使ってしまったのか、不思議ではありますが、私が興味を持ったのは別の点です。
この地図は鉄道を軽視しているのです。東京で仕事をしている私たちは、地下鉄の路線と駅とその出口の位置を理解していないと甚だ不便なのですが、アップルの地図ではそれが極めてわかりにくい。徒歩や車で移動しているときは山手線や中央線、私鉄の路線やガードなどをランドマークにしていますが、それも明確に表示されません。
技術的な問題はわからないものの、日本人がつくった地図ではないのだろうと疑っております。日本人なら鉄道と駅をもっと大切にするのではないでしょうか。Googleの日本地図は日本の会社が協力して作成していると日経のWEBに書かれていました。
現地の人のビヘービアや感性に十分な配慮をしないとこういうことになる、というこれは一つの戒めではないかと思うのです。〈kimi〉

イレコマナイ

2012.09.27

facebookの旗色がにわかに悪くなってきました。株価もさることながら、広報関係者からも期待したほどでもないといった声が聞こえてくるようになりました。
エジプトの政変がfacebookで起こったなどと聞いて、あわててアカウントをとったことをいまさら白状しても始まりませんが、当時の世評ほどのご利益が感じられなかった者としては、「やっぱりねえ」などと一人鏡に向かってドヤ顔をしております。
参加者数が日本で1000万人を越えたと報じられたのは昨年ですから、いまはもっと増えているのでしょう。すごい数字ですが、私の周囲でfacebookを仕事に使っている人はほとんどいません。
「友達」であるジャーナリストやら某県知事やら昔の部下やら数十人の書き込みを毎日拝見していますが、今日は出張なのか、あの人は被災地の出身だったのか、転んでケガをしたんだ、毎日ジョギングをしているんだ、東京マラソンに当たったのか、いまフランスに行っているんだ等々、面白くは読みますが、何かの役に立つという情報はほとんどありません。
ほぼ1年前でしたか、ソーシャルメディアをテーマにしたシンポジウムを聞いていたら、mailなんかもう必要ない、すべてのコミュニケーションがfacebookで可能になると断言するパネリストがいました。お仲間内ではそうなのかもしれませんが、その方の視界の外ではそのようにはなりそうにありません。
新しいIT技術が生まれると、これを使わないヤツはアホだというばかりなことを言い立てる人が出て来ます。いまは昔、バブル時代には金を借りないヤツはバカだと言う人が実際にいました。広報を仕事をしている人にとって、時の流行に乗り遅れるわけには行きませんが、何事もイレコミ過ぎないようにしなくちゃね。〈kimi〉

「デジタル人間」は存在する

2012.09.19

アナログ人間とデジタル人間。最近あまり聞かなくなりました。アナログ人間は分厚い広辞苑をパラパラめくり、デジタル人間はパソコンの広辞苑を引くといった意味だったかと記憶します。アナログ人間=時代遅れの人間、デジタル人間=先端の人間と言いたかったのでしょう。そんなことはあり得ない、というのがデジタルが普及した今日の常識というものです。
しかし、アナログ人間とデジタル人間は厳然と存在すると思うのです。
アナログ時計は連続して針が動いて行きます。それに対して、デジタル時計は数字と数字が個々に独立しています。このアナロジーで周囲の人たちを見て行くと・・・
デジタル人間は変更に不寛容:プリントアウトしたスケジュール表に1分の変更が生じると、修正した上で改めてプリントアウトしないと気がすまない。「そんなものは赤のボールペンで訂正しておけばいいじゃないか」などと言うのはアナログ人間です。
デジタル人間は誤りに不寛容:「ネダ首相がね」と言い間違えると、「誰ですかネダ首相って?」と聞き返す。「ノダ首相のことでしょ」とか「ネタニヤフ首相のことですか?」と類推して修正するのはアナログ人間です。
デジタル人間はあいまいに不寛容:「それじゃ、午後イチってことで」と言うと、「午後1時のことですね」と確認する。「そうではなくて午後一番」と言い直しても不思議そうな顔をするばかり。午後イチで通じる人はアナログ人間です。
お判りのように、ここで言うデジタル人間とは、これまで頭が固いとか融通が利かないなどと陰口を叩かれていた人たちに一部重なります。こういう人たちに「あなたはデジタル人間だね」と言って差し上げれば、きっと世の中すべて丸く収まるというものではないでしょうか。〈kimi〉

「田中でございます」

2012.09.11

最近、弊社のホームページで公開しているメールアドレスに「田中でございます」とか「佐藤からのご連絡」といった件名のメールがしばしば入って来ます。開いて見ると、ただの広告メールです。「資金調達のご用命は××へ」とか「△△なら電話代が8万円お得」などというタイトルをつけたのでは、開く前に削除されてしまうので、何はともあれメールを開かせようという魂胆なのでしょう。その姑息な作戦につい乗って、開封してしまうのがくやしい。こういう会社は、それだけで信用しないことにしております。
テレマーケティングの電話もたびたびかかってきます。これは、〈電話が掛かってきたら何はさておき受話器をとる〉という、ベルさんによる電話機の発明以来染みついた人類共通の習性を悪用したもので、いったん電話に出てしまうと、切るのに一苦労させられます。まんまと乗せられて聞きたくもない話に無駄な時間をとられるのですから、これも気に入りません。
毎日のようにファックスに入ってくる広告も、弊社のコピー用紙を勝手に使われているわけですから、どう考えても間尺に合いません。
全く無視するのが合理性というものなのですが、1000分の1くらいの確率で有用な情報があるのも事実で、それを逃すのも惜しいような気がします。そのような心理にまたまたつけこむのが、このようなプロモーションなんですねえ。〈kimi〉

謝れない

2012.07.17

突然堅いものが落ちてきて、私の手に当たって床に転がりました。今朝の電車の中の出来事です。
強い痛みを感じて見上げると、前に立っている30代の男性が軽く会釈をしました。網棚に乗せたトートバッグから携帯電話が転がり出たようです。「痛いよ」と訴えると、再びかすかに頭を下げて「すいません」。口の中でモゴモゴと言いました。あまり腹も立たなかったのですが、当たったところに小さな内出血を起こって紫色に変色し始めました。「ほら、色が変わって来た」と静かに指摘したにもかかわらず、男は何の反応も示しません。
やがて次の駅に電車が到着しました。男は棚のトートバッグをつかんで下車して行きました。行方を目で追ったら、階段へは向かわず待ち合い室へ入って行きました。
「被害者」の前に立っているのはどうにも居心地が悪く、一電車遅らせることにしたのだと見ました。
「あっ、大丈夫ですか。ゴメンナサイ。おケガはありませんか。申し訳ありません。駅員さんを呼びましょうか」と、少々大げさなほどに心配してくれる人もいます。それもときにはしつこく感じられたりするのですが、きちっと謝ってさえくれれば、「ああ、いいですよ。大したことありません」と私も応じたでしょう。それなら一電車遅らせる必要もなかったはずです。
謝り慣れていない人にとって、謝るという行為はとても難しいことであるようです。
これは企業も同じことです。謝り慣れていない企業は、電力会社を例に挙げるまでもなく、謝るのがヘタクソです。ある医療機器会社の人は、たびたび製品の不具合が発生するので、すっかり謝罪に慣れてしまったと言っていました。どちらがよいとも言えませんが、しっかり謝れば社会の怒りがいくらかは和らぐ可能性があります。少なくとも、その企業に対する見方は大きく変わり、その被害者や社会の対応にも変化が生ずるだろうとは思うのですが。〈kimi〉
翌日の内出血
これが翌日の状態。痛みはありません。

言い訳から主張へ

2012.07.11

大津市の中学校で生徒が自殺した事件。亡くなった生徒の気持ちを思いやると、いたたまれないような気持にさせられます。真相はまだ十分明らかになっていませんが、教育委員会に対するメディアの批判は日を追うごとに高まっています。
教育委員会の会見は下手の見本のようなものですが、上手いか下手かといった次元以前に、この組織がどのような理念のもとに、どのように運営されているのか、つまりガバナンスがどうなっているのか、首をかしげざるを得ません。
毎日のようにメディア側から記者会見を要求されて、教育委員会の人たちも当惑していることは想像できます。それが場当たり的な対応になって現れているように見えます。うそとは言いませんが、言い訳に言い訳を重ねると必ずボロが出る。そのボロを隠すためにまた言い訳をせざるを得ない羽目になって悪循環に陥ります。これは広報の専門家でなくてもわかることです。危機に直面したとき、あってはならないことながら、言い訳をせざるを得ないケースも、現実にはあり得ます。そのようなときにも、基本となるスタンスをしっかり固めておけば、「言い訳」を「主張」に変えることも不可能ではありません。そこはまさに広報の専門家の出番です。〈kimi〉

代替エネルギー

2012.07.10

代替エネルギーという用語を3.11以来よく目にするようになりました。Alternative energyの直訳なのでしょうが、なにか違和感を感じてしまいます。
終戦直後に使われた「代用食」は、白米に代わる主食という意味です。食糧事情が悪かった当時は、トウモロコシ粉とかコウリャン粉などを指してそう呼んでいたのでしょうが、そこには白米こそが主食であって、一時的にその代用で我慢しているというニュアンスが感じられます。いつかは白米に戻りたい、という願望が反映されているのでしょう。
「代替エネルギー」には、化石燃料や原子力こそが主たるエネルギーであって、その他はその「代替」である、という意図的な過小評価が込められているように思えます。
さて、気がつけばいまや日本人は白米がなくても平気になってしまいました。三食カップラーメンというのは感心しませんが、そば、うどん、ラーメン、つけ麺、パスタ、ペストリー、サンドウィッチ、スープ春雨、シリアル・・・たまには白米もいいよね、などと言う人もいます。それなら代替エネルギーだって、気がつけばエネルギー源の主流になっていた、という時代が来るのかもしれません。
と、こんな堅いことを書くつもりではありませんでした。
電車から毎日、ビルの中でランニングマシンを使っている人たちが見えます。エアロバイクで汗を流している人たちもいます。これらに使われるエネルギーがいかにももったいないような気がしてきたのです。これをエネルギーとして利用すれば、まさに再生可能エネルギーになります。走りながらベルトを回して発電する。エアロバイクにも発電機をつなぐ。そんな発電装置をアスレチッククラブばかりでなく、あちこちの公園や広場に備え付け、時間がある人は、ちょっとそこで汗を流す、と同時に発電をする。運動不足の解消と発電の一石二鳥になります。荒唐無稽でしょうか。しかし200年ほど前まで、ヨーロッパでは帆船とともにオールで漕ぐガレー船が実用に使われていたのです。日本にだって人力車や輪タクがありました。マンパワーを過小評価してはいけません。〈kimi〉

雑魚客にも

2012.07.03

京都には、住んだことはないものの学生時代から何かと縁が続いて、これまで100回近く訪れています。ということは、京都のホテルに100泊以上は泊まっていることになります。
宿泊料が安いとか、京都駅に近いとか、酔っ払ってもすぐに戻れる繁華街の真ん中であるとか、利用者を増やしたいからと頼まれた公的施設とか、その時々の目的やフトコロ具合等に合わせて宿泊先を選んで来ましたが、近頃あるホテルが気に入って、しばしばそこを利用するようになりました。
部屋は広く設備もよいのですが宿泊料は安くありません。繁華街からは少々離れています。地下鉄の駅から歩いて15分はかかります。悪条件がいろいろあるにもかかわらず、そこを使うのは理由があるからです。
タクシーをホテルにつけると、ベルキャプテンがドアを開けてくれます。シティホテルなら当たり前のサービスですが、大企業の経営者や政治家などへは極めて慇懃なのに、私のようなその他大勢の、いわば「雑魚」の客に対しては、形式的でおざなりな動作ですますホテルが多い中、ここはちょっと違うのです。雑魚客であっても、毎回かける言葉が異なるのです。天候や時間、客の年齢や性別、チェックインなのか外出からの帰りなのか、荷物が多いのか少ないのか、そのような状況を一瞬に判断して適切な一言をかけているようです。これはできそうでできないことです。
ロビーに入ると、ホテルマンたちの目配りが行き届いていて、それぞれ「お帰りなさい」とか「いらっしゃいませ」と挨拶をします。それがちっともマニュアルっぽくありません。トラブルが生じても、一生懸命解決に努力してくれるので腹が立ちません。日本語が上手くない外国人女性ポーターを含めて、このような客あしらいが徹底しています。
これはお客様を大切にすることが客を増やすという、スカイマークとは対極の姿勢です。
誠に素晴らしいのですが、清潔なベッドさえ用意されていれば十分、といった基準でホテルを選ばざるを得ないこちらのフトコロ状態が常態化しつつあるが、少々残念です。〈kimi〉

空にもタメ口

2012.06.18

スカイマークの「サービスコンセプト」が話題になっています。責任を押しつけるなと消費生活センターがクレームを申し入れたということですが、そんなことは些末な問題。顧客重視経営をかなぐり捨てた、なんとも奇妙な宣言文です。
その文中に「より安全に、より安く」とありますが、これまでのビジネスの常識では、顧客を大切にすることの延長線上に「安全」があると考えてきたはずで、客を荷物のように考える会社が本当に安全を守れるのか、はなはだ疑問です。「安全はほどほどに、より安く」と言う方がむしろ論理的だし、誠実ささえ感られるかもしれません。お客は減るでしょうけど。
それはそれとして、この文書にこんなセンテンスがあります。
「お客様に対しては従来の航空会社の客室乗務員のような丁寧な言葉使いを当社客室乗務員に義務付けておりません。客室乗務員の裁量に任せております」
丁寧でない言葉遣いってどんなんでしょう。
「オイ、そこのオバチャン。早く席に座れよ。後の客が入れねえじゃねえか」
なんて、言うんでしょうか。乗務員の裁量に任されているんですから、これでも問題ないわけです。
80年代のことだったでしょうか。渋谷のパルコを見学していたら、店員のオネエさんが、
「いいよ、これ。すっごく似合ってるう」
とお客さんに言っているのを聞いて、すっ魂消たことがあります。それまでの小売店の慣習なら、
「これはとてもお似合いですわ」
です。店員が客にタメ口をたたく時代に、そのときからなりました。
これは顧客軽視ということではなさそうです。若い女性である顧客と同じ目線で、同じマインドで接客しよう。つまり顧客により近づこうということだろうとも解釈できます。そう考えれば、客室乗務員のタメ口もあながち否定できないのかもしれませんね。
「飛行機がさっきから揺れてるけど、大丈夫よ。落っこちないからさあ」
こんなアナウンスが当たり前になるんでしょうね、きっと。〈kimi〉

お尻だけはふいてくれ

2012.05.24

久々にブログを更新するというのに、はなはだ尾籠なタイトルで申しわけありません。
私の友人知人の中にお尻をふかない人がいるのです。もちろんトイレでお尻をふかないということではありません(注:ふいているという確証もないのですが)。
例を挙げてみましょう。
ある人は、私に本を書かないかと持ちかけてきました。古くからの友人であり出版社のエライ人でもあったので、企画を考えて手渡しました。それから10年ほども経つというのに、採用なのかボツなのか、私は何も告げられておりません。もちろんボツには違いないのですが、その後も何度か顔を合わせる機会があったにもかかわらず、まったくの知らんぷりです。
またある人は、ある企業が直面したやっかいな問題のアドバイザーになってほしいと依頼して来ました。社会的地位の高い方でもあるし、その企業の社長に話を通すということなので、それなりに下調べをして待機していましたが、それから3年、まったく何の音沙汰もありません。その間何度かお会いしてはいるのですが、その話題には一切触れません。ちなみにやっかいな問題は、その企業に好ましくない結果で収束したようです。
自分から持ちかけた話の結末をなぜつけないのでしょう。企画がボツになったとか、企業側が難色を示したというような話しにくい話をするには小心すぎる人たちなのか、それとも単なる脳天気なのか、あるいはまだほかに理由があるのか…。
なにはともあれ、お尻だけはちゃんとふいてもらいたいものです。〈kimi〉

記者の専売特許

2012.03.21

なぜ新聞記者は文章読本を書きたがるのだろうと、先週書きました。答えは簡単です。「自分は文章がうまい」と自負しているからです。
その正否はともかくとして、新聞記事が、素人の作文のお手本に好適であることは認めざるを得ません。それだから、記事の書き手による文章読本にはそれなりの需要が見込めるということになるのでしょう。本を書かないまでも、退職後に大学教員に転身して、作文指導をしているOBも少なくありません。
しかし、実は新聞記者たち自身が気づいていない専売特許はほかにあるのです。それは取材力というものです。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオの4大マスメディアの中で、最も分厚い取材組織と取材ノウハウを有しているのが新聞社です。新聞の退潮が誰の目にも明らかになってしまった現在においても、これは変わりません。
フリーのライターさんからは、新聞の取材力に批判的な意見も聞かれます。それもある面で正しいとは思いますし、独自の取材力を持つフリーライターが少なくないことは承知していますが、新聞社で先輩から後輩へと受け継がれる取材ノウハウや取材力はいまだ侮れない水準にあるのは確かです。
優れた文章は、テニオハの使い方だけで書けるものではなく、そこに盛り込まれる視点や情報の質に負うところが大きいわけで、それは取材力から生まれます。取材力は情報収集力と言い換えてもよいでしょう。
ビジネスの世界でも、学問の世界でも、広報の世界でも、取材力のある人とそうでない人では、企画やアプローチの仕方に大きな違いが生じるはずです。これこそ新聞記者OBのみなさんから伝授していただきたいノウハウだと思うのです。〈kimi〉
 

記者にビジネス文書が書けるか

2012.03.14

新聞一面下にある書籍広告を見ていたら、文章の書き方みたいな本の広告が目につきました。著者は元朝日新聞記者。デジャビュというべきでしょうか。このテの本の著者に、なぜか朝日新聞のOBが多い。「天声人語」の歴代執筆者をはじめとして、名文家として名高い朝日OBは何人か存在していますが、だからと言って、朝日だけに文章が上手な記者が多いとは思えません。夏目漱石は朝日に在籍していました。記者ではなく作家としてですが、その影響が今日にまで及んでいるのでしょうか。
日野啓三や真山仁は讀賣、井上靖と山崎豊子は毎日、司馬遼太郎は産経、高井有一と辺見庸は共同、横山秀夫は上毛新聞といった具合に記者経験を持つ作家は少なくありませんが、朝日出身となるとにわかには思い浮かびません。これもまた不思議な現象です。石川啄木や松本清張も短期間在籍していたものの、啄木は校正係だし、清張は広告部嘱託の図案係だったそうです(どちらもWikipediaによる)。朝日のOBは小説を書かずに文章読本を書く、のでしょうか。
なぜ新聞記者が文章読本を書きたがるのか、ということが前々から疑問でした。上記のように記者上がりの作家は少なくありませんが、新聞記事と小説の文章は言うまでもなく異なります。一方の極に小説があり、その対極にお役所の文書やビジネス文書一般があるとしたら、新聞記事はその中間あたりに位置すると言ってよいでしょう。無味無臭で(胡散臭くはあるが)常套句に満ちたお役所文書でもなく、技巧的で個性的な小説の文章でもなく、平易簡潔で読みやすく、なおかつ少々の心情の吐露も可能な文章。それが新聞記事の文章だとしたら、素人が日記や手紙を書いたり、たまにサークル会誌などの原稿を執筆したりするには適当なお手本とは言えるでしょう。しかし、ベテラン記者に企業間で日常的に交わされているビジネス文書を書けと言っても、辞表くらいは書けるでしょうが、まずうまく行かないだろうと想像します。彼らが書く文章読本は、少なくともビジネス文やプレスリリースの書き方指南ではないのでしょうね。
今日は、こんなことを書こう思って書き出したのではありませんでした。でも長くなりすぎたので、ここでやめておきます。〈kimi〉

あらたにす

2012.02.01

朝日、日経、読売の3紙が共同で運営していた「あらたにす」というサイトがもうすぐ閉鎖されます。スタートしたときから、あの程度のコンテンツでいつまで続くものやらと思っていましたので、意外感はまったくありませんが、私はこのサイトの隠れ愛読者でありました。
楽しみに読んでいたのは、「新聞案内人」というコラムです。評論家や学者やジャーナリストが毎日交代で、新聞に関わるテーマで執筆していました。執筆者の中で、とくに新聞記者OBの方々が書かれたコラムが圧倒的に面白かったのです。彼らは現在の新聞報道の問題点をいろいろと指摘し、後輩記者たちを叱咤激励する文章をここに書き続けていました。
お名前を挙げるならば、栗田亘さん(元朝日新聞)、松本仁一さん(元朝日新聞)、水木楊さん(本名:市岡揚一郎、元日経新聞)、池内正人さん(元日経新聞)、西島雄造さん(元読売新聞)、上村武志さん(元読売新聞)といった方々です(見事に各社2名ずつになっていることに、いま気がつきました)。
これらOB記者たちのコラムを読むことで、新聞の読み方や新聞記者のあり方、また、いまの新聞の問題点等々に関して、多くの示唆を得ることができました。また、さすがに文章がうまい。おいしい料理を食べているような気分で読むことができました。
OBだから書けること、というのがあるでしょう。一方で、日本の新聞をよりよくするために現役時代にどれだけ努力したのか、という疑問も当然浮かんできます。しかし、これだけの方々ですから、それなりに努力をし、それでも大きな流れには抗うことができなかったのだ、と好意的に解釈しておきたいと思います。
これが読めなくなることはとても残念です。このようなコラムを掲載するサイトがどこかに、あらたに、できないものでしょうか。〈kimi〉

把瑠都の広報戦略

2012.01.23

大相撲初場所で、エストニア出身の把瑠都が優勝しました。把瑠都の相撲内容について、一部の新聞が強い批判記事を書いていましたが、何年間も日本人力士の優勝がないことへのいらだちが書かせてうるようにも思えました。
それはともかくとして、これから把瑠都の人気は急上昇するのではないか、と予測しています。 もちろん強くなれば力士の人気は上がるものですが、これまで圧倒的な強さで土俵を席巻してきたモンゴル人ではなく、ヨーロッパ人力士の優勝であることの新鮮さがもう一つ挙げられるでしょう。
彼の言動は寡黙をよしとする伝統的な相撲社会のそれではなく、開けっぴろげです。それに対して批判的な日本人も少なくないのでしょうが、彼の欧米的な価値観は抑えようにも抑えられないように見受けられます。観客の声援に手を挙げて応えていたのもその一例です。これなど、若い日本人には少しも違和感を与えないはずです。
もう一つ、私が注目したのは、千秋楽での奥さんのエレナさんの和服姿です。広報的に見ればこれはかなりのクリーンヒットです。あれだけでフアンを増やしたに違いありません。また、テレビで見る限り、彼女はかなり古き日本女性のたしなみを勉強しているように見えました。日本語もある程度はできるようです。これらはすべて把瑠都の人気を高め、日本人に評価される方向に寄与するものと思われます。
これらの広報戦略を裏で演出している人いるとすれば、大したスゴ腕です。把瑠都夫妻が自分たちで考えたとすれば、彼らはかなり賢いと言えるでしょう。〈kimi〉

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