今度一度・・・
2015.08.10
決して律儀な人間ではありませんが、一つ心がけていることがあります。
「一度ご一緒に・・・」
極めてあいまいな表現ですが、ビジネス社会にどっぷり身を置いている人たちには、
「近いうちに食事の機会を持ちましょう」あるいは「一杯やりましょう」という意味だとすぐ理解できます。
ただ飲み食いするだけではなく、お互いが持っている有用な情報を交換しましょうとか、仕事のやりとりができる可能性を探りましょうなどという含みもあります。もちろん利害に関係なく気の合う相手と楽しく一夜を過ごそうというお誘いであることも少なくありませんが。
ところがこの言葉は一種の外交辞令でもあって、実行に移されることがなくてもお互い目くじらを立てないという暗黙の諒解が成立しています。「じゃあ、また(もし機会があればでですが、お目にかかることもあるでしょう)」とほぼ同義です。
心がけているというのは、これを「外交辞令」にしないことです。自分から言葉をかけたら必ず実行する。それをここ何年かほぼ完遂しています。
となるといい加減なことは言えません。面白くなさそうな人、利害に関係ない人、気に入らない人などには絶対に声をかけません。極めて多忙であったり、エラ過ぎてこちらが相手にしてもらえそうにない人にも言いません。相手との距離感をより明確に認識する習慣ができたのは収穫でした。
相手の方から「今度一度」などと言われたときにどう対応するかも考えておく必要があります。この場合は受け身ですから、誘われるまでこちらからアクションを起こすことはまずありません。本気なのか外交辞令なのか妙に気になりますが、じっと待ちます。これまでのところ9割方は外交辞令であることが判明しました。気にするだけ損というものです。これももう一つの収穫と言えるかもしれません。〈kimi〉
理想的社員
2015.08.04東芝の「不正会計」に関する第三者委員会の報告を読みながら、四半世紀前に入社した会社のことを思い出しました。
その会社は当時、毎年の決算発表時に過大な業績予想を発表することで市場に知られていました。実現不能な数字ですから年度内に下方修正せざるを得ず、ウソつき会社という有り難くないニックネームまでつけられてしまいました。
当時の社内の状況はどうであったかと言えば、強いカリスマ性を持つ経営者が「来年はこのくらいはできるじゃろう」と数字を示すのに対して役員以下、誰一人として異議をはさむことができませんでした。「無理でしょう」などと言えば、「オマエはやる気がないのか」と左遷、降格、退社を覚悟しなければなりません。
しかし、できないものはできません。期が進むにしたがって実態が数字に表れ、下方修正せざるを得なくなります。いまから思えば、よくぞ粉飾決算に手を染めなかったものだと変な感心をしてしまいました。表面化することはもとより社内で噂さえありませんでした。まだまだ、かわいいウソつきだったようです。
そういう経験をしていると東芝社内の雰囲気がなんとなく想像できます。社員の胸にわだかまるあのくら~い気持。考えるのもいやになります。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』に「兵卒」という項があります。
「理想的兵卒は苟(いやし)くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。
又
理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。」
〈kimi〉
チームワークのできない人
2015.04.14
日本人はチームワークが得意。その反面、個人主義が根づかないともいわれています。
シュートチャンスなのにパスを出してしまうサッカー日本代表選手などを見ていると、むべなるかな。先のウズベキスタン戦で、柴崎のロングシュートを追っていた岡崎が確実にゴールを決めることができたのに、相手ディフェンスを岡崎がブロックして、柴崎のゴールにしたのもフォア・ザ・チーム。その結果として、柴崎は岡崎に感謝する。他のチームメイトも岡崎に敬意を払うようになる。チームの団結力が強まる。チームが強くなる。そのチームが大きな戦績を挙げれば、その一員としての柴崎にも岡崎にも利益がもたらされる。荒っぽく分析すれば、そのような考え方が日本人に定着しているということでしょう。サッカーチームはそっくり企業に当てはめることができます。
長年外資系、内資系企業で仕事をしてきた経験からチームワークの重要性は理解しているつもりです。しかし、チームワークだけを重視してきたわけでもありません。ときには独断専行もしました。それが成功したことも失敗したこともあります。だからチームを優先すべきか個人プレーを優先すべきか、どちらとも言い切れません。たぶん二者択一ではなく、その中間のどこかに最適解があるのでしょう。
しかし、断言できることが一つだけあります。一人ではできないことがチームならできることもある、ということです。
また、個人プレーしかできない人の多くはとても自己愛が強い、あるいは自分だけの利益を大切にしている、ということも断言はしませんがほぼ確実と考えています。このような人はチームのメンバーから嫌われ疎外されますから、必然的に個人プレーしかできなくなってしまいますが、そのような人がよい仕事をする例も決して少なくありません。
ところが、大きな組織に属していると、自分が組織というチームに属していることを忘れてしまうという現象がときに起こるようです。大組織の寛容さに甘えて、自分で好き勝手に動いているような気になってしまう。しかし所詮は「お釈迦様の手の上」に過ぎません。組織を離れてみれば、自分一人では何もできないことがわかるはずです・・・が、わらない人もいるということを言いたかったのであります。〈kimi〉
語り継ぐということ
2015.04.06
日本が敗戦して今年で70年。敗戦当時10歳だった子どもも80歳です。
NHKの特報首都圏を見ていたら、ノンフィクション作家の梯久美子さんが、65歳でも20歳(だったかな?)でも戦争を知らないということでは同じだ、という趣旨のコメントをしていました。卓見というべきでしょう。
近頃、日本が戦争をして敗れたという歴史をすっかり忘れたかのような政治や社会の動きが目立ちます。
いま65歳の人が10歳になったのは1960年。「60年安保」の年に重なります。日米安全保障条約への反対運動には、日本が起こした戦争に対する反省と再び戦争に巻き込まれたくないという国民の思いが背景にあったことは言うまでもありません。10歳の子どもにどれほど理解できていたのか疑問ではありますが、その意識になんらかの影響を与えたであろうことは間違いありません。さらにその後の10年、20年を生きて行く中で、戦争経験者から多くの実体験を聞く機会がありました。毎年12月と8月にメディアで大量に流される日中戦争や太平洋戦争に関する報道にも接し続けてきました。
いま20歳の人が10歳だったのは2005年。その2年前にはイラク戦争がありました。戦争体験者の数も少なくなっていました。65歳の人と20歳の人が接触した戦争に関する情報量には絶対的な差があるはずです。
衆議院議員の平均年齢は50数歳だそうです。毎年、あるいは選挙のたびに、過去の戦争に関する情報受信総量の少ない政治家が増えて行きます。現在の政治の流れはますます加速する可能性があります。
戦争体験を語り継ぐ大切さを折に触れてメディアは強調して来ました。それに現実感を覚えることなく過ごしてきましたが、いまになってその重要性を切実に感じるようになりました。戦後生まれの私たちには、決して語り継ぐことができないのですから。〈kimi〉
泣く子と地頭には勝てぬ
2015.03.02〈道理をもって争っても勝ち目のないことにいう。泣く子のききわけのないことを、鎌倉時代の地頭の横暴なことにかけていったもの。(広辞苑)〉
ある女性管理職は多くの成果を挙げてはいるのですが、しばしば理屈に合わないことを言い出します。部下でも上司でも、それに異を唱えると烈火のごとく怒り狂い、最後は泣き出してしまいます。とても手が着けられないので、やがて彼女に対しては、誰もが腫れ物に触るように接し始めました。上司はそれとなく逃げ、部下は黙って従いました。かくして彼女の部署は独裁者が支配する閉鎖社会となってしまったのでした。セクハラとかパワハラなどという言葉が生まれる以前の話です。
権力がどのようにして生まれるのか、フーコーをはじめ種々の難解な研究や考察があるものの、素朴に考えると「泣く子」と「地頭」の二要素に集約できそうな気がします。
泣く子はききわけがない、ということはいくら理屈を言っても通じないということです。しかし泣いている子を放っておくわけにも行きません。世のすべての権力者やワンマン経営者は理不尽なことを言い出します。「それでは整合性がとれません」などと抗議をしたところでなんの効果もありません。権力を持つ者は、それが無能力によるものか意志的なものかは別にして、理屈を理解する人間であってはならないのです。理不尽な命令だと思っても部下は無視できません。理屈を言い張って反発する部下には怒鳴りつけ、左遷させればよいのです。怒れば怒るほど権力は強化されます。居酒屋などで「彼は優秀なのだが物わかりがよすぎるんだよ」という出世の道を絶たれた同僚に対する人物評をしばしば耳にするのは、このことの裏返しです。
地頭は欲の塊です。自分の利益になることならどんな乱暴なことでも平気でする。それが強さです。「彼は欲がなさすぎるんだよ」という、これも居酒屋でよく耳にする人物評がその裏返しです。
欲は強ければ強いほど権力を補強するので、欲が弱いまま安易に理不尽なことを言い出すと、逆に権力を奪われる危険があります。泣く子と地頭は両者併せ持って初めて権力者となり得ます。
政治指導者から直属上司まで、行列のできるラーメン屋のオヤジから配偶者まで、上下左右じっくり観察してみてください。泣く子と地頭には勝てぬ、実に正鵠を得たことわざであることが理解できるはずです。〈kimi〉
Bookish atmosphere
2014.12.08「この本は面白いからぜひお読みなさい」と推薦されることほど迷惑なことはありません。本を読まないという人は論外として、一般に本は読み手の興味や関心によって選ばれるべきものであって、それ次第で面白いかつまらないかが決まります。義務や義理で読まされるのは教科書くらいにしてほしいものです。
ところが困ったものです。人生の残り時間が気になる年齢ともなると、自宅で大きな場所をとっている蔵書の行く末をどうしたものかと悩むようになるようです。息子も娘も本などに関心がない。ましてや親父が集めた古書など手に取る気はさらさらない。始末してから逝ってくれなどとイヤミの一つも言われかねません。読書家、蔵書家ほどこのような悩みは大きくなりますが、最近は学術書、思想書、文芸書などのお堅い本は古書店でもさっぱり売れないようで、紙屑としてならともかく、書籍として売り払うのは容易でないそうです。そこで、知り合いに少しずつ押しつけて身軽になろうという方法論を思いつく人が出て来ます。あの人ならこの本は喜ぶだろうと当て推量でお持ちくださるのですが、たいていはハズレます。
先日いただいたのもその類で、パラパラとページをめくっただけで本棚に突っ込んでしまいましたが、当方のお粗末な蔵書も行く末が定かでないところに、またまた債務を背負わされた気分になりました。
世の中では整理整頓、断捨離などとモノを捨てる生活や収納の名人などが持て囃されているようです。それに異論はありませんが、本だけは別だという論者も少なくないようです。
そこで思い出したのが、大学の英文講読の時間に読まされた英国の文藝評論家ベネット(Enoch Arnold Bennett 1867-1931)のテキストにあったbookish atmosphereという言葉。人間の生活には本のある環境がとても大切だ、という意味のことが書かれていたと記憶しています。本を処分しない、あるいはできない言い訳に、この言葉はとても便利に使えそうです。しかし、やはり何の解決にもなりません。〈kimi〉
ホッピー談議
2014.11.06このところホッピーを飲む機会が増えました。理由は節酒です。若い頃のようには飲めなくなって、一定量を過ぎるとなんとなく身体がアルコールを拒否し始めるような感覚があります。そんなときにホッピーは便利な飲み物であることに気がつきました。
「ホッピー!」と注文すると、ホッピーだけが出てくるということはあり得ません。大きなグラスに氷と甲類焼酎を半分から三分の一ほど注いだものを伴って登場します。飲み屋では、ホッピー+焼酎+氷のセットではじめて「ホッピー」という商品となり得ます。そういう意味では極めて珍しい飲料です。
その大きなグラスにホッピーを注ぐのですが、その量は飲む方の自由に任されます。そこがポイントです。多めに割って、少し飲んだところでまた割るという動作を繰り返すと、薄めの焼酎をかなり長い時間をかけて飲むことができます。また、これもホッピーならではですが、「中だけ」と追加注文すると焼酎と氷を入れたグラスが、「外だけ」と注文すると瓶入りのホッピーが運ばれて来ます。ご存じの方には釈迦に説法ですが、これは日本中の飲み屋での「お約束」になっているようです。だから「外」だけを追加して行けば、いつかアルコールの成分は限りなく薄くなってしまい、酒を飲んでいるように見えながら実は清涼飲料水だけを飲んでいる、という状態になります。
そのホッピー、若いときにうまいと思ったことは一度もありませんでした。ビールの代用品でビールより安いという触れ込みでしたが、ビールとは似ても似つかない色つきの炭酸水でしかありません。妙な飲み物、胡散臭い飲み物といったイメージもつきまとっていました。
ところが、ある日突然と言ってもよいでしょう。メディアがホッピーを取り上げ始めた。何代目かの女性社長による戦略が効を奏したようで、ビールのまがい物から「ホッピー」という独自の飲み物へとポジションチェンジが図られました。プリン体が含まれていない健康によい飲料という訴求もされています。浅草には「ホッピー通り」まで出現しました。これは見事な成功事例です。
マーケティング広報のオリエンテーションなどで、この製品は他社品をフォローしたものなので、その代替になり得るという訴求をしてほしい、といった依頼を受けることがたまにあります。よくうかがってみると、他社品とは異なるストロングポイントがいくつかあるのですが、担当者はどうせ勝ち目はないとすっかり弱気です。ちょっと視点を変えてみたらどうですか、と提案してみても、弱気が会社全体のコンセンサスになっていると、ポジションチェンジは容易ではありません。
若いときはちっともうまいと感じられなかったホッピーですが、そんなあれこれを考えながら飲むとちょっとイケますよ。〈kimi〉
人それぞれではありますが
2014.09.23
毎朝、ラッシュのピークからやや過ぎた時間帯に地下鉄に乗っています。吊革の半分ほどに乗客がつかまっている程度の混み方です。そこにときどき車両を移動する人が現れます。降車駅の階段に近いドアに移って定時前に会社に滑り込みたいという心理は、長年会社勤めをした経験からは十分理解できるところですが、その程度の混み具合ですと、立っている乗客の身体に触れたり少々押しのけたりすることは避けられません。立ちながら読書をしたりスマホを使ったりしている乗客にとっては決して気分のよいものではないでしょう。
その地下鉄がある駅とある駅の間を走っているとき、毎日必ず乗客を押しのけるように車両を移動して行く男性がいることに、ある日気がつきました。同一人物です。堅気の仕事をしているような風体です。きっと乗る駅の階段と降りる駅の階段が離れているのだろうと、初めは考えました。ところが、ある日は前から後へ、またある日は後から前へと日によって移動方向が異なるのです。目的は明らかにほかにありそうです。
その目的がわかったのはつい先頃です。乗客をかき分けながら網棚の上の所有者不明の雑誌にひょいと手を伸ばしたのです。翌日からよく観察していると、歩きながらチラリチラリと網棚に目をやっていることが確認できました。
週刊誌の価格はいま350円から400円。新聞の駅売りは110円から160円ほど。その出費を惜しむが故に毎朝10輌編成の端から端まで人をかき分けながら、迷惑がられながら、さらに奇異な目で見られながら捨てられた雑誌や新聞を求めて歩いているのだとしたら・・・。人それぞれ。価値観の多様性は認めるところではありますがねえ。〈kimi〉
時間ですよ!
2014.08.18
広報に関連するレクチャーをする機会が年に何回かあります。とくに今年はご依頼をたくさんいただき、その準備に追われています。
レクチャーも長年経験を積むにつれ、いくつかのコツや禁じ手が身についてきます。
最も重要と考えているのは、時間厳守です。90分という時間が与えられたら90分ピッタリで終了する。終了時間を過ぎると、受講者の集中がぷっつり途切れるのが明らかにわかります。準備してきた内容を残してしまったとしても、制限時間を過ぎたら聞き手が聞く耳を持たなくなってしまうのですから、それ以上いくらしゃべっても無意味というものです。
かと言って、「時間が来ましたので、途中ですがここで打ち切ります」というのでは受講者に失礼です。全部しゃべってしまおうと、早口ですっ飛ばしてしまうのも同様です。
時間を過ぎても悠然と話し続けるエライ先生などもってのほか。何を考えているのだろうと呆れてしまいます。主催者にとっても大迷惑になってしまいます。
レクチャーしながら時間をコントロールするのは一つの技術ですが、そもそも準備段階で時間がはみ出すほどのコンテンツを盛り込まないのが鉄則でしょう。
余談ですが、レクチャーの質を判断する一つの目安にしていることがあります。
字釈とでも言うのでしょうか。たとえば、
「癌とは『やまいだれ』に『品物の山』と書きます。いろいろな悪い生活習慣が山のようになると発症する病気です」
みたいな講釈です。漢字は表意文字とか表語文字と呼ばれるように、それぞれ意味を持っていますし、その語源も白川静氏の「字統」などを引けばすぐにわかることです。ところが、漢字の講釈師たちの話には牽強付会が少なくありません。思いつくままにいくつか例を挙げると、
「食は人が良くなると書きます。それだけ食事というものは大切です」
「辛いは十回起ち上がると書きますが、最後の一回を起ち上がると幸せになります」
「吐という字は口偏に±と書きます。マイナスと取り除くと叶になります」
講義のテクニックと思ってやっておられるのでしょうが、無意味もいいところ。詐欺みたいなものです。こういう話をしたことは一度もありませんし、これが始まったら、すぐに講演会場を後にすることにしております。〈kimi〉
おセンチ
2014.07.08仕事に役立つかと考えてFacebookに入って何年になるでしょうか。ちっとも役立たないとわかってから、もっぱら親しい人たちとの交流に限定して使っていますが、それでも少しずつ「友達」の数が増えてきます。
知り合いの意外な一面が書き込みからわかったりするのは、Facebookのいいところでしょう。最近「友達」になったご高齢の紳士たちが、尊敬に値する見識とインテリジェンスの持ち主であることがわかったときは、ちょっと得した気分になりました。
そのような「友達」の中に、驚くほどの頻度でコメント(近況)をアップしている人たちがいます。「この人、いつ仕事をしているの?」と意地悪な疑問さえ感じるほどです。
薬業界の周辺情報をせっせとシェアしてくださる方がいたり、お子さんのためにお父さんがつくるお弁当を毎日紹介してくださる方、ご親族を亡くされて、ご葬儀からその後の面倒な諸手続まで、ほぼリアルタイムでご報告された方もいます。読んでいるうちに、こちらも思わず「南無阿弥陀仏」の心境になってしまいました。
そのような人たちには、ある種の共通点があるような気がします。
主張したいことや個人的な「思い」をたくさん持っていらっしゃるということです。しかし、それらを発表する場は多くありません。それでFacebookを利用しておられるのでしょう。それもFacebookの存在価値の一つなのかもしれません。
印刷媒体でそれらを表明する場合より、ずっと個人的な内容が書き込まれる点も特徴的です。読んでいるうちに「おセンチ」という単語が頭に浮かんで来ました。センチメンタルの略です。死語となって久しい昔々の流行語ですが、感傷的と言うとちょっと強すぎるときに使われていたかと思います。
まことに失礼ながら、熱心に書き込みをしているあの方この方を思い浮かべながら、おセンチな人たちなんだなあ、と密かに納得してしまいました。人間関係にどこか飢えている方々なのかもしれません。
たまには有益な情報もいただいていますから、それらの書き込みにはそれなりの価値は認めてはおりますが。〈kimi〉
効果測定の原則に関するバルセロナ宣言
2014.06.02広報活動の効果測定ほど広報担当者の頭を悩ませるものはありません。
現代の企業では、個々の企業活動がどのような結果をもたらしたのかを必ず評価することが求められます。投資効果、投資利益率、投下資本利益率、投下資本収益率、費用対効果、ROIなど種々の用語が使われますが、要するに「やっただけの効果があったのか」、「金を使っただけの見返りはあったのか」を評価して報告しなくてはなりません。そのような評価をもとに次の施策へとつなげて行く、いわゆるPDCAサイクルを回すことで企業の成長、発展が実現されるという考え方です。
ところが広報活動の効果測定には、普遍的な方法論が確立していません。世の中には、これこそが効果測定の決め手でもあるかのようなさまざまな手法が並び立ってはいるものの、どの企業にも、どのPRキャンペーンにも適応できる評価方法は未だ存在しない、と断言できます。言い換えれば、誰もが納得でき、比較対照でき得る普遍的な指標、KPIは確立していないということです。
そのような状況の中で、メディアやコミュニケーションの調査・評価に関する国際機関で英国に本部のあるAMEC(International association for the measurement and evaluation of communication)と、米国の非営利広報研究機関であるIPR(The Institute for Public Relations)が、2010年6月にスペインのバルセロナで開催した「効果測定に関する欧州サミット(2nd European Summit on Measurement)」において発表した「効果測定の原則に関するバルセロナ宣言」(Barcelona Declaration of Measurement Principles)は、企業の広報担当者や広報業界に大きな示唆を与えるものと考えられます。
この宣言は、すでにどこかでどなたかが日本語に訳されておられるのだろうと思いますが、ネット上では発見することができませんでした。
そこで弊社で拙い日本語訳を試みましたので、ここにご紹介いたします。正直に申しますと、宣言が言わんとするところを完全に理解し得ない部分もありましたので、ご意見やご指摘をいただければ幸いです。
なお、コピペはご自由ですが、その際は必ず「株式会社ココノッツ訳」とのクレジットを入れてください。
効果測定の原則に関するバルセロナ宣言
AMEC & IPR(第2回効果測定に関する欧州サミット 2010年6月)
広報の効果測定に関する7つの原則
1.目標設定と効果測定は重要である
2.アウトプット(露出)の測定より、アウトカム(成果)への効果を測定する方が望ましい
3.業績への効果は測定可能であり、可能なかぎり測定すべきである
4.媒体における効果測定には、量と質が求められる
5.広告費換算(AVEs)は、広報活動の価値ではない
6.ソーシャルメディアは測定可能であり、測定されるべきである
7.信頼できる測定には透明性と再現性が最も重要である
原則1.目標設定と効果測定は重要である
●目標設定と効果測定はあらゆる広報活動における基本である
●目標は可能な限り定量的であるべきで、そのPR計画には、誰に、何を、いつ、どの程度影響を与えることを意図したものかを明確にすべきである
●効果測定は、主要なステークホルダーによる認知、理解、態度、習慣行動における変化や業績への効果について、代表的な既存メディアとソーシャルメディアを含め、総括的にアプローチすべきである
原則2.アウトプット(露出)の測定より、アウトカム(成果)への効果を測定する方が望ましい
●アウトカム(露出)とは企業、NGO、行政あるいは事業体のステークホルダーにおける購買、寄付、ブランド資産、企業評価、労使関係、政策、投資決定に関わる認知や理解、態度、習慣などの変化のことであり、ステークホルダー自身の信念や習慣の変化も含まれる
●アウトカム(成果)に対する影響を測定する際は、広報活動の業務目的に合わせて調整が必要である。ベンチマークや追跡調査のような定量的な測定が適している場合が多い。しかし、定性的な手法がうまく適合することもあり、定量的な測定を補完するために使うこともできる
●標準的で最良の調査研究というものは、標本設計、設問の表現や順番、統計分析などすべてを通して透明性が保たれるべきである
原則3.業績への効果は測定可能であり、可能なかぎり測定すべきである
●売上やそのほかのビジネス指標に対して、PRによる露出の質と量がどれほど影響したかを測定するモデルは、他の変数に影響されるとは言え、商品マーケティングやブランドマーケティングから得られた業績を測定するために推奨できる選択である。
関連するポイントは:
・クライアントでは、商品マーケティングへの効果を評価するマーケティングミックスモデル分析の必要性が生まれている
・PR業界は、他の測定アプローチとは異なるが、商品マーケティングPRを正確に評価するために、マーケティングミックスモデル分析の価値と意味を理解する必要がある
・PR業界は、マーケティングミックスモデル分析に信頼のおける情報を提供するようなPRの効果測定法を開発する必要がある
・調査研究はまた、広報的取り組みへの接触による、購買や購買嗜好や態度などの変化を抽出するのに利用できる
原則4.媒体における効果測定には、量と質が求められる
記事のクリッピング数や露出件数の計測はたいてい意味がない。その代わり、媒体における効果測定は既成メディアでもインターネットでも、以下の評価を行うべきである
●ステークホルダーや購読者・視聴者への露出件数
●以下を含む報道の質
論調(トーン)
ステークホルダーや購読者・視聴者に対するその媒体の信頼性と関連性
伝えられたメッセージ
第三者や企業のスポークスパーソンの登場
その媒体の適切な知名度
●質は、ネガティブ、ポジティブ、ニュートラルのいずれかになり得る
原則5.広告費換算(AVEs)は、広報活動の価値ではない
●広告費換算(AVEs)は広報活動の価値を測定するものではなく、将来の活動の参考になるものでもない。それらは、媒体のスペース料金を測っているのであり、広報の価値を測るという概念としては受け入れられない
●広告料を必要とするスペースと広告料を必要としないスペースのコストを比較する際には、目的を明確にし、以下の項目を反映した正当な評価方法を用いるべきである
・できる限り、その広告主に適用される個別の広告料金
・ネガティブな結果を含む報道の質(原則2を参照)
・報道された実際のスペース、そしてそれに関連した報道の量
●広告料を必要とするメディアに対し、広告料を必要としないメディアのスペース料金をより大きく見せようとすることは、特殊なケースで証明されている場合を除いては、決してすべきではない
原則6.ソーシャルメディアは測定可能であり、測定されるべきである
●ソーシャルメディアの効果測定は原則のようなもので、手法といったものではない。すなわち、単一の測定基準は存在しない
●組織は、ソーシャルメディアの目標や成果(アウトカム)を明確に定義する必要がある
●コンテンツの分析は、web検索の分析、売上、CRM(Customer Relationship Management)データ、調査データ、その他の方法で補完されるべきである
●伝統的なメディア同様、質と量の評価が重要である
●効果測定は、単なる“カバレッジ”だけではなく、“会話”と“コミュニティ”を重視しなければならない
●リーチとインフルエンスを理解することは重要であるが、情報源に遡及することができなかったり、十分に信頼できる透明性や一貫性がないことがあるので、実験やテストが成功の鍵となる
原則7.信頼できる測定には透明性と再現可能性が最も重要である
PRの測定はプロセスのすべての段階で、以下に特記したように、透明性と再現可能性のある方法で行われるべきである。
媒体測定:
●コンテンツ(印刷物、報道、インターネット、消費者発信型メディア)の発信元とその収集基準
●分析手法 - 人間の手によるものか機械によるものか、トーンの尺度、ターゲットへのリーチ、コンテンツ分析のパラメーターなど
調査:
●方法論 - 標本の抽出枠と大きさ、許容標本誤差、確率標本抽出法あるいは非確率標本抽出法
●設問 - 言葉遣い、順番など、すべて質問された通りに公表すべき
●統計手法 - どれくらい特異的な測定基準で計算されるか
株式会社ココノッツ訳 ©2014, CocoKnots Inc. 〈kimi〉
手帖と同窓生
2014.05.27
広報を業としている者が、メディアに関して批評がましいコメントをするのはおこがましいと言うか、控えるのが慣わしのようなものですが...。
暮しの手帖誌の広告の
「これはあなたの手帖です。この中のどれか一つか二つは、すぐに今日のあなたの暮らしに役立つでしょう」
というコピーが少々気になりました。
一言申し上げておきますと、最近は手に取る機会が少なくなったものの、子どもの頃からの大の暮しの手帖ファンです。いまはなき商品テストをはじめ、料理の記事や黒田恭一さんのレコード・CD紹介なども熱心に読んでいました。長じては、企業の広報担当者として、商品テストに対する異議を伝えるために何度か編集部へ足を運んだこともありましたが、決して嫌いにはなりませんでした。
さて、件のコピーです。「これはあなたの手帖です」と言いきる自信、素晴らしいですね。創刊以来の実績が言わしめるのでしょう。ではありますが、どことなく上から見下ろしているようなニュアンス、いわゆる上から目線が感じられないでしょうか。
戦後の日本社会で同誌が果たしてきた役割や位置づけは、何も知らない市井の人たちに教えてあげる、というものだったと思うのですが、現代日本の社会意識とは少し異なってしまったような気がします。
もう一つ、違和感を感じる雑誌記事があります。文藝春秋の名物企画である「同窓生交歓」です。功成り遂げた数人のクラスメートの記念写真とともに、その一人の短文を掲載するというもの。掲載された方の喜びはいかばかりかと拝察いたしますが、この取材に呼ばれなかった社長にも教授にも作家にも局長にも理事長にもなれなかったクラスメートのみなさんはどう感じておられるのか。このページを見るたびに、そちらの方が気になって仕方ありません。〈kimi〉
なかなか
2014.05.02人によって、無意識に頻用してしまう独得の言い回しや単語があるものです。無意識だけに、よくよく注意して推敲して摘み取らないと、なんともしまらない文章になってしまいます。
筆者の場合、そのような例の一つに「なかなか」があります。
このブログでも、調べてみると、
「それがなかなか難しいのです」
「健常人にはなかなか理解できません」
「これはなかなか便利な機能である」
「なかなかそうは行きません」
などと頻発させています。まことにお恥しい限りです。
この「なかなか」の効用は、ちょっと口語っぽくくだけた雰囲気が出せるところにあります。公文書などにはあまり使われない言葉でしょう。また、話の焦点をぼかすソフトフォーカスレンズのような効果がありますが、それだけに、使いすぎると文章がぼやけてきます。
筆者が「なかなか」を使うようになったのは、以前仕事でご一緒したある方の影響です。
その方は、しばしば次のような使い方をしました。
「○○部長ってさあ、ああ見えてもなかなかなんだよねえ」
「彼もさあ、なかなかだから、気をつけなくちゃいけないんだよ」
何を言いたいのか明確ではないのですが、なんとなく言いたいことはわかるような気がするから、不思議な修辞法です。
一般には「なかなかよい」という含意で使われることが多いのでしょうが、この方の場合は「隅に置けない」とか「裏がある」とか「自分の主張を曲げない」とか、多少ネガティブな意味を込めているようです。しかし、明快に表現してしまうと、いつかその人物評がご本人の耳に伝わって、自分に災いが降りかかるかもしれません。「なかなか」と言っておけば、なんとでも言い逃れができます。
これは独裁国家とか全体主義国家においては極めて有用な語法となるでしょう。
「あそこの基地を見る機会があったんだけどさ、なかなかでしたよ」
などと言っている限りは秘密保護法に抵触する恐れはありません。いまから「なかなか」の使い方に習熟しておいて損はないのかもしれません。〈kimi〉
最先端はお好き?
2014.04.23その後、STAP細胞の論文への疑問やら韓国のフェリーの沈没やら、大きな事件が立て続けに起こったので、例の偽作曲家の話題は週刊誌やワイドショーからすっかり消えてしまいました。人の噂も七十五日。今頃、偽作曲家はシメシメと思っていることでしょう。
そんなことを思い出したのは、今朝の電車の中で、モーツアルトの弦楽四重奏曲を聴いていたからです。
モーツアルトばかりでなく、私たちが好んで聴くクラシック音楽はバッハ、ヘンデル、ベートーベン、ブラームスなど、17世紀から20世紀初めまでのいわゆる調性音楽です。コンサートでも演奏される音楽のほとんどが調性音楽です。そして、偽作曲家がゴースト作曲家から供給を受けていた音楽もまた調性音楽でした。それでCDがたくさん売れました。もちろん作曲家の耳に障害があるなどという修飾が大いに影響したわけですが、これが無調の現代音楽だったら、ほとんど売れなかったはずです。
新聞や雑誌からの情報によれば、ゴースト作曲家氏も本名で発表しているのは無調の現代曲だそうです。しかし、それは売れていない。
現代作曲家によるとんがった音楽は、誰がどう擁護しようが、そのほとんどが聴いていて面白いものではありません。まるでわからない。数学や理論物理学の最先端の講義を聞いているようなものです。何事によらず最先端を目指すことは大切です。しかし、最先端の部分は誰もが楽しめるものではありません。そこで多くの人たちは、現代クラシック曲には見向きもせず、もっぱらポップスやロックを聴くようになってしまったのだと思います。だって、その方が楽しいもの。
STAP細胞も、その研究を本当に理解できる人は限られます。私たちはわかったようなつもりになっているだけで、実はな~んにもわかっていないのです。そんな難しい話より、もっとわかりやすくて原初的な感性に訴えかける話題の方が楽しいに決まっています。そこで、何回STAP細胞ができたのかとか、ノートの冊数がどうとか、小保方さんが美人だとか洋服のブランドがどうだとか、そんな方面につい関心が向いてしまうのでしょう。〈kimi〉
南三陸町佐藤町長のお話
2014.04.02日本医学ジャーナリスト協会が昨年に続いて企画した東日本大震災被災地への取材ツアー(3月30~31日)に参加しました。被災地の復興がどこまで進んでいるのか、原発事故の影響は住民の健康や意識にどのような影響を及ぼしているのか等々、現地の方々からお話をうかがおうという企画です。気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、仙台市(宮城県庁)、相馬市、南相馬市と3県7市町を駆け巡り、首長をはじめ地元開業医の先生、被災地の復興に尽力されている経営者や市民、「語り部」として活動しておられる方など10名以上のみなさんから直接お話を聞くことができました。
印象に残るお話をたくさんうかがいましたが、その中の一つです。
死者625名、行方不明者199名を出した南三陸町の佐藤仁町長。町長ご自身も防災対策庁舎の屋上のアンテナにつかまって九死に一生を得ました。その佐藤町長は震災の直前、たまたま阪神淡路大震災の経験者の講演を聞いていて、そこで心に残っていたことが二つあったそうです。
一つは職員の食事を確保する必要性。
これはたしかに日本人がおろそかにしがちなポイントです。兵站(戦場の後方にあって、兵器・食糧などの管理・補給に当たること=明鏡国語辞典)は旧日本軍の最大の問題点でもありました。いまの企業においても業務の遂行にばかり熱心で社員の体力や健康への配慮を欠いたことによる悲劇が繰り返されています。
この3月に文庫本になったばかりの「河北新報のいちばん長い日--震災下の地元紙」にも、震災直後に「おにぎり班」を組織して、食料や燃料が入手できない状況下で震災報道に当たる記者たちを支えたエピソードが紹介されています。
二つ目はメディア対応の重要性。
佐藤町長は毎日自ら記者会見してメディアの取材を受けていたそうです。これはトップがするべきことだ、と町長は強調しておられました。トップが取材に応じるからテレビも新聞も取材に集まる。メディアへの露出が増える。その結果として全国的に注目され、援助額が他の被災地よりも大きくなったそうです。確かにテレビニュースや新聞でのインタビューで何度も町長のお顔とお名前を拝見したことを覚えています。
広報の基本をあらためて認識させられたお話でした。〈kimi〉
悪者にされた広報活動
2014.03.18
STAP細胞に関する論文に「重大な過誤」があったという発表と、それまでの一連の報道には驚きました。本当にSTAP細胞が存在するのかどうかはともかくとして、少々気になるコメントが複数の識者から出されています。
発表は功をあせりすぎた結果ではないか、早く“広報したい”という気持が影響したのではないか、というものです。ある高名なコメンテーターは、研究に広報が関与するのはけしからんといった発言までしていました。
これは極めておかしな意見です。「重大な過誤」が功を焦った結果であろうことは容易に推測できます。が、それと広報活動を安易に結びつけるのはいかがなものでしょうか。
早いタイミングで大々的に記者発表することで得をする人がいたとして、その人の関与があったのだとしても、それと論文内容の「重大な過誤」との間に因果関係があるはずがありません。割烹着姿での研究風景も、広報効果を狙った意図的な仕掛けであったかもしれませんが、それと今回の問題の本質とは別問題です。
素晴らしい研究成果はいち早く広く知られるべきものです。国民は知る権利を持っています。また、科学は自由な発表が保証され、反論の自由もまた保証されるべきものです。これには誰も異存はないでしょう。問題は、広報活動をすることにあるのではなく、「重大な過誤」のある論文を投稿したこと、また一流専門誌がそれを査読で通したことに尽きるはずです。〈kimi〉
やめてくれ
2014.02.28
「トップへの取材が終わっているのに、それを記事にしないでくれと広報から言われたんですよ」と、ある記者がぼやいていました。
広報の本質を知っている人なら、このような申し入れがいかに間抜けなものであるか理解できるはずです。
取材の申し込みを受けた時点で後戻りはほとんど不可能。あえてそんなことをすれば、メディアからどんな穿鑿をうけるかわかりません。ましてやインタビューを受けてしまったのですから、その内容はすでにメディアに渡ってしまったわけです。記者が聞いたことを書くか書かないかはメディアの判断による。そんなことは広報の基本の「き」です。それを「やめてくれ」と言うのは、言論の自由に関わる問題でもあります。そこまでその広報の責任者は考えたかどうか。まことにお粗末な話です。
インタビューで答えた後になんらかの変化が起こったのなら、訂正を申し入れればすむことです。記者は喜んで修正に応じてくれたでしょう。そうしなかったのはなぜでしょう?
気になるのは、「やめてくれ」が広報の判断なのかという点です。どうやらトップからの指示らしいとその記者は推測していました。すっかり見抜かれているのです。トップからの理不尽な指示に対して広報責任者は異論を唱えなかったのでしょうか。たとえ最後にはトップに押し切られたとしても、唯々諾々と指示に従ったのと、自分の意見を具申した上での結論とは、記者へ申し入れるときのニュアンスが微妙に異なるものです。それを有能な記者なら鋭く感じとります。
「やめてくれ」という申し入れにもかかわらず、その話を聞いた数日後、インタビュー記事はめでたく掲載されていました。それについて広報が再び記者にクレームを入れたかどうかはまだ聞いておりません。〈kimi〉
出版社はおわびをしないのか?
2014.02.17
今年になって電車のトラブルに続けて巻き込まれました。人身事故による「運行見合わせ」や「大幅な遅れ」に遭遇することすでに5回。さらにこのところの雪で、いつもなら1時間で着くところが2時間もかかったりしました。ただのダイヤ遅れなら、いずれは着くだろうと、急ぎの用事さえなければのんびり構えることもできますが、途中の駅まで進みながら止まってしまい、いつになったら動くのかさっぱりわからないとなると途方にくれます。このまま運行再開を待つか他社線に迂回すべきか、的確なアナウンスがなければ判断のしようがありません。
ビクトル・ユゴー作「レ・ミゼラブル」。19世紀のフランス文学を代表する長編小説ですが、フランスの歴史について多少の知識と興味を持っていないと実に読みにくい小説でもあります。筋立てが進行する部分は半分ほどで、あとの半分には当時の政治情勢に関する作者の認識やら義憤やらが書き連ねてあります。そこが難所で読み通すのがつらい。つらいけれども、そこを読まないとこの小説の真髄はたしかにわかりません。
その「レ・ミゼラブル」の新訳全5巻が2012年の秋から出版され始めたので、決意を固めて読み始めました。
第1巻を読み終わる頃に第2巻が出る。実によいテンポで出版されて、順調に読み進むことができました。つらい難所もかつての大先生訳よりは読みやすく、なんとか乗り越えました。ところが、第4巻が2013年2月に出て以来、パタッと出版が止まってしまいました。出版社からは何のインフォメーションもありません。最終巻が出版されるのをこのまま待つか、別の訳本で読了してしまうか・・・。途中駅で止まった電車の乗客そっくりの状態に陥りました。せっかく座れた電車ですから、そのまま居眠りでもしていようか思っているうちに、すっかり熟睡してしまい、目覚めたら2014年2月、突然に最終第5巻が発刊されました。
ところがです。ようやく出た第5巻のカバーにも帯にも、発刊が遅れたお詫びは書かれていません。訳者のあとがきには夫人への“おのろけ”が書いてあるばかりで、翻訳が遅れた理由も弁解もありません。
第一巻が出たのは、この小説を原作とした評判のミュージカル映画が公開されたタイミングでした。いま出せば売れるに違いないと、翻訳がすべて終わっていないのに見切り発車して、見事に「大幅な遅れ」に直面したのだろうと想像します。せっかく原作を読了してから映画を見ようと計画していたのに、上映期間には間に合いませんでした。仕方がないので長い停車中にwowowで見てしまいました。
良心的な書籍を出し続けている出版社として、これは残念な企業姿勢と言えるでしょう。顧客に対する情報公開について、どのように考えているのでしょう。〈kimi〉
古新聞
2014.01.23
毎朝の通勤電車でしばしば隣り合わせる初老の男性はいつも熱心に新聞を読んでいます。日常的な光景ですから、特段に気にとめることもありませんでした。
ある日、何気なくその男性が読んでいる紙面に目を移しました。その瞬間、クラッと眩暈のようなものを感じました。軽い見当識障害のようでもあり、既視感にとらわれたようでもある。自分がどこにいるのかわからないような気分、と言ったらよいでしょうか。
10秒か20秒ほどかかってようやくわかりました。彼が読んでいるのは今日の新聞ではない、ということが。
それは2日前の夕刊でした。発行当日に読んだ記事の記憶と、その朝の最新の新聞を読んだ記憶との間で整合をとるのに、私の脳が少々手間取ったのでしょう。初めから古い新聞であると認識していれば、そのような不思議な感覚を体験をすることもなかったはずです。
そのむかし、「今日の出来事」というTVニュースがありました。新聞記事やニュースはまさに今日の出来事を伝えていますが、その多くは報道の時点で終結してしまったのではなく、その後も刻々と事態が変化しています。翌日の新聞にはその続報が掲載されています。私たちは現在進行形で報道された出来事の動きや変化をとらえているのでしょう。数日前の新聞の見出しをそれと知らずに認識した私の脳は、進んでいるはずの事態が逆戻りしていることで混乱してしまった、というのが私の推測です。
過去の記事を読むことにも意義がありますが、新聞の本質はやはり「新しい」ということなんでしょうね。〈kimi〉
ヘタの直接話法
2014.01.22話し上手というのは、広報を仕事にする人にとってはかなり必要度の高い能力です。単にペラペラしゃべればよいというものではありません。おしゃべりは広報の仕事ではむしろマイナスです。話し上手とは、正しい内容を筋道を立てて相手に理解できるように話す。それだけのことではないでしょうか。
これは心がけ次第でできるものです。しかし、心がけなければ、いつまでたってもできない。そういうものでもあると思います。
話しベタの方はいろいろなタイプがあります。訥弁は、必ずしも話しベタではありません。とつとつと説得力のある話し方をする人もたしかに存在しますから。
ある事柄を伝えるのに、多くの言葉を使う人と少ない言葉で伝えることができる人がいます。多くの言葉を使うということは、話が長いということ。話したいと思う内容をシンプルなストーリーのまとめられない、脇道にそれる、言ったり来たりするといったことがあると、話は自然に長くなります。聞いている方も、いつになったら結論に到達するのだろうとジリジリしてきます。
このような話しベタの中に、「直接話法で話す人」がいます。たとえば、こんなふうに・・・。
「記者クラブに入ったら、長髪の人がいたんで『世紀火災広報の木戸と申します』と言ったんですよ。そしたら『世紀火災って、なんかあるの?』なんて言われちゃって。それであわてて『いいえ、ごあいさつにあがっただけです』って言ったんですけどね。『忙しいから後にしてよ』って言われちゃいました」(題材は高杉良著「広報室沈黙す」から借用しました)
直接話法も一種の修辞法です。うまく使えば実に効果的です。しかし、多用すると話は確実に長くなります。長くなるばかりでなく、これは無責任な話し方でもあります。
直接話法を多用するのは、他の人が話した内容を要領よくまとめて間接話法で話す能力が不足していることを示しています。そのような人が、自分が伝えるべき内容をシンプルなストーリーにまとめられるはずがありません。話しベタの一つの典型です。〈kimi〉
書類整理と人事考課は似ている
2013.12.27
今年もはや最終営業日となりました。街を歩くと、あちこちのビルの窓にガラスを拭いている人たちの影が動いています。
私たちのような仕事では、大掃除の大半は書類の整理です。仕事が一段落する都度整理して、不要な文書を捨てておけばよいのですが、それがどうにも億劫で、とりあえず机の上に放り出しておく。次の書類はその上に積み上げておく。西之島の噴火のように山が日に日に高くなるのを横目に、見て見ない振りをして来た報いを、この一年最後の日にいっぺんに受けることになります。
書類整理ほどストレスを感じる作業はありません。書類に一つひとつ目を通して、なくてはならないもの、一応キープしておくもの、他の人に押っつけてしまうもの、そして、整理してしまうものにより分ける、そのストレスが何かに似ていると思ったら、人事考課を思い出しました。考えてみれば、どちらも個々に評価を下し、その後の対応を決定するという点で極めて似た仕事だと気づきました。
一年間ともに過ごした部下や書類の運命を決めるのはとてもつらいことです。ビジネスではときに非情にならねばならぬ、と自分自身を納得させつつ、先ほど大きな燃えるゴミの袋をこしらえました。ああ、くたびれた。
写真は、私の机上ではありませんので、誤解なきようにお願いします。
よい年をお迎えください。〈kimi〉
笑顔のよさ
2013.12.11
広報セミナーで、「広報担当者に求められる資質は何か」と質問されることがあります。知識やスキルなら、努力すれば解決することなので列挙することも容易なのですが、資質となると言いにくい。その人の持って生まれたものもあるし、その後の成育環境に影響されている部分もあるからです。言い方によっては差別にもつながりかねません。
厳密には資質ではないかもしれませんが、まず強調するのは「口のかたさ」です。「広報は口がかたい」と社内からの信頼が得られれば情報が集まってくる。トップシークレットでも事前に伝えてもらえます。
社会常識や庶民感覚も重要な資質です。そのような「感覚」は、理解するというよりも、身つけるように心がける必要があります。
倫理観。これは養えるものかどうか。企業倫理についていくら勉強しても、いざというときは個人の倫理観が問われます。生まれつきの正義漢といった人もたまにはいますが、幼児体験が影響していたり、広い教養を身につける中で育って行く部分もありそうです。
広報担当者に求められる資質の中で、なによりも大切だと考えているのは「感じのよさ」です。好感の持てる人が広報にいると、記者はもちろん外部の人たちから好感を持たれます。それは企業の好感度に必ず結びつきます。逆に、へんな会社には感じの悪い広報担当者がいます。これは経験上間違いありません。
「感じのよさ」はどのようにつくられるのか。全くわかりません。その人の内面のさまざまな要素が関係しているのだろうと想像しますが、外面における重要な要素の一つは「笑顔」ではないでしょうか。笑顔がよい人は感じがよい、と思いませんか。一例を挙げれば、オリンピックの東京招致で最終スピーチをした佐藤真海さんでしょう。
では、笑顔がよくない人ってどんな人でしょう。とてもよい例がありました。写真(変形してます)からご想像ください。この人もオリンピックがらみではありますが。〈kimi〉
代名詞化される商品は
2013.12.09
「彼女の発言、テープに取っておいてよ」などと何気なく言ってしまいますが、録音にテープに使わなくなってすでに久しい。それでも「テープ」と言ってしまうのは、録音はテープにするものだ、と頭にしみ込んでしまっているからでしょう。
先日、ご高齢のジャーナリストの方々とお話していたら、いまもってカセットレコーダーを使用しているとのこと。テープは回っているのが見えるから安心なんだ、というのが愛用の理由だそうです。その気持はよくわかります。メモリーは見えません。「テープを回す」がいまも通じるのは、案外そんな理由なのかもしれません。
そう言えば、と思い出したことがあります。いずれもよく知られている事例なのですが・・・。
80年代くらいまでは「コピーとってください」とは言いませんでした。「これ、ゼロックスしておいて」がふつうでした。その頃はゼロックスが圧倒的なシェアを持っていましたが、その後他社もシェアを伸ばしたので、「ゼロックス」はコピーの代名詞ではなくなってしまいました。
もう一つ、「スリーエム」というのを思い出しました。スコッチテープやポストイットの3M社のことです。米国人や米国かぶれをした人たちが、オーバーヘッドプロジェクターをそう呼んでいました。「オーバーヘッドプロジェクター」では長すぎます。その後は「OHP」という略語が一般的になっていました。3M社は、装置もさることながら、OHPシートが大きなビジネスになっていたようです。いまや企業ではほとんど見かけなくなりましたが、大学などではしぶとく生き残っているようです。
「ホッチキス」も似た運命をたどりつつあるのだろうと思ったら、これはもう普通名詞になっていて、NHKも「ホッチキス」と言っているんだとか。ステープラーなんて言うとちょっとキザに聞こえますね。
このほか味の素、シャープペンシル、セロテープ、エレクトーン、ウォークマン、バンドエイド、万歩計、宅急便などの例が思い浮かびます。いまも代名詞化が現在進行形で進んでいる商品があるに違いありません。それは何か。オリジナリティーが高く、圧倒的シェアを占めつつある商品を探しているのですが、どうにも思いつきません。〈kimi〉
広報は点描である、ということについて
2013.11.15
点描という絵画技法があります。スーラの絵で有名です。一つひとつの点を見ても、黒だったり赤だったり青だったりその中間色だったり。意味はほとんど見出せませんが、それらを集合としてみたとき、初めて目指す姿が浮かび上がってきます。それが広報活動のあり方とよく似ていると思えるのです。
昨日のプレスリリースも今日の記者発表も明日の取材も、それなりの意味はあっても、大きな広報目標から見ればカンバス上の一点に過ぎません。そのような点を日々着実にテンテンと打って行く作業を繰り返す。そして、ある時点で振り返えって見ると、目標とする一つの画が描かれている、それが一つの理想ではないか、というふうに…。
IRの分野にはうまい用語が存在します。「モザイク情報」がそれです。企業の業績や将来価値に大きな変動を与えるとは思えないような情報、適時開示規則上の軽微基準に該当するするような情報をそう呼ぶのです。ところが、そのような何気ない一片の情報を集めて分析すると、企業の実像やその方向性がモザイク絵のように浮かび上がってくるというわけです。
IRでは、企業側が意識的に画を描くというよりも、個別の事象や案件が発生するたびに発信されたランダムな情報から、アナリスト側が一つの画を見出すというニュアンスですが、広報活動としては、それを意識的にやってみてはどうか、と思うのです。それには、あらかじめ描くべき大きな目標をしっかりと立てておく必要があります。
たとえば研究開発に優れた企業であると認知してもらうことを広報の目標とする会社なら、研究開発に関する情報をどんどん発信し、取材を受けるようは活動を続ければ、数年後には目標の姿にかなり近づくことができるでしょう。
そんな簡単なこと…と思われるでしょうが、それがなかなか難しいのです。研究ネタが見つからないということもあるでしょうが、やっと見つけたネタでも、そんなつまらない情報をなぜ発表するのだ、という開発サイドからの反対に会うことも少なくないからです。
そんなときスーラを思い出してほしいのです。一つの情報はそれほどインパクトの強いものでなくても、それらの点が集まれば画が描けるのだということを。。〈kimi〉
また気になる専門誌
2013.11.05
全国紙の1面記事下の書籍広告が気になると、半年ほど前(2013年4月18日「気になる専門誌」)に書きました。そこでご紹介した「寺門興隆」が12月号からまた改題して、元の「月刊住職」に戻すという広告が、11月3日付の朝日新聞に出ていました。「寺門興隆」では難し過ぎるという意見でも出たのしょうか。それにしても「月刊住職」という誌名はシンプルかつストレートで面白い。この伝で行けば「月刊スナックママ」なんていう雑誌もいけそうです。「月刊宮司」、「月刊教主」、「月刊社長」、「月刊経理部長」、「月刊平社員」、「月刊床屋のオヤジ」、「月刊専務理事」、「月刊現場監督」等々、いくらでもできます。
さて、再びここ数日の書籍広告に目を移すと、「月刊養豚界」というのがありました。ルポとして「がんばる農家養豚 宮崎県 『感謝、反省、努力の経営』」という記事が掲載されているようです。養豚界もどこか宗教界と通じるところがあるのでしょうか。宮崎県の畜産は口蹄疫とか鳥インフルエンザとかいろいろなことがありましたからね。
「養殖ビジネス」というのは水産業の雑誌で「失敗から学ぶトラフグの売り方」を特集しています。どんな失敗があったのか、フグだけにちょっと気になります。
「目の眼」という雑誌もあります。骨董・古美術の専門誌で、編集長白州信哉とありますから白州正子さんのお孫さんですね。その隣の広告は「Privateeyes」。目は眼でもこちらは「ユーザーと業界を結ぶ眼鏡専門誌だそうです。
「温泉批評」という「日本の温泉を考える初の論評誌」が発刊されたようです。温泉まで論評の対象になるとは・・・おちおち温泉にも浸かっていられない気分ですが、その総力特集が「混浴温泉は絶滅するのか?」。それほど心配する必要もなさそうです。〈kimi〉
叱られて
2013.10.15
品行方正とか聖人君子とか、そんな形容とはおよそ縁なき衆生であるのは言うまでもないことですが、追い打ちをかけるように「これでもか」と思い知らされるような出来事にたびたび遭遇します。いずれも非はこちらにあるので、ごめんなさいとしか言いようがありません。
その1。本屋で叱られました。
棚の本を取り出すとき、何気なく鞄を平置きされている売りものの書籍の上に置いていました。店員さんではありません。お客さんに叱られました。「もしもし」と言ってあとは無言。人差し指が私の鞄を指していました。実は、その後にもう一回、続けざまに同様の注意を受けてしまいました。これもお客さんからのご注意です。そこで気づかされたのは、子どもの頃から立ち読みをするときは本の上に鞄を置いていたなあ、ということです。それで何十年間も注意を受けたことがなかったのに、いまになってなぜ立て続けに…と実に不思議な思いがしました。世の中の倫理観のハードルが高くなったのでしょうか。いずれにしても商品が傷つくようなことをしてはいけません。以後、鞄を置かないように注意しております。
その2。電車の中で叱られました。
何年か前に大病をしました。回復には時間がかかり、体調にいろいろおかしな現象が現れました。喉が異常に渇くというのもその一つで、外出時にはペットボトルを手放せなくなりました。その頃のことです。地下鉄でペットボトルのお茶を飲んでいたら、オバサンに叱られました。どんな言い方をされたか忘れましたが、電車の中で飲み食いするのはお行儀が悪いといった趣旨でした。誠にごもっともです。しかし、私には切実な理由があります。そこで言い訳を申し上げたのですが、まったく聞く耳持たずでした。お見受けしたところ、少々執着が強いご性格と拝察しました。叱られっぱなしの状態で次の駅に到着したところ、あっさり降りて、今度は反対方向の電車に乗り込んで行かれました。きっと行ったり来たりしながら車内で飲み食いしている人を探しているに違いない。一緒にいた後輩はそう推測したのですが、真実は不明です。
その3。また電車の中で叱られました。
これはつい最近のことです。休日にガラガラに空いた電車に乗りました。そうだ、いまちょうどクライマックスシリーズで阪神対広島戦をやっているなあ、と思いつきました。同時に、スマホでラジオが聞けったっけな、ということも思い出しました。そこでスマホを取り出してイヤフォーンを耳に押し込もうとした、その時です。「携帯はいかんのじゃないですか。あれが読めんですかあ」と隣のご年配の方に注意されました。優先席に座ったことをすっかり忘れていました。「携帯はペースメーカーに影響ないという話もある。しかし、決められたことは守らなくてはならぬ。私たちのような年の者は若い者の模範にならねばならぬ」というのがお叱りの内容でありました。年寄り組に入れられたことには若干の異論はあるものの、これまたごもっとも。いまさら普通のシートに移るのもナンだしなあ、などと居心地悪く座っているうちにターミナル駅に着きました。先に席を立ったご年配が振り返って一言、「失礼しました」。完全にこちらの負け。後で阪神も大負けしたことを知りました。〈kimi〉
諜報活動としての広報セミナー
2013.09.02いまさら言うまでもなく、日本人は横並びが大好きです。企業で何か新しい提案をしたことのある人なら、「他社はどうなっているんだ?」という質問を受けた経験が必ずあるはず。
他社と異なることをやろうという意識は、開発部門やマーケティング部門などの一部に存在する(例外もたくさんあり)くらいのもので、広報部門は、どちらかと言えば横並びの傾向が強い部門ではないかと、睨んでおります。
広報セミナーなどの受講者も、そこで学んだことをもとに新しいアイデアを生み出そうとか、チャレンジしようとかするよりは、他社の成功事例を学んで自社に取り入れようという志向が強いように、長年講師を務めてきた経験からは感じられます。
あるセミナーに、大手電機部品メーカーの担当者が出席していました。広報セミナーにはほとんど顔を出すことのない企業ですし、かなりの年配とお見受けしたので、多少の違和感を覚えました。違和感のわけはすぐにわかりました。そのセミナーには、競合企業の広報担当者氏による講義が組み込まれていたのです。競合企業による講義が終わるやいなや、彼は次の講義を聞くことなく会場を退出して行きました。
広報の勉強をするためではなく、諜報活動のためにセミナーを受講した、ということなのでしょうか。その後間もなく、その企業は自社製品の瑕疵に起因する大きな出来事に直面することになりました。そこで諜報活動が役に立ったかどうかは、もちろん知るところではありません。〈kimi〉
なってみなければわからない
2013.08.27そうなってみなければわからない、ということは、そうなってみなければわからないものなのでしょう。
最近、JRや東京メトロの駅でトイレに入ろうとすると、「右側が男性トイレです。左側に5メートル進むと女性トイレです」といったアナウンスが流れています。これが視覚障害者のためのものであることは容易に気がつきますが、それが、対象とする人たちにとって、どれほど必要なものなのか、健常人にはなかなか理解できません。
友人に、ある企業で広報部長をなさっていた方がおられます。退職されてから、眼の難病にかかり、最近は白杖を持って外出されるようになりました。
その方によれば、女性トイレに入ってしまうことはしばしばあることなのだそうです。とくに白杖を持っていないときは、ヘンなオジサンと間違えられるので、このアナウンスはとてもありがたいとおっしゃいます。なってみなければわからないものです。
先日、この方と横浜の町を歩いていました。突然の大雨は通り過ぎたものの、まだポツポツと雨粒が落ちていました。夜道はとくに見えにくいそうなので、「ここに段差がありますよ」とか「左へ曲がりましょう」などと横から声をかけていたのですが、突然背中から怒鳴られました。
「狭い歩道を横に広がって歩いているんじゃねえよ!」
みると短パンにモジャモジャ頭のオトコが乳母車を押しています。子どもが雨に濡れないように先を急いでいるのでしょう。道を譲ったものの少々腹が立ったので、「目の見えない人が歩いているんだ。白い杖が見えないのか」と言い返しました。オトコは振り返りましたが、状況がよく呑み込めないふうでした。数メートル遅れて歩いていた奥さんが追いついて、「目が見えないんだってさあ」とオトコに伝えましたが、それっきり。乳母車を押して去って行きました。
「こういうことはよくあること。そういうときは、心の中で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と唱えているんです」
友人は、静かにつぶやきました。 〈kimi〉