否定されるとねえ
2016.09.29お話をした後で、なんとなくよい気分になる場合とイヤな気分が残る場合がいますね。もちろん叱られたり、無理な注文を押しつけられたりすればイヤな気分になりますが、平和にお話したときの後味のようなものに違いがあります。
それにはさまざまな要素がからんでいると思うのですが、相手の方が受容的な受け答えをする方か否定的な受け答えをする方かという点が大きく影響しているように思います。日常の会話では意識することはありませんが、よくよく注意して観察していると、「へえ」とか「なるほどねえ」とか「そっかあ」と受ける人と、とっさに拒絶したり反論したり言い訳を言ったりする人がいることに気づきます。否定されることは、たとえ最後には受け入れられたとしても気分のよいものではありません。
肯定しているつもりで「いやねえ」などと相づちを打つ女性がおられますが、あれも感じのよいものではありません。「イヤよイヤよもヨイのうち」などと怪しからぬことを昔の人は言っていましたが、もちろんそれとは異なる意味でです。
ガバナンスの問題でしょう
2016.09.27豊洲の市場用に建設した建物(回りくどい表現だなあ^^;)の地下に溜まった水は地下水で、その水は飲めるのだそうです。それなら問題ないじゃないかといったコメントがネットで盛んです。そういう人たちは、この問題は科学的に考えなければならないと主張します。
それは違いますよね。より重要な問題はガバナンスです。政治学的には文民統制の問題です。国会でどんな議論をしていようとお構いなく自衛隊ではICBMと核弾頭を導入してしまった、というのと同じことですよ、これは。この際、そこのところをしっかり確立してもらいたい。その上でなら、市場が豊洲に移転してもしなくても大した問題ではないような気がします。
生徒が先生?
2016.09.26たまたま再放送していたNHK「総合診療医ドクターG」という番組を見ました。患者の症状を劇中劇で見せて3人の研修医が診断を下し、それを経験豊富な医師が先生となって正しい診断へと導くというもの。少々専門的すぎるような気もしないではありませんが、一般の人たちにとってブラックボックス化している診断学を公開するという意義はあると思います。それはともかくとして、違和感を覚えたのは、先生役の医師が研修医に対して「○○先生」と呼ぶことです。医師免許を持っている同士は先生と呼ぶという長い業界の慣習によるものですが、生徒に向かって「先生」呼ぶのはやはりおかしい。
先日、読売新聞医療部におられた方のお話を聞く機会がありました。同紙の看板コラム「医療ルネッサンス」では、スタート以来、医師も患者さんも「さん」づけにしているとのこと。一つの見識だと思います。
ここにおられたか!
2016.09.23ときどき朝の半蔵門駅で電車を降りるど派手なお姿のオバチャンを目撃します。お生まれは戦後とお見受けします。厚化粧(都知事の10倍は厚い!)で、目の周囲は長いつけまつげともども真っ黒です。電車のシートからかかとの高いパンプスを履いた足がぶらぶらするほど小柄ながら、濃いめのピンクと黒を基調としたお洋服は極端なミニスカートです。
このオバチャン、どこかでお会いしたことのある方だなあと思いながら、ずっと思い出せませんでした。
先日、近くの蕎麦屋に入ったら、そこにおられました。元気にお客さんから注文をとっていました。ど派手なお姿の上に白い上っ張りを着ておられるから、すっかりお見逸れしてしまったわけです。人を服装で判断してはいけないと申します。これもその一例でしょうか。いや、ちょっと違うな(^○^)。
ゴミと排せつ
2016.09.21いま横浜市の文化センターを利用して開催されているイベントに参加しております。300席のホールや音楽練習室、ギャラリーなどを備えた立派な施設で、駅にほぼ直結しているという足場のよさも抜群。係の人たちも親切です。
しかし、この施設にはゴミ箱が一つもありません。ゴミはすべて持ち帰れ、ということのようです。外部からゴミを持ち込まれるのを防止するためもあるのでしょう。それはそれで理解はするのですが、社会的存在としての人間は何かの活動をすれば必然的にゴミを発生させるものです。生理的存在としての人間は必然的に排せつするもので、それへの対応としてはきれいなトイレが用意されていて、外部からトイレだけを使わせていただくことも可能です。
利用料金を払って使用しているのに、ゴミ処理を拒否するというのは、どうにも合点が行きません。
ビンボウとタボウ
2016.09.20
NHKが取材した貧困女子高生に対するバッシングが、国会議員も巻き込んで話題になっています。このNHKのニュースをたまたま見ていました。正直なところ、自分がイメージしている「貧困」よりはマシだなあと感じました。若い女性の貧困と言えば、樋口一葉の生活などを連想してしまいますが、時代は違っているのです。
世の中には、「忙しい、忙しい」と言っている人がたくさんいます。しかし、その忙しさの中身には大差があります。本当に分単位で次から次に仕事をこなさなければならない立場の人もいれば、1週間に800程度の原稿を1本書かなければならないから忙しいと言っている人もいます。忙しさは、その人の価値観によります。「金がない、金がない」と言っている人も同じようなものです。
しかし「貧困」は、そのような個々の感じ方とは別次元の話です。人間貧困指数というのは国や地域ごとに出される指数ですが、個々の世帯に関して現在の一般的な生活水準に照らして、ある閾値以下は貧困であると、誰もが納得出来る指数はないものでしょうか。
キョロキョロおじさん
2016.09.16ときどき朝の電車で一緒になるおじさんがいます。風体から想像するところ、会社を定年退職して、いまは不定期に仕事をしているといった雰囲気です。このおじさんがどうも気になって仕方ありません。なにがって、その挙動がです。
ホームで電車を待っているとき、いまは多くの人がスマホをのぞき込んでいます。わずかな人が本を読んでいる。それ以外の人はおとなしく下を向いたり前を見たりしています。しかしそのおじさんは、団栗眼なのですが、その目玉であちこちを見ます。キョロキョロしています。他人の顔もまじまじと見ます。遠くからも見ます。まことに不躾です。だからときどき目が合います。それがどうにも気に入りません。
人のふり見て我がふり直せと言います。自分はどうしているのかな、と思い返しました。そしたらやっぱりあちこちキョロキョロしていました。おじさんの方も同じように私が気になっているのかもしれません。なにか不気味な関係です(^O^)。
テクニカルな要素も大切ですが
2016.09.15相変わらず企業の不祥事は続いていますし、有名人や芸能人の犯罪やら不倫やらの報道も尽きることがありません。
広報コンサルタントの延長線上に、そのようなクライシスでのアドバイスを専門にしている方々がおられます。謝罪会見には5秒以上アタマを下げろ、高級腕時計ははずせ、などという指導をしておられる方々です。
先日、そのような仕事をしておられる方からいただいたメルマガに、強姦の容疑で逮捕された芸能人の母親の記者会見が成功だったと書かれていました。立ったまま記者会見に臨んだのがよかったとか。「まあそうかもな」とは思うのですが、なんとなく違和感も感じました。危機に臨んでは、このようなテクニカルで細かい要素も非常に大切で、弊社でもご依頼を受ければ同様のコンサルティングを行いますが、本質はどこか違うところにあるような気もするのです。それがここだと明確に説明できないところがもどかしいのですが・・・。
投資をしないなら
2016.09.14マイナス金利を深掘りするのだそうです。深掘りという表現も奇妙なものですが、さらにマイナスを進めるということでしょう。それでも企業は投資を活発化しません。報道されているように、投資する対象が見つからないということでしょう。いま消費者が求めている商品やサービスの中に大規模な設備投資を必要とするものはそれほど多くはありません。設備投資の機会を待つよりは株主還元や賃上げに内部留保をはき出していただく方が株価は上がるし景気もよくなるだろうと素人には思えるのですが、自社の利益に直接結びつく保証がない、他社もやっていないから怖くてできないなどと大企業の経営者は考えるのでしょうね。
大丈夫なのかな?
2016.09.12昨日の日曜日、所用があって銀座に出ました。ついでに新しくできた商業ビルを見学してみました。
率直な感想なのですが、同じような商業ビルがあちこちにある中で、本当に採算が取れるのでしょうか。もちろん個々にコンセプトが異なりターゲットも微妙に違うのでしょうが、六本木や渋谷や近くの有楽町にある同様の施設とテナントも客層も大差ないように思えて仕方ありません。
若い消費者はどんどん少なくなります。所得も増えていません。経済は停滞しています。なんとかミクスも短期的な政策に過ぎません。爆買いも終息しました。そういう状況の中で、同じような商業施設を作り続ける勇気に称賛するよりも、ちょっと危険な臭いをかいでしまったのでした。
机に足を
2016.09.09若い頃勤めていた外資系企業では両袖のデスクを使っていました。その両袖から引き出す補助の天板があって、昼休みはその上に両足を乗せて雑誌などを読んで過ごしていました。アメリカ映画に出てくるオフィスでは、社員は平気でそんなことをしていますね。
その後に勤めた日本企業のデスクも両袖でしたが、補助の天板がなかったので直接デスクの上に乗せていました。あるとき、著名な経営コンサルタントの方と雑談していて、「昼休みは机の上に足を乗せて休んでいますよ」と話したら、「それはいけないよ」とたしなめられてしまいました。海外経験の豊富な方でしたから、ちょっと意外でした。内心では、そんなこと問題ないよといまでも思っているのですが、以後そのようなことはしなくなりました。
新幹線の運転士が運転台に足を上げて運転していたそうです。たまたま誰かに写真を撮られたようで、ツイてないとも言えますが、200km以上で走っている新幹線ですから、これはやはりよろしくないと思いますよ。
受けた医療への不満足
2016.09.08昨日、大阪からの帰りの新幹線内で「週刊現代」を読んでいました。このところ連続して日本の医療や製薬会社への批判記事を掲載しているので、関係方面の方々の間では大きな話題になっているようです。
読みながら、このような記事が掲載された雑誌が売れるのは、日本の医療一般に対する不信というよりも、むしろ自分が受けた医療に対する満足度が低い患者さんが多いということを表しているのだろうと思いました。
実際、記事を読みながら、自分が過去に受けた医療と、その後の経過について改めて疑問が湧いてきてしまいました。たしかにミスがあったと思うのですが、それについて主治医を強く追究することはしませんでした。医師からは「ゴメン」と言われました。そしていまも、その医師から年に2回の検査を受けています。
知りすぎたのね
2016.09.05私たちのような仕事で何年かおつきあいをしていると、その会社の製品や業態や企業文化などを深く知るようになります。また、そうでなければよい仕事はできません。ところが、同時にその会社の内部事情もわかってきます。立派なトップだと見えていた人が実はかなり人間くさい(微妙な言い回しですが^^;)人だったり、幹部間の競争が激しかったり、常識を疑うような方が要路におられたり・・・。そんなことは仕事には直接関係ないのですが、否応なしに知るところとなります。このような内部情報は多少仕事に役立つ面もありますが、どちらかと言えばマイナスの方が多いような気がします。私たちのようなビジネスでは、ある面で知りすぎてはいけないのかもしれません。
読書感想文は事務文書である
2016.09.02小学校の夏休みの宿題として課される読書感想文の書き方マニュアルを配布した学校があるそうで、ネットの世界で話題になっています。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ8W4RCMJ8WUTIL00M.html?iref=comtop_8_01
私も小学生のとき、作文には多少の自信がありましたが読書感想文は苦手でした。
子供心に思ったのは、課題図書を読んでも感動する部分が見つからないから、何を書いてよいかわからないということでした。本の選択が自由であっても、感想文を書かなければならないとなると、そう気ままに選ぶわけにも行きません。先生に感心してもらえるように書かなければならないという意識も強く働いて、かえって書く意欲をなくしたのでした。
文章には実務的な文章と文学的な文章に分けられます。プレスリリースは実務的な文章の典型です。こういう文章を書くにはマニュアルは有効であると思います。一方で、文学的な文章をマニュアルにしたがって書けと指導するのはナンセンスもよいところです。従来の作文教育は、どちらかと言うと後者に偏っていたように思います。しかし、仕事をする上では実務的な文章能力が求められますから、そちらの教育も必要不可欠です。
読書感想文の宿題というのは、事務文書作成のトレーニングだと思えばよいのかもしれません。必要な要素をすべて満たして、誰からも後ろ指を刺されない文章をつくりあげる。小学生のときにそのことに気づいていればコンクールで入賞できたのに、と思うと少し悔しいなあ。
来年まで営業しているかどうか?
2016.08.30いま、来年春開催予定の70人規模のパーティ会場を探しています。紹介されてデパートに入っているレストランへ行ってみました。
料理は手頃な値段で質も悪くありません。広いバンケットルームもあって、AV(アダルトビデオではありません)も使えます。そこで来年の予約ができるかどうか聞いてみたら、「6ヶ月前までしか予約は受けてないんですよ。来年も営業しているかどうかわからないもので」という答えが返ってきました。詳しくは後日マネージャーからお電話させていただきますとのことでしたが、いつまでたっても電話が来ません。痺れを切らせて電話をかけたらマネージャー氏は不在。代わりに出た先日とは別の店員さんも「来年までやっているかどうか・・・」と言います。こんな重要事項を店員さんが気軽に口にするというのはどういうことなんでしょう。そう言えば、土曜日の夜に視察に行ったのに客がほとんどいませんでした。
今日、その店を経営している会社の業績が悪いという記事がネットに出ているのを発見しました。やはり来年まで営業するのは難しそうです。
広報イベントとネクタイ
2016.08.29ここ数年と比べ今年は暑さがいくらかマシであるように思います。最近の猛暑の方が異常であって、今年が平年並みなのかもしれません。それでも暑いことは暑いので、すっかり定着した感のある“クールビズ”でノーネクタイで過ごせるのはとてもありがたいことです。そもそも湿度の高い日本の夏にネクタイを締めることの方がおかしいんです。
さて、こんな季節に行われる広報イベントでネクタイを締めるかどうか。これはまた別の問題です。製薬会社や医療機器会社のようなドクターを相手にビジネスをする業界では、会社の中ではノーネクタイ、チノパンで仕事をしていても、そのような場ではクールビズも何のその、ネクタイをきっちり締めるのが“業界の常識”になっています。これは出席するドクターに対して失礼にならないようにという過度の配慮が働くためでしょう。
あるとき、講師としてお招きした医学界のVIPドクターがノーネクターで現れ、「あれ、しまった。どなたか余分なネクタイを持っていませんか」と逆に恐縮されたことがありました。それを聞いた主催者側はすぐに近くの洋品店に向かって駆け出したのでありました。主催者側のスタッフの方がネクタイをはずすという選択肢は誰も思いつかなかったようです。
病院の広報担当者は
2016.08.25先日来、依頼を受けて病院向けの広報講座のコンテンツを考えています。あらかたは出来上がったのですが、一つだけ「広報担当者の役割」をどのように説明しようかというところで悩んでしまいました。企業の広報担当者の仕事に関してはいくらでもお話できるのですが、病院となると少し事情が異なるようです。
遅れていると言ってしまえばそれまでですが、50年前の企業広報の状況とも異なります。どちらかと言えば市役所、区役所のそれに近い。担当者のマインドには学校のクラブ活動のようなところもある。それでいて、運営者からは受診患者数の増加を強く求められていて、プロモーションとの境があいまい。そのような状況のまま、もちろん進化している部分もあり勉強や研究も進んでいる。
と、まあそんなところなんですが、それだけに「どうしたもんじゃろのう」と悩んでおります。
誤植が多くてごめんなさい
2016.08.23校正という仕事には向き不向きがあります。私は大の苦手です。性格の違いのようにも思いますが違うかもしれません。一見ズボラのように見えて、校正をさせると漏れが少ないという人も存在するからです。
ある友人のブログにはミスタッチがほとんどありません。すごいなあと言ったら、「オレは元編集者だから当たり前だ」と威張っていました。職業的矜持が完璧な校正をさせているようです。
ある著名な写真家のブログは誤字ばかり。どうやら音声入力を使っているらしいのです。それはそれで構いませんが、写真家をしているくらいで目が不自由というわけではないのですから、校正くらいしてほしいものです。誤植が多い文章を読ませるのは読者をバカにしていることになるのではないかなあ。
このブログにミスタッチや誤植が多いのは、バカにしているのではなくて、冒頭に書いたように校正が大の苦手だからです。ごめんなさい。
急に舵は切れませんが
2016.08.22生来いろいろなものに興味があって、あれこれ手を出すものの、どれもモノになりません。そんなあれこれの一つに写真があります。そこでたまにカメラメーカーが主催するセミナーや写真クラブに顔を出すのですが、そこはまさに老人会そのものです。若くて40代。それもチラホラです。杖をついておられる方の方がはるかに多い。若いカメラマニアもたしかに存在するものの、カメラ産業の将来が明るいとはとても思えません。
性能のよくなったスマホで十分。プロカメラマンもSNSに投稿するときにはスマホを使っています。クルマも、若い人たちは実用上しかたなく所有しているにすぎません。多少スポーツカーが売れても大勢に影響はありません。
こういう価値観の変化に大企業も気づいてはいるはずですが、大型船ほど急には舵が切れないのでしょうね。
取り残される瞬間
2016.08.19先日二人の高齢者とお話しする機会がありました。お一人は大会社をリタイアしていまは講演活動をしておられる方、お一人は女流音楽家です。たまたま話がFacebookに及び、音楽家が「私、ああいうの苦手なのよね」とおっしゃったら、すかざず相手の方が「あんなものやらない方がいいですよ!」と言い放ちました。嫌悪感さえ感じられる勢いでした。
その方の現役時代にはFacebookなど存在しませんから、使ったことがないのも当然と言えば当然ですが、80歳を超えても個人サイトを持ち、毎日Facebookに書き込んでおられる方が知人の中に複数存在します。だから一概に年齢だけを問題にすべきではありません。しかし、多くの年寄りはこうして新しい技術から取り残されていく。その現場に立ち会ってしまったような気がしたのでした。
SNSを知らなくても人間の価値には何の影響もありません。SNSを手放しで絶賛すべきものとも考えてはおりませんが、脊髄反射のように拒否反応を示されたことにはいささかショックを受けました。加齢とともに新しい物事を理解したり使ったりする意欲を失うのはやむを得ないとして、そこに嫌悪感まで伴うということには初めて気がつきました。これは初対面の人に対して警戒感や嫌悪感を持つのとどこか共通したことなのかもしれません。
どうでもいいことですが・・・
2016.08.18SMAPが解散するのだそうです。職業柄一応チェックはいたしますが、個人としてはあまり関心がありません。そもそもデビューしたときからファンではありません。ヘタクソな歌や子どもっぽい歌詞が気に入りませんでしたから、どうしてあれだけの人気になったのか、肌感覚として理解できません。
高校野球にも個人としては関心がありません。これは東京の高校を卒業して、その高校も予選一回戦敗退ばかりを繰り返していたためでしょう。地方育ちのみなさんの熱狂を別世界のことのように感じております。
友人にヤクルトの熱烈なフアンがいます。ファンクラブにも入っていて、神宮球場にもしばしば足を運んでいます。この男に誘われて試合を見に行った別の友人の話によりますと、敗戦濃厚な試合運びにゲームセットまで「バカヤロー、バカヤロー」と大声で叫び続けていたとのことです。この心境がまったく理解できません。
どれもこれも大勢に影響ないことのように思うのですが、それぞれ人生の一大事だと考える人も少なくないということは、広報に関わる者として押さえておくことべきことなのでしょうね、きっと。
健常者にはわからない
2016.08.17盲導犬を連れた目の不自由な方がホームから転落したという痛ましいニュースがありました。ご本人はもちろんお気の毒ですが、盲導犬もまたどんな気持で事故を見ていたのでしょうか。そんなことが妙に気になります。
友人にも初老期から目が不自由になった方がいます。ときどきご一緒に外出します。慣れた道筋はお一人でもスイスイと歩きますが、馴染みのない場所には戸惑うようです。「はい、ここから階段。ここから踊り場。次は右です。少し左へ寄ります」などと生の音声ガイドをしながら目的地まで誘導しますが、本当に「不自由」なことだと思います。
その友人も新宿の私鉄のホームで柱に激突してお岩さんのようになったことがあります。その私鉄駅はなにか歩きにくく、別の私鉄駅の方が歩きやすいと言っていました。障害者にだけにわかる違いがあるようです。