腰パンと企業の論理の関係
2010.02.12
先日駅のエスカレーターに乗ったときのことです。前にいた男子高校生が盛んにズボンを気にしていました。てっきりズボンをたくし上げるのかと思ったら、意表をつかれました。彼はズボンを下げたのです。すでにベルトの位置は十分腰骨の下にあるにもかかわらず、です。
スノーボードのオリンピック選手が、ユニフォームのズボンをずり下げて空港に現れたと非難されています。私は実に寛容です。異なる価値観を受け入れることを基本としてこれまで生きてまいりました。だから高校生もスノボの選手もどうぞご自由に、といったところです。
しかし、少々気になることがあります。スノボの選手はストリート系ファッションが好みと報じられていますが、ズボンを腰骨より下げるのが、ストリート系ファッションなんでしょうか。若者のファッションに疎くなってしまったので自信はありませんが、ちょっと違うのではないか、という気がするのです。以下、独断と偏見で。
腰パンはサギー・パンツという米国輸入ファッションと言われていますが、日本の場合は、それとは異なる背景があるような気がします。近頃すっかり見かけることが少なくなった着丈の長い学生服、いわゆるガクランの流れです。これを戦前の蛮カラと結びつける説明もありますが、信用しかねます。蛮カラは、現在とは異なる階級意識のもとで、エリート層の内部での反骨精神の発露だったのです。ガクランや腰骨ズボンは、社会的エリートとは対極の存在でしょう。
スノボの選手もエスカレーターの高校生も、彼らの属している集団の中でのカッコよさを目指しているのでしょう。その小さな集団の中で評価されることに、価値観を置いているのです。その意味では、蛮カラもガクランも腰骨ズボンもまったく同じ種類の自己表現です。
これは企業社会にも当てはまります。いわゆる企業の論理というものです。自動車会社の論理が消費者の意識とズレていると、これまた批判を受けていますが、それとスノボ選手のベルトの位置はどこかでつながっているのではないでしょうか。遠い親戚なのだと思えてなりません。〈kimi〉
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