目の前の現実を見てください
2018.07.19校外学習に参加した1年生が熱中症で亡くなったそうです。担任教師の知識と意識に問題があったのは疑いのないところでしょうが、何が何でも「全員」を校外学習に参加させ、任務完了させなければならないといった規則だか空気だかがあったとしたら、それも問題視しなければならないでしょう。
ウチの子にポカリスエットを持たせたいと言ったら、学校から「それはジュースだから」と断られたという書き込みがTwitterにありました。〈ポカリがジュース〉というのも大時代的で笑えますが、実際は笑いごとではありません。
もしここに脱水症状を示している子がいて、周囲に水飲み場は見あたらないが、ポカリを持っている人がいたとしたら、どうするんでしょうね。ちょっとそれを飲ませてやってくれませんか、などと気の利いたことをするとは思えません。水場のあるところまで、あるいは学校に帰るまで我慢しなさい、とその子に命じるんでしょうね、きっと。
もしポカリを持っている人が、これを飲ませてあげてと申し出ても、そのポカリが衛生的であるかどうか確認できない、もしあとで食中毒にでもなったら大変だ、と思いを巡らせて拒否することもあり得ます。
人の生死を分ける事態を前にしても規則や建前や責任論を重んじて、目の前の現実を見ない、最適解を適用しない形式主義が、とくに学校を含めた公務員の世界で多すぎる気がします。
ココノッツはいけませんか?
2018.07.06ネット上の情報によれば、「9」と書いたTシャツを着て国会の傍聴に行こうとすると、衛視に入場を止められるとか。「9」は憲法第九条を連想させるから、ということらしいのですが、これが事実だとすれば(フェイクニュースでなければ)、思想の自由、言論の自由という民主主義の根本にとって由々しき問題だと思います。
と同時に、これは困ったことになりました。弊社の社名「ココノッツ」です。
ココノッツの由来として、弊社のサイトには次のように書いています。
「coは『一緒に』、『お互いに』といった意味を持つ接頭辞です。Knotは『結び目』です。『絆』、『集団』といった意味もあるそうです。 広報という活動を通じて、企業や団体と社会を結びつけて行きたいという思いから、CocoKnotsという社名にしました。 もう一つ。ココノッツは『9』でもあります。『満れば欠くるは世のならい』と申します。10になることを目指して常に努力したいという気持も込めています。」
http://www.cocoknots.co.jp/mission.html
「9」でもあるんですよ、「ココノッツ」は。ということは、弊社は国会には入れないことになる。
この社名を考えた10年前に、「ココノッツ」が憲法第9条につながるとは想像もしていませんでした。変な世の中になってしまったものです。
いい先生だったんだなあ
2018.07.03
先日、卒業した高校の同期会がありました。なにがなんだかわからないうちに幹事の一員にされてしまい、及ばずながらお手伝いをしました。
そこは、都立高校としては最低レベルの偏差値を誇っていました。前身が女学校だったこともあって男女半数ずつ。卒業後の進路も進学と就職がほぼ半々でした。当時の4年制大学進学率は全国平均で約13%、男子が20%で女子は5%に過ぎません。それを考えれば、偏差値の割にはかなりの進学率と言えるでしょう。同期生の中には、それなりに著名な画家や元大臣の野党代議士などもいます。
開催の準備をしている中で気づいたのは、当時の先生方の何人かが、その後大学教授になっているという事実でした。大学教授になったからエライというわけではありませんが、高校教諭をしながら専門の勉強や研究をコツコツしておられたのだなあ、という感慨が起こったのでした。
3年時の担任だった現代国語の先生は折口信夫門下の文学者として、研究者の間では知られた存在でした。所属したクラブの顧問だった倫理社会の先生はドイツ哲学、社会学の研究者で某私大の経済学部長でした。そのようなバックグランドを持つ高校教師だったことなど、現役高校生のときはまるで知りませんでした。ネットが発達した現在だからこそ調べることができた事実でもあります。
日経新聞の「私の履歴書」など、有名人や経営者の自伝に、恩師がいかに素晴らしかったか、といった記述を見かけることがありますが、その先生に教わっていた当時に、本当にその偉大さを認識していたのでしょうか。後付けじゃないの? 自分のうかつさを棚に上げて、そんな素朴な疑問が浮かんだりしたのでした。
日本的な重大問題について
2018.06.21
なるべく始発電車を利用して、座って出勤することにしています。同じ考えの人が多いので、発車時刻の20分前にはすでに列ができています。
鉄道会社では3列に並ぶように促していますが、実際にはある駅では4列であったり別の駅では2列であったり、駅によって異なります。いつも使うこの駅の慣習では、何年も前から2列です。ところがここに一つの重大問題が進行しつつあります。
2列で10人以上が並んでいる先頭の横に、最近男が一人立つようになったのです。これで3列になるわけですが、男の後に並ぶ人は誰もいません。後から来た人はみな長い2列の後につきます。男に苦情を言う人はこれまでのところ現れません。複雑な表情で男を見ていたり、知らん顔してスマホを見ていたりするばかりです。
鉄道会社が3列での整列乗車を促していることを考慮すれば、この男の行為が非難される筋合いはないとも言えます。しかし、日本的な、極めて日本的な空気の読み方からすれば、違和感を持たれて当然ということにもなります。後から来て先頭に並ぶのは「列の割り込み」と判断できないこともありません。
さて、あなたならどうしますか?と、ハーバード大学のナンチャラ教授の授業のテーマになりそうですが、私ならどうするか? わかりません。幸か不幸か私がいつも並ぶ列の問題ではないし・・・。
この問題の行く末がどうなるのか、注意深く経緯を見守りたいと思います。
オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな
2018.06.08昔の勤め先の社長は、「オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな」としばしば言っていました。ゴルフに凝ると本業がおろそかになって、握る鮨がうまくなくなるといった趣旨であったかと思います。大手企業の経営者兄弟がゴルフに凝りすぎて経営が一時傾いたという話は、ご本人がどこかで書いていたので事実なのでしょう。しかし、ゴルフと鮨の味との相関関係についてはよくわかりません。
傍証を挙げれば、店にゴルフのイラストを掲示していた鮨屋はその後居酒屋に衣更えしてしまいました。ココランチにも掲載していた麹町の鮨屋もオヤジがゴルフ好きでしたが、いつか消えてしまいました。
こんなことを思い出したのは、先ほど昼食で入った鮨屋のオヤジが大声で客とゴルフの話をしていたからです。ランチのサービスメニューを食べただけなので、味を云々するわけには行きませんが、先日行った近くの鮨屋よりはうまかったような・・・今後を見守りたいと思います。
「丁寧に説明したい」
2018.05.30近頃、あちこちで「丁寧に説明したい」というフレーズを見かけるようになりました。その端緒は国会の政府答弁なのでしょうが、これは一時の逃げ口上で、実際には少しも丁寧でないとは、誰もが感じるところです。
・・・と思いながら、電子辞書の広辞林を引いてみたら、「(1)注意深く念入りであること。細かい点にまで注意の行き届いていること。また,そのさま。(2)動作や言葉遣いが,礼儀正しく,心がこもっている・こと(さま)。(3)何度も繰り返すこと。特に何度も忠告すること。(4)文法で,話し手が聞き手に対して直接に敬意を表現する言い方。→丁寧語(一部省略)」となっていました。
これを政府答弁その他に当てはめると、どうやら(3)の意味でお使いになっているのではないか、と思い当たりました。何度も何度も同じことを繰り返している(新事実が出てくるたびに少しずつ修正されていますが)。なるほど。確かに「丁寧に説明して」いるのに相違ありません。
日大アメフト部問題から目が離せません
2018.05.28政治の世界の方がより深刻ではあるのですが、広報の人間としては日大アメフト部の問題から目を離せません。広報の歴史に残る出来事がこんなにつぎつぎに起こるなんて、めったにないことですから。
本質的な問題については各メディアで論じられていますし、ツイッターなどでもいろいろな指摘がありますので、ここで書くまでもありません。
興味深いのは、関学と日大の広報のあり方です。記者会見で記者と議論してしまった司会の日大広報部顧問氏も、冷静な受け答えをしていた関学のディレクター氏もどちらも記者出身だと報じられています。
前にも書きましたが、企業(団体)の広報でメディア出身者が成功した例は少ないと思います。企業とメディアとの間には深くて、暗いかどうかは知りませんが、越えがたい川が存在します。企業内での広報の役割や活動は、メディア側にいては見えにくいのです。さらに、記者という職業に長く携わっていると、アタマを下げるのが苦手になるようです。権威にアタマを下げていては記者は務まりませんから。メディアで活躍し請われて企業の広報に入ったら、一から広報の基本を学ぶことなどプライドが許さないでしょう。その典型が日大顧問氏のように見えました。関学ディレクター氏は希有な存在なのかもしれません。
ウソをつくことは得なのか?
2018.05.22世の中、ウソつきが多いのだなあと、このところつくづく思い知らされます。
広報の仕事をしていると、なんとかコトを大きくしないように計らったり、アドバイスしたりはしますが、「ウソはいけません」ということは一貫しているつもりです。ウソはいつかばれる日が来ます。それが明日だったり50年後だったりするだけのことです。
危機に際しては、自分の身や自分の利益を守ろうとすればするほど、身を滅ぼしたり大きなダメージを受けたりする確率が高くなることが経験則からわかっています。本気で身を捨てるつもりになることで身が守られる確率は決して少なくはありません。しかし、すべてを失う確率の方もまた少なくありません。どちらをとるか。
人間の尊厳とか名誉とか品格とか、そのような要素を加味しようとすれば、ウソはつかない、過去のウソは撤回して謝る、自分を守ろうとしない・・・という選択になります。今後の利益が守られるなら、そんな要素はどうでもよいと考えるならば、ウソを貫くのも一つの選択肢ではあります。ただし、それが成功する確率も100%ではないのが悩ましいところです。
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と書いたところで、反則を犯した日大アメリカンフットボール部の選手の記者会見が始まりました。近頃まれに見る謝罪会見の成功例です。誰が見てもウソを言っているようには思えないでしょう。関西学院大学の監督も敬意を表するとコメントしました。彼の前途が開けますように、と願わずにいられません。
7-38-55で負けでしょう
2018.05.11発したメッセージ内容とは異なる表情や態度を示した場合、話の内容などの言語情報から受ける影響は7%に過ぎず、声のトーンなどの聴覚情報による影響が38%、表情など非言語の視覚情報によるもの55%だというのが、メラビアン(またはマレービアン)の法則と言われるものだそうです。「そうです」と伝聞で書いたのは、原著を読んだことがなくWikiを読んだだけだからです。原著の翻訳は古書で5000円もするのです。
広報に関係している人の中にも、この説を曲解した“メラビアンの俗説”を信じている人が少なくありません。「人は見た目が9割」などという本がその代表で、説明は省略しますが、皮肉なことにこちらの本は読んだことがあります。
こんなことを思い出したのは、このところ国会の証人喚問や参考人招致、さらに政府の答弁などをニュースで繰り返し見るからです。確かに証人や参考人や政府関係者は上手に言い逃れています。しかし、それらの中継やニュースを見ている国民は、せっかく知恵を絞って練り上げた答弁という言語情報からは7%しか影響を受けないことになります。これはどうにも政府側の分が悪い。ではないですかね。
チャーチルとダンケルク
2018.04.1915日日曜日の東京新聞「こちら特報部」の“本音のコラム”に山口二郎氏が映画「チャーチル」について書いていました。日本の現首相も見たのだとか。
たまたま飛行機の中で、この映画を見る機会がありました。
チャーチルが首相に選ばれるプロセスから始まり、フランスのダンケルクでドイツ軍に包囲されている英軍をどのように救出させるかに苦悩し、対独和平への誘惑を、生まれて初めて乗った地下鉄の中で直接国民の声を聞くことで振り切り、議会で、戦いの継続を「すべての英単語を駆使して」訴えるまでを描いています。このような演説の語法が日本語にはいまだに存在しないことをつくづく認識させられました。とくに最近の国会でのやりとりを見ると・・・。
さらにムービーのプログラムを検索すると、なんと「ダンケルク」があるのを発見。「チャーチル」が政治の場での英独戦を描いたものなら、こちらは同じ時系列における戦いの現場を描いたもの。ダンケルクに追い詰められている英軍を動員された多くの民間船舶が救出に行くエピソードを中心に描いています。
たまたまですが、日本人には馴染みの薄い第二次世界大戦初期の英独戦を、二つの面から知ることができたのでした。
ドラマの裏側はわからない
2018.04.03自分の会社が記者やジャーナリストから自分の会社がどのように見られているか、どこの企業も強い関心を持っています。そこで企業認知や自社の広報活動に関して記者の声を聞く場を設けたり、調査をかけたりすることがあります。これらは経験上とても有意義な調査になることが多く、自社の広報活動の成功している部分、足りない部分がクッキリと浮かび上がります。他社の広報活動について有益な情報やヒントが得られることもあります。
それはそれとして、このような調査を通じて気づくことがあります。記者やジャーナリストは“企業の広報を知らない”という事実です。
あそこの広報は頻繁にコンタクトしてくる、あそこの社長はフランクに取材に応じてくれる、この会社は役に立つメディアセミナーを開催している、といったことは現場の記者はよく知っています。彼らは広報の対象、もしくは受け手ですから当然です。
ところが彼らは、そこに至るまで、広報セクションがどのような目標のもとに、どのような企画を立て、どのような地道な作業を積み重ねているかについてはわかりようがありません。
テレビドラマにたとえるなら、ドラマを見ている私たちには、出演者の演技やストーリー展開の良し悪しについて感想を述べたり批評したりすることはできます。しかし、プロデューサーがどんな企画を考え、脚本家がどのような取材をし、どこにロケハンをして、ディレクターはどんな演技指導をしたのか等々の裏側は、テレビを見ているだけではわかりません。そんな楽屋落ちを覚らせることなく楽しめるドラマこそ理想でしょう。広報も同じことです。広報のテクニックや仕掛けなどを記者やジャーナリストに覚られてしまっては失敗です。
記者出身者を広報の責任者に据える企業や団体があります。しかし、大きな成果を挙げることが少ないのは、そんなところに要因があるのかもしれません。視聴者や評論家がドラマをつくろうったって、そう簡単には行きませんぜ。
記者会見とストロボ
2018.03.27メディアトレーニングで、記者役の他にカメラマン役も用意して、パッパッパッとストロボを発光させることがあります(実際にやったのは数回ですが)。臨場感を演出して、本番の記者会見で緊張しないように慣れていただこうという意図です。
マリリン・モンローとかジョー・ディマジオとかジョン・F・ケネディ(3人の関係にこだわったわけではありません)などの「時の人」がフラッシュライトを浴びながら、突きつけられた大きなマイクに向かってコメントしているシーンなどが、昔のニュースフィルムに残っていたかと思います。記者会見と言えばフラッシュがつきものでした。
現在の記者会見でも、とくにニュースバリューの高い事案では、会見者の前にスチールカメラマンがずらりと腰を下ろして盛んにストロボを発光させています。
ところが知人のプロカメラマンによると、感度を高く設定できる最新型のデジタルカメラならストロボは必要ないのだそうです。
デジカルカメラはさらに進歩しつつあって、4Kで動画を撮影しておき、一番よいカットを静止画像として切り出すことが可能になっています。新聞やネットニュースで使う程度なら十分な画質だそうです。8Kならさらに解像度の高い写真が切り出せます。
1台のカメラでニュース動画もスチール写真も得られるということなら、スチールカメラマンたちの職が危うくなりそうです。だから必要がなくてもストロボを発光させて自らの存在をアピールしているんだ、というのは少々皮肉が過ぎる気もします。動画と静止画は画の特性が全く異なる、という説にも理解できるところがあります。
シャッター音もない静まりかえった会場で聞こえるのは、会見者の読み上げるコメントと質疑応答、それにキーボードを叩く音だけ・・・という記者会見は、ちょっと妙な気分のものでしょうね。
事実とリアル感と、そして真実
2018.03.22朝のNHK連続テレビ小説に、現像された映画フィルムを手に取る戦争中のシーンがあって、そこに小道具として使われていたのがオレンジ色に着色された最近のネガカラーフィルムだった、と知り合いのカメラの専門家が指摘していました。色素のにごりをとる目的で、ネガカラーフィルムがオレンジ色に着色されるようになったのは戦後のことなのだそうです。
そのNHK連続テレビ小説を出張先のホテルで見ていたら、フィルム以上に気になることがありました。戦時下のストーリーなのに、男性出演者のヘアスタイルが現代そのものなのです。昔の人は、一部の「変人」を除いて、長髪は鬱陶しいという価値観を持っていたはず。ましてや戦時下だったら「非国民」と非難されていたでしょう。戦争中に現代人がタイムスリップしたような違和感を感じました。長髪はビートルズ以後に一般化しました。
俳優さんとしては、あるいは所属するプロダクションとしては、このドラマのために丸刈りなどにしてしまっては次の仕事に差し支えるということなのかもしれません。役づくりのために体重を増やしたり前歯を抜いたりした俳優さんのエピソードも聞いたことがありますが、そこまでやる仕事ではないと割り切っているのでしょう。そういうところにドラマとしての完成度の低さを感じてしまいます。
時代考証は演出との兼ね合いもあって、必ずしも歴史に忠実とはいかないと、別のNHKの番組で専門家が話していました。ドラマの世界では事実すなわち真実ではない、それは理解できないこともありませんが、リアルワールドにおいては事実すなわち真実でないと、とても笑ってすますわけにはいきまへんな。
ガバナンスとは何かなあ
2018.03.19IRの世界では、ガバナンス、ガバナンスとかまびすしい。しかし、どうもまともに理解している向きは少ないように思います。ガバナンスとは不祥事を防ぐこと、という誤解が最も一般的ですが、株主の意向を反映させること、というのもあります。会社中がトップの言うことを聞く、あるいは聞くように経営することがガバナンスだと思っている人も多いようです。そいういうことならば、命令をしなくても下の者がトップの意向を忖度する現政権のガバナンスが理想的ということになるのかもしれません。それは違うでしょう。
東証のガバナンスコードの定義は、「会社が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組みを意味する」というもので、それはごもっともだけど、経営者も従業員も社会の構成員も、それぞれ精神的に自立していて、自由に物が言える環境にあることが大前提です。
しばしば遭遇するのは、社長のいる場では何も発言しない社員たちの姿です。下手なことを言えば左遷されるかもしれない、給料が上がらないかもしれないとみな怖れています。そのような場に何十年も身をおいたので、これは他人事ではありません。
あらためてガバナンスと何かなあと、最近のニュースを見ながら考えます。結論は得られておりません。
役所の体質
2018.03.14いま、某役所から帰ってきたところです。
弊社は超零細企業ですので、いただける公的助成はみんないただきたい。社労士さんに依頼すれば簡単ですが、その手数料がもったいない、ということで、幾多の難関を乗り越えつつ自ら手続きをすることにしております。
最初の難関は、役所のHPを読み解くこと。やさしく説明しようとする努力は認められるものの、1回読んだだけで理解できるような代物ではありません。制度の条件に当てはまるかどうかを確認し、手続きの順番と時期を把握し、必要書類をチェックする。そこまででかなり消耗します。何回か読み直さないとアタマに入りません。
さて、ようやく揃えた書類一式を携えて役所へ出向くと、これが一回で受理されることはまれです。今回も初回で討ち死に。温和しそうなオジサンがチェックリストと説明書を参照しながら、あっちをめくり、こっちをめくりしながら書類を確認することおよそ30分。この書類が必要だと思うので上長に確認します、と言い置いて鳩首協議すること15分。その挙げ句、どこにもその書類が必要だと書かれていないので、必要ありませんという結論に。自分で言い出しておいて、なんじゃそれは。「この助成金の申請はまだ珍しいんですよ」と言い訳。
さらに、チェックは続き、昨年の夏にできた制度が秋にまた改正になったので、書類の一部が適合していないとの理由で結局ボツ。それはないでしょう。そんな改正のお知らせはいただいておりません。そのあたりが社労士でない悲しさです。
そんな経緯をへて、今日再び役所に行ったわけです。
今度はしかめっ面のオバサンが担当。前回のチェックリストが役所にファイルされていて、どこが問題だったのか記録が残っているにもかかわらず、また目を皿のように書類を初めからチェックして、ようやく受理されました。書類に対する役所の扱いというのは、このようなものなのでしょう。
ホッとして「この申請は珍しいんですってね」と言ったら、「申し上げられません」ですって。オバサンの名前が佐川さんだったかどうかは、聞き漏らしました。
不毛の議論
2018.03.01自分にとってはどうでもいいことなんですが、なんとなく気分がよろしくない、というニュースがときどきあります。泰明小学校がアルマーニデザインの「標準服」を導入したというのもその一つ。
そもそも公立小学校に「標準服」なるものが存在していることを、今回の報道ではじめて知りました。自分が区立小学校に通っていたときはもちろん、すっかりオヤジになってしまった息子どもが卒業した市立小学校にも「標準服」があったという記憶がありません。
標準服というのは、制服でないが、制服みたいなものらしい。そのようなあいまいな状態で、何気に強制するというやり方が気分をよろしくさせない要素の一つ。こういうのも「行政指導」の一種なのでしょう。
銀座だからブランド、という陳腐な発想がもう一つの要素。何の関係もないでしょう。校長のアタマの中でだけつながっているらしい。
ブランドならブランド料も支払わなくてはならないし、生地や仕立てもブランドを傷つけることのない品質に保たなければなりません。お高くなるのは予想できたこと。教育の無料化などと叫んでいた政治家はどう考えているのでしょう。
この一件については、朝日新聞で制服の価格問題を扱って貧困ジャーナリズム大賞2016を受賞された記者さんが、HUFFPOSTに異動して、学校側と保護者とのやりとりを詳しく報じています。それを読んだら、さらに気分がよろしくなくなってしまいました。不毛の議論というのが、まさにこれです。バカバカしいっちゃありゃしない。
田園都市線のリカバリー広報
2018.02.19ココノッツのオフィスは半蔵門。ということで東京メトロ半蔵門線をよく利用しています。
この線は東急田園都市線と東武スカイツリーラインに接続しているので、東京メトロの車両に乗る機会は少なく、東急や東武の車両ばかり乗っています。その中で東急の車両はどうみても古めかしい。デビュー時にローレル賞を受賞したといっても、40年も使えば相当くたびれます。天井にはいまも扇風機が首を振っています。
田園都市線では昨年、停電やら架線切れやら車両故障やら人身事故が続き、運転見合わせや遅れが頻発しました。一軍である東横線に比べて、二軍の田園都市線への投資を怠っているのではないか、と邪推せざるを得ません。同じようなことをTwitterなどのSNSにも書かれまくられたので、東急さんも利用者の疑念には気づかぬはずはなく、最近、一大広報キャンペーンを始めた様子です。
先ごろは、夜中に報道各社を地下線路に呼んで、こんなに一生懸命保守点検をしていますと取材させたようです。複数のメディアに記事が掲載されました。リカバリー広報がひとまず成功したようです。サロンパスを貼りながら走っているような老体車両も近々新型に取り替えるそうです。これで故障による運転見合わせや遅れがなくなるかどうか。注目です。
東洋経済オンラインの記事:http://toyokeizai.net/articles/-/209065/
自分らしいって何だ?
2018.02.13
冬季オリンピックをやっています。選手へのインタビューで「自分らしい滑りができればいいと思います」という言葉を聞くことがあります。
相撲でも「自分らしい相撲が取れれば勝てると思います」などと答える力士が少なくありません。「自分らしい」ってなんでしょう。前頭の下位にいる力士が「自分らしい」と言うなら、前頭下位らしい相撲ということで、とても三役や大関には勝てません。どうもそういうことではないらしい。「自分らしい」を「自分のベストの」と言い換えれば理解できないこともありません。
翻って、オリンピック選手でも力士でもない平凡な私たちにとって、「自分らしい」とは何かと考えると、これがまたわかりません。
たとえば「自分らしく死にたい」と言う人がいます。「自分の理想の死に方をしたい」ということなのでしょうか。何事も理想と現実は異なります。現実の自分らしい死に方とは、どのような死に方なのでしょうか。
「自分らしく生きたい」というのは、もっとわかりません。いまの自分のままぼんやり生きているのが、まさに自分らしいんじゃありませんか。ところが、どうもそうではないらしい。
こう考えて来るとぼんやり浮かんで来ます。「自分らしい」というのは「いまの自分よりもう少しよく」という意味であると。オリンピック選手には、こう言ってもらいたいですね。「もう少しうまく滑りたいと思います」。
不要不急
2018.02.07福井県、石川県、富山県などでは記録的な大雪だそうです。東京でも先週、先々週と雪が降りました。東京の郊外に住んでいるので、車は出せない、タクシーは電話がつながらないという状況で、駅までの2kmほどを歩くとなるとかなりの苦労です。滑べって転倒するリスクもある。
NHKのテレビでは、「不要不急の外出は控えろ」とさかんに呼びかけています。となると、これからオフィスへ行ってしようとしている「仕事」は果たして必要なのか急ぎなのかと、胸に手を置いて考えることになります。
会社員、つまり被雇用者の立場なら、こういうことを考える必要はありません。「不要不急」かどうかに関係なく、フレックスタイムでなければ定時に出勤するのは就業規則に定められた「義務」だからです。有給休暇をとって休むという手もありますが、「アイツには、やらねばならない仕事がないのか」と勘ぐられては面白くありません。NHKの呼びかけは会社員にはほとんど効果を生じないのではないでしょうか。
さて、その雪の日、被雇用者の立場ではない自分にとって、不要不急の仕事があるかどうかという問いの答えは「ない」でした。そこでその日1日休むことにしました。「家で仕事をします」というもっともらしい言い訳をしながら。
知ったかぶりは差別のもと
2018.01.29
世の中には、多くの人とどこか異なる行動をしたり、理解の仕方をしたりする人が少なからず存在します。そういう人たちとは、「なんか変だよなあ」と思いながらつき合って行くわけですが、近頃は「あの人、ひょっとすると発達障害では?」と疑ってみたりもします。「自閉症スペクトラム(ASD)」とか、「アスペルガー症候群」とか、「ADHD」といった発達障害に関連する医学用語を目にする機会が増え、生半可な知識が知らず知らずのうちに頭に入ってしまっているからでしょう。
文春新書の「発達障害」(岩波明著)。昨年発売されるとベストセラーになって版を重ねています。先週この本を読んで、考えを改めました。「発達障害みたいな人がたくさんいるけど、本当の発達障害は少ない」というのが、素人なりにこの本から得た結論です。発達障害の診断基準は厳格で、それに近い行動をとる人が必ずしも発達障害であるとは限らないということが理解でしました。知ったかぶりは差別を生む要因となることを実感させられたのであります。
○○○○の父
2018.01.24個性的な製品には、その開発者をリスペクトを込めて「○○○○の父」などと呼ぶことがあります。かつては「ウォークマンの父」大曽根幸三氏とか、「日産スカイラインの父」桜井眞一郎氏、日産にはもう一人「フェアレディZの父」片山豊氏もいました。
今日の朝日新聞に、「『ペッパーの父は孫正義ただ一人』 ソフトバンクが要請」という見出しの記事がありました。
https://digital.asahi.com/articles/ASL1R4WFQL1RULFA022.html
以前、ソフトバンクが開発リーダーとして発表していた某氏が、2015年に退社して別のロボット会社を設立したそうで、「広報担当者は23日、『リーダーという当時の紹介は誤りだった。おわびして訂正する』と話した」とのこと。「孫正義ではなく社外の人間が『ペッパーの父』とされることは、今後のブランド戦略上問題がある」のだそうです。また、某氏は「ペッパーの企画や技術開発等、いかなる点においても主導的役割を果たしたり、特許を発明したりした事実はない」のだそうで、「ロボット事業参入はソフトバンクの孫氏が決め、ペッパーのデザインや声、世界観なども様々な案の中から孫氏が決めた」のだとか。
まあ、経営者は自分の意向も強く反映させ、決裁もしたでしょうから、その通りかもしれませんが・・・。
某氏の方も「自ら『ペッパーの父だ』などと自己紹介したことはなく、父だと主張するつもりもない」のだそうです。
なんか大人げないなあ。こんな要請は企業イメージの毀損につながらないかなあ。ワンマンの典型だなあ。だれか忖度したのかなあ。こんな発表をさせられる広報の方もつらいだろうなあ・・・いろいろな思いが気分を暗くさせます。
このあたりが潮目か、週刊文春
2018.01.22文春砲などと呼ばれて、政治家や有名人から怖れられていた週刊文春にも潮目が来たかもしれません。小室哲哉氏のいわゆる不倫報道と、それに関連した本人の引退発表に対する社会の反応は、これまでとは大きく違います。
従来は、切れ味の鈍いレガシーメディアに対して、強烈なインパクトのある週刊文春の報道に多くの人々が支持を与えてきましたが、今回は矛先が文春の方に向けられています。返り血を浴びてしまいました。
その要因は、小室氏が有名人であっても私人であること。その私人のプライバシーを暴くことへの疑問。多くの音楽フアンが小室氏の才能を評価していたこと。夫人の重篤な病状とそれに対する小室氏の一定の介護と献身が認められていたこと。記者会見での小室氏の真摯な態度と明らかな疲労感。それらによって、介護をする人の苦労や孤独感に対して介護経験を持つ人たちからの共感が得られたこと等々。週刊文春の読者と、その二次情報を得た人たちにとって、今回の報道には「正義」が感じられなかったのでしょう。
文春砲への支持が失われ、影響力が殺がれることを一番喜んでいるのは、時の権力かもしれません。惜しいことをしましたね、週刊文春は。自爆してしまっては何にもなりません。
通じませんよ
2018.01.15広報のお手伝いをする仕事をしていると、当然のことながらさまざまな会社と出会います。一緒にお仕事をさせていただいて、とても気持よくスムーズにコトが運んだという会社はあまりなくて、やりにくいなあと感じながらも一生懸命お手伝いをして、その会社が求めるアウトプットが得られたら、それで100点と考えるべきだと思っています。そういう仕事なんですから。
いつも依頼を受ける広報セミナーのスライドの中に「 PR会社が、“やってらんない”クライアント 」という1枚を入れていたのですが、考えてみれば少々傲慢かなと反省して、次回から抜くことにしました。
しかし、一つだけここに書き残しておきます。それは広報に無知なクライアントさんとは仕事がしにくい、ということです。少なくとも広報活動、たとえば記者会見をしたいとかプレスセミナーをしたいとかお考えになるなら、広報の基本くらいはご存じでいていただきたいと切に思います。
広報についての知識をお持ちでない企業さんに共通するリスクがあります。それはジコチューになりやすいことです。自分たちの考えがそのまま世の中でも通じると考える会社が多いのです。それこそ広報の真逆のスタンスであることは、いまさらここで言うまでもありません。
書きにくいことながら
2017.12.20ここに書きにくいテーマというのがあります。たとえばHPVワクチンのこと。
研究者ではないので、各種の情報から類推するしかありませんが(これは多くの医師においても同じ)、接種は再開すべきだと考えています。それを前提としてですが、現在のワクチン推進派の活動はどうみても効果的とは言えません。
製薬企業は立場上、強くは発言できません。学会は声明を出し続けていますが、企業との癒着を疑われても困る、という心理が働いているのかもしれません。いま一つ力が入らないように見えます。メディアはかつて副反応について報道してしまった手前、手のひらを返したような報道もしにくいという心理が働いています。実際に取材をしている現場と上層部との確執なども耳にします。一方で、副反応を報じた記者が遠ざけられたという話もあります。
ワクチンの副反応を主張する人たちへの疑念を一貫して主張してきた評論家が、国際的な賞を受賞したそうです。この間、さまざまな中傷や誹謗と戦って来られたと推測します。素晴らしいことだとは思いますが、それをアピールし過ぎるのもいかがなものかと思います。アピールすることは全く正しい。しかし、やり過ぎるとかえって多くの反感を買って逆効果になるかもしれません、少なくとも日本の社会では。
企業の中でも正論を吐く社員は少なくありません。しかし、正論を主張し過ぎると左遷されてしまう。そういう例をたくさん見て来ました。自分が実現したいと考えていることは、単に主張するだけでは成功確率が低くなってしまいます。根回し、忖度、ごますりなど、ありとあらゆる手練手管を駆使して実現を図る。心にわだかまりは残るものの自己実現、そしてときには正義を、達成できます。
どちらがよいか、それはそれぞれの価値観で決めるべきものでしょう。ここでは書きにくいことですが、あえて・・・。
最近、新聞に関して耳にしたこと
2017.12.08
その1:あるCMプランナーの話。
新聞が読まれなくなったのは、テレビが地デジになったことが原因だというのです。デジタル放送用のテレビ受信機には番組表を表示する機能があるので、新聞のラテ欄が不要になったというわけです。そういうこともあるかもしれませが、いかにもCMプランナー的な発想だと、妙に感心してしまいました。
その2:WEBメディアの編集長から聞いた話。
通勤電車の中では、新聞の代わりにスマホでニュースを読む人が多くなりました。それで鉄道会社が喜んでいるというのです。読み終わった新聞が大量に捨てられていたので、その処理に苦慮していたのが、いまやすっかり少なくなったのだそうです。スマホとWEBメディアの普及が意外なところに影響しているんですね。
その3:どこかで耳にしたか、読んだかした話。
若い人で、新聞の宅配を契約している人はほとんどいなくなりました。そうすると、引っ越しのときに困るのだそうです。荷物の包装や緩衝材として、新聞紙はとても便利だったと改めて認識されているという話でした。
先日、自宅のパソコンが不調になりました。タワー型という、いまやヘビーゲーマーでなければ使わないような大きなマシンで、自分で組み立てたものです。修理に取りかかろうと物置を覗いたら、古新聞が1枚もありません。今朝、古紙回収に出したところだとのこと。フローリングの床を保護するのに、大きさといい、重ねたときの厚みといい、新聞紙が最適なのです。これにはほとほと困りました。そのうちコンビニで古新聞を売るようになるかもしれませんね。
マスクを愛する人たち
2017.11.30
マスクの季節になりました。最近はマスクをオシャレとして積極的に使う女性もおられるとか。以前、このブログで、マスクから出ている顔の上部はみな美人であるなどと、セクハラと叱られそうなことを書きましたが、それにお気づきの女性が増えて来たということでしょうか。
しかし、いかなる観点からもオシャレとは関係なさそうな人たちがマスクを愛用しているのに気づきます。たとえば電車の運転手や車掌さん。空気が悪い地下鉄ならともかく、郊外を走る電車でもしばしば見かけます。カゼの予防でもあるのでしょうが、乗客からジロジロ見られるのがイヤだということもあるのではないか、と邪推しております。そう言えば、警官もマスクをしている人が多いようです。これはなぜだかよくわかりません。
箱の方をほしがる人
2017.11.20きれいな化粧箱に収まったクッキーや干菓子をいただいたら、多くの人はその中身のお菓子に興味を持ちます。ところが、中身はそっちのけで、きれいな箱の方に興味を持つ人もいます。「お菓子はいいから、箱は私にちょうだいね」という人がいますよね。
この比喩が適切だったかどうかわかりませんが、物事の本質にはさっぱり興味を持たずに、外形的な部分だけに関心を寄せる人が世の中には存在します。
もう一つたとえ話をするなら、テレビでドラマを一緒に見ていたとします。そのストーリー展開やそこに込められた問題提起などには一切関心を持たず、出演している俳優さんが誰の息子だとか、あのタレントと恋愛関係にあるとか、学校時代の友人のそのまた友人のクラスメートだとか、そんなことばかりに関心が向く人です。それもドラマの楽しみ方の一つだと言われれば、反論のしようもありませんけど。
どうしてそうなるのか理解できないのですが、物事の本質を考える方が難しく、頭を使います。周辺の諸事を漁る方がより簡単で楽なのだろうと思います。
頭が高い
2017.11.02日産に続いてスバルも資格のない検査員が完成検査をしていたことが明るみに出ました。
日産がこの件を初めて発表したのは広報部長さんで、事を重大視していないような態度だったとか容姿や服装がどうとかと批判されました。次に社長さんが記者の前に登場しましたが、日本企業の謝罪会見とはちょっと異なる雰囲気でした。着席せずに発表をしたのはともかくとして、要するに頭が高かった。それを“攻めの広報”だとネットメディアで好意的に論じる人がいましたが、どうなんでしょう。
ところが、記者会見の後も、資格のない人が検査を続けていたとのことで、また社長会見となり、出荷停止に至りました。このときの社長さんも少々頭が高かった。頭を下げられない人なのかもしれません。日産もいまや「外資系」で、欧米流の価値観の中で仕事をしていると、自然にそれに染まってしまうのでしょう。
一方でスバルの社長は憔悴した様子で記者会見に臨みました。日産と比べて悪性度が低いということもあるのでしょうが、メディアの論調がなんとなく同情的です。「スバルよオマエ(まで)もか」というのは好意の発露とも考えられます。企業や経営者が常日頃、メディアから好意的に見られていたことが推測されます。この違い、広報の基本のキを考えるよい教材です。
ちなみに私事ながら、筆者はリコールされるであろうスバル車のオーナーであります。
政党のTwitter
2017.10.16仕事柄、mixi、Facebook、Twitter、Instagramなど、SNSには初期からアクセスしてきましたが、Twitterは、電車が止まってしまったときの情報収集くらいしか有効活用していませんでした。しかし近頃はTwitterの勢いがよいとのこと。もう少し深く理解するため、アクセス頻度を増やそうと考えているときに、総選挙になりました。
そこで自由民主党、希望の党、立憲民主党をフォローしてみることにしました。
以前からTwitterを広報活動に活用したいという企業さんに申し上げてきたことは、「お知らせ」を投稿するのもいいけれど、それだけでは大した効果は望めないこと、もう一つは、実際に運用してつぶやく人材によって効果に大きな違いが出るということです。ITに詳しい方なら常識です。
で、3党なんですが、自民党は「お知らせ」の範囲をまったく出ていません。それに比して、立憲民主党はSNSの使い方をよく理解しています。自党を応援するツイートを細かくリツイートして、お礼をつぶやいたりフォローしたりしています。「中の人」と呼ばれる担当者の人柄もよく反映されています。上から目線にならないように注意深く言葉を選んでいます。誤りはすぐに訂正しています。短期間に多くのフォロワーを集めたことが納得できます。希望の党は2党の中間。ちょっと自民党寄りですかな。これって、政治スタンスと同じじゃないの?
政治の世界の自己実現
2017.10.06「自己実現」という言葉が日本で一般に使われるようになったのが、いつからなのかわかりませんが、初めて耳にしたときの違和感がいまだに残っています。
ああなりたい、こうしたい、こうでありたい、自分の思うようにしたい・・・哲学的な自我の問題はさておき、一般的にはこのような欲求を実現することを指して使われているようです。
それがいかに浅薄な解釈であっても、これから社会で活躍しようという若い人たちにとっては、決して悪いことではない。自己をアクセレレートする動機にもなるだろうと考えています。
しかし、政治の世界ではどうでしょう。よりよい社会をつくることが自分の目的で、その実現のために活動しているのだ、というのでしたら結構なんですが、周囲からセンセイ、センセイと呼ばれたいとか、大臣になりたいとか、権力を握りたいとか、そのような利己的な目的を実現しようとしているのだとしたら、自己実現ほど迷惑なことはないですね。
昨今のニュースを見ながら、あのときの違和感はここにつながっているのだ、と気がつきました。